第十話 初めて黒瀬の部屋へ
女子寮には、不思議な空気がある。
違うフロアを歩くだけで緊張する。
ましてや先輩部屋に入るなんて、滅多にない。
小春にとって、黒瀬の部屋はそんな場所だった。
「絶対に無理です……。」
夕食後、自室でレポートを書きながら小春はぽつりと呟く。
美咲が教科書から顔を上げた。
「何が?」
「黒瀬先輩のお部屋です。」
「行く予定あるの!?」
「ありません。」
即答。
「でも、もし『来て』って言われたら?」
「倒れます。」
「そこまで?」
「そこまでです。」
美咲は笑いをこらえながら頷いた。
「うん。小春なら本当に倒れそう。」
数日後。
夜の点呼が終わり、各部屋へ戻る時間。
小春が廊下を歩いていると、前から黒瀬が来た。
「小春。」
「は、はい!」
名前を呼ばれただけで背筋が伸びる。
黒瀬は静かに言った。
「今から部屋来れる?」
「…………え?」
頭が真っ白になる。
「差し入れある。」
「えっ。」
「奈央もおる。」
「えっ。」
「来る?」
小春の口がぱくぱく動く。
返事が出ない。
その様子を見た黒瀬は少し首をかしげた。
「無理ならいい。」
「い、行きます!」
反射だった。
「お邪魔します!」
と言ってから、自分でも何に返事をしたのか分からなくなる。
部屋へ戻るなり、小春は固まった。
「美咲先輩。」
「ん?」
「黒瀬先輩のお部屋に呼ばれました。」
「へぇ。」
「……。」
「……。」
数秒後。
「えぇぇぇぇぇぇ!?」
美咲が立ち上がる。
「本当に!?」
「はい……。」
「何で!?」
「分かりません!」
「私も分からない!」
二人で慌て始める。
「髪、大丈夫?」
「服しわになってませんか?」
「変な匂いしない?」
「大丈夫ですか!?」
鏡の前を行ったり来たり。
その様子に同じフロアの一年生たちまで集まってきた。
「小春ちゃんどうしたの?」
「黒瀬先輩の部屋行くらしい!」
「えぇ!?」
ちょっとした騒ぎになった。
三階フロア。
小春は深呼吸を繰り返しながら歩く。
「緊張する……。」
ドアの前。
コンコン。
「し、失礼します……。」
「開いとる。」
静かな声。
小春がそっと扉を開ける。
部屋に入った瞬間、ふわりと爽やかな柔軟剤の香りがした。
スポーツバッグ。
スパイク。
筋トレ用のチューブ。
棚には戦術ノートやサッカー雑誌。
壁には試合の写真。
自分たちの部屋とは全然違う。
思わずきょろきょろ見回してしまう。
「そこ座りぃ。」
黒瀬がベッドを指さす。
でも小春は首を振って、部屋の隅にちょこんと体育座りをした。
「そこ落ち着くの?」
「……なんか緊張して。」
黒瀬は小さく笑って、スポーツドリンクを一本放った。
「ありがとございます!」
その姿を見ていた奈央が吹き出す。
「小春ちゃん!」
「は、はい!」
「めちゃくちゃ固まってるじゃん!」
「すみません!」
「怒ってない怒ってない!」
奈央はお腹を抱えて笑う。
黒瀬もその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。
「もっとこっち。」
「えっ。」
言われるまま少しだけ移動する。
それでも距離は遠い。
黒瀬は何も言わず、小春の隣へ腰掛けた。
肩が触れそうで触れない。
小春の心臓だけが忙しい。
「はい。」
黒瀬が紙袋を差し出した。
中には文化祭で人気だった焼き菓子。
「美味しかったけん。」
「私にですか?」
「うん。」
「ありがとうございます……!」
両手で受け取る小春。
宝物みたいに抱きしめる。
奈央はその光景を見て、思わず苦笑した。
「黒瀬先輩。」
「ん。」
「小春ちゃん、焼き菓子じゃなくても喜びますよ。」
「そうなん?」
「黒瀬先輩からもらえたら何でも喜びます。」
「奈央先輩!」
真っ赤になって抗議する小春。
奈央は笑いが止まらない。
少しずつ会話が増える。
好きな授業。
地元の話。
サッカーのこと。
看護実習のこと。
気づけば一時間近く経っていた。
「じゃあ、そろそろ。」
小春が立ち上がる。
その瞬間。
床に置かれていたダンベルにつま先が当たった。
「あっ!」
ぐらり。
転びそうになる。
「危ない。」
黒瀬が咄嗟に腕をつかむ。
しっかりした手。
ぐっと引き寄せられる。
気づけば、小春は黒瀬のすぐ近くにいた。
「だ、大丈夫?」
「は、はい……。」
近い。
近すぎる。
小春は耳まで真っ赤になって俯いた。
黒瀬はすぐに手を離す。
「ごめん。」
「い、いえ!」
奈央は腕を組んで天井を見上げた。
「青春だなぁ……。」
部屋を出たあと。
小春は自室までの廊下をふわふわした足取りで歩いていた。
ドアを開ける。
「ただいま戻りました。」
美咲が振り向く。
「おかえり。」
「……。」
「どうだった?」
小春は数秒黙ったあと、ぽつりと呟いた。
「黒瀬先輩のお部屋、すごくいい匂いでした。」
「そこ!?」
美咲は思わず笑い転げる。
「普通、もっと話すことあるでしょ!」
「あと、ダンベルにつまずきました。」
「うん。」
「転びそうになったら助けてもらいました。」
「うん。」
「……好きです。」
「知ってる。」
その夜。
小春は焼き菓子の袋を机の上に飾ったまま眠りについた。
それを見た美咲は小さく笑う。
「重症だなぁ。」
窓の外では、春の夜風が静かにカーテンを揺らしていた。
それから数週間。
小春はちょくちょく部屋へ遊びに来るようになった。
最初は部屋の隅が定位置だった。
それが机の横になり、
気づけばベッドの端に座るようになった。
黒瀬も何も言わない。
それが自然だった。
物理的な距離が縮まるにつれ、
2人の仲も深まっていった。
ある日。
黒瀬は床に座って試合映像を見ていた。
小春は飲み物を持って部屋に入り、迷うことなく黒瀬の側へ。
そして何も言わず、黒瀬の足の間に腰を下ろした。
黒瀬にすっぽりはまって膝を抱える小春。
「……寒い?」
「ちょっとだけ。」
黒瀬は近くに置いてあったブランケットを取って、小春をふわりと包んだ。
「ありがとう、先輩。」
そのやり取りはあまりにも自然だった。
奈央は本から顔を上げる。
(え……。)
声もかけず。
確認もせず。
まるで長年そうしてきたみたいな動き。
小春も、何のためらいもなくその場所に収まっている。
「……黒瀬さん。」
「ん?」
「そんな距離近かったでしたっけ?」
黒瀬は映像から目を離さず答える。
「ん?」
本人たちは気づいていない。
でも奈央には分かった。
小春にとって一番落ち着く場所は黒瀬のそばで、
黒瀬にとっても、小春が隣にいることはもう特別ではなく、当たり前になっている。
それ以来、奈央はそんな二人を見ても驚かなくなった。
部屋のドアが開けば、
「あ、小春ちゃん来た。」
そう思うだけになっていた。




