第十三話 黒瀬、突然小春の部屋へ
ある日の夕方。
看護科の授業が終わり、小春は美咲と一緒に部屋でレポートをしていた。
「今日のレポート終わりそう?」
美咲がベッドに腰掛けながら聞く。
「考察だけです。」
「その『考察だけ』が一番長いんだよ。」
「そうなんですよぉ……。」
机の上には看護学の教科書。
付箋だらけのノート。
人体模型のミニチュア。
女の子らしいルームフレグランスの香りが漂う、可愛らしい部屋。
そこへ。
コンコン。
ノックの音。
「はい!」
小春が扉へ向かう。
ガチャ。
「……え。」
扉の前に立っていたのは。
黒瀬だった。
ジャージ姿。
スポーツバッグを肩にかけたまま、いつもの無表情で立っている。
「小春。」
「く、黒瀬先輩……!?」
その声を聞いた美咲が振り返る。
「誰?」
入口まで歩いてきて。
黒瀬と目が合った。
「…………。」
時間が止まる。
「……。」
「……。」
次の瞬間。
「く、黒瀬先輩ぃぃぃぃ!?」
美咲はその場にへたり込んだ。
「え!?え!?なんで!?」
「どうしたんですか!?」
小春も完全にパニック。
黒瀬だけが首をかしげている。
「差し入れ。」
紙袋を持ち上げる。
中にはコンビニで買ったプリンと牛乳。
「実習で疲れとるかなと思って。」
静かな一言。
小春の顔がみるみる赤くなる。
「わ、私にですか?」
「うん。」
「ありがとうございます……!」
両手で受け取る姿は、小動物みたいだった。
その横で。
美咲はまだ立ち上がれない。
「黒瀬先輩が……うちの部屋に……。」
「美咲先輩!」
「心臓が……。」
黒瀬は困ったように小春を見る。
「来たらまずかった?」
「まずくないです!」
小春が即答する。
「でも!」
「でも?」
「心の準備がありませんでした!」
その返事に。
黒瀬は珍しく笑った。
「来たかったから。」
あまりにも淡々とした返事。
黒瀬の笑顔と一言で、小春の顔は耳まで真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
小春は勢いよくドアを閉めた。
廊下に残された黒瀬。
「……?」
部屋の中では大騒ぎだった。
「小春!!」
「どうしよう美咲先輩!!」
「机!机片づけて!」
「このぬいぐるみここでいいですか!?」
「洗濯物ない!?確認して!」
「黒瀬先輩待たせてる!!」
二人で部屋中を右往左往。
三十秒ほどして、ようやくドアが開く。
「お、お待たせしました……。」
黒瀬は部屋を見て、それから慌てふためく二人を見比べた。
「そんな慌てんでも。」
その穏やかな声に、美咲まで照れてしまう。
「す、座ってください!」
「ありがとう。」
黒瀬は部屋へ入る。
黒瀬は部屋を見回した。
白を基調にしたカーテン。
可愛いマグカップ。
参考書が積み重なった机。
「……。」
「どうしました?」
「いい部屋。」
たったそれだけ。
小春は照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。」
黒瀬は机の上の分厚い教科書を見つける。
「勉強しよるんやね。難しい?」
「はい。」
「でも好き。」
「なんで。」
「人の役に立ちたいからです。」
迷いなく答える小春。
その横顔を見て、黒瀬は少しだけ目を細めた。
「小春らしい。」
しばらく三人で話していると。
館内放送が流れた。
『消灯十分前です。』
「あっ!」
小春が時計を見る。
「もうこんな時間!」
黒瀬は立ち上がる。
「帰る。」
「ありがとうございました。」
小春は深く頭を下げた。
「プリン、美味しく食べます。」
「うん。」
扉まで見送る。
黒瀬は廊下へ出る前、一度だけ振り返った。
「レポート。」
「はい。」
「頑張って。」
「はい!」
元気いっぱいの返事。
黒瀬は満足そうに小さく頷いて歩いていった。
扉が閉まる。
静寂。
「……。」
「……。」
美咲が小春を見る。
小春が美咲を見る。
そして同時に。
「はぁぁぁぁぁ……。」
大きなため息。
「小春。」
「はい。」
「今の、普通じゃないからね。」
「そうなんですか?」
「普通、三年生の黒瀬先輩が一年生の部屋に突然来ない。」
「……。」
「しかも差し入れ持って。」
「……。」
「しかも実習の心配して。」
小春は少し考えて。
両手で顔を覆った。
「……好きです。」
「知ってる。」
「もっと好きになりました。」
「それも知ってる。」
美咲は笑いながら机に向き直る。
その夜。
プリンを食べる小春は終始にこにこしていた。
そして翌日。
サッカー部二年の奈央は黒瀬を見て、何気なく聞く。
「昨日、小春ちゃんの部屋行ったんですか?」
「うん。」
「なんで?」
「プリン渡しに。」
「……。」
奈央は空を見上げた。
「黒瀬先輩。」
「ん?」
「それ、もう好きな人にしかしません。」
黒瀬は首をかしげる。
「そうなん?」
「そうなんです。」
その答えに。
周りの部員たちは一斉に笑い出した。
まだ誰よりも鈍感な三年生と。
誰よりも一途な一年生。
二人の距離は、毎日少しずつ縮まっていくのだった。
「そういえば小春ちゃんの部屋行くとき連絡したんですか?」
「してない。」
「えっ!?」
「その方がおもろいかなって。」
部員たちは一斉に笑い出す。
「黒瀬さん、たまに天然出ますよね。」
「自覚ない。」
その頃、小春の部屋では――。
ドアがノックされるたびに、小春と美咲が同時に顔を見合わせるようになっていた。
「……まさか。」
「また黒瀬先輩?」




