第九話 体育祭
高校生活にも少しずつ慣れてきた頃。
校内は体育祭ムード一色だった。
グラウンドにはテントが並び、朝から学生たちの声が響いている。
看護学科一年の小春は、クラスメイトと一緒に準備をしていた。
「小春!」
「はーい!」
「借り物競走出るんだよね?」
「うん!」
「頑張って!」
「任せて!」
いつもの明るい笑顔。
そんな小春の視線は、気づけばサッカー部のテントへ向いていた。
黒瀬がいる。
ジャージ姿で後輩たちに指示を出す姿は、今日も変わらず格好いい。
「……かっこいい。」
思わず小さく呟く。
その声を聞いた麻衣が笑う。
「また黒瀬先輩?」
「うん。」
「本当に好きなんだね。」
「うん。」
迷いなく頷く小春だった。
午前の競技が終わり、午後。
借り物競走の時間になった。
一年生の部。
二年生の部。
三年生の部。
順番に進んでいく。
一年生の部。
一年生女子の借り物競走。
スタートラインに立つ小春は、緊張で手が震えていた。
「小春ー!」
美咲が2年の応援席から手を振る。
「頑張ってー!」
「はい!」
ピストルの音。
小春は一生懸命走り出す。
封筒を拾う。
紙を開く。
そこに書かれていた言葉は――
『一番かっこいいと思う人』
一瞬だけ止まる。
次の瞬間。
小春は迷わず走った。
一直線。
サッカー部テントへ。
「黒瀬先輩!」
周りがざわつく。
「やっぱり!」
「迷いゼロ!」
黒瀬は座ったまま首をかしげる。
「どうした。」
小春は紙を差し出した。
「一緒に来てください!」
紙を見る。
『一番かっこいいと思う人』
黒瀬は少しだけ笑う。
「ん。」
立ち上がる。
身長差。
歩幅の違い。
小春は小走りになる。
その姿が可愛くて、会場中が笑顔になった。
ゴール。
審判が紙を確認する。
「借り物成功!」
拍手。
司会がマイクで叫ぶ。
「ちなみに花井さん!本当に黒瀬先輩が一番かっこいいんですか?」
小春はマイクを向けられ、一瞬固まる。
そして。
「はい!」
即答。
「世界で一番かっこいいです!」
会場、大爆笑。
サッカー部は机を叩いて笑う。
奈央はお腹を抱える。
「小春ちゃん最高!」
黒瀬だけが耳を少し赤くしていた。
競技後。
「先輩!」
「ん。」
「付き合ってくださってありがとうございました!」
「いいよ。」
「かっこよかったです!」
「知っとる。」
「え?」
「嘘。」
珍しく小さく笑う黒瀬。
その笑顔を見た小春は、その場にしゃがみ込んだ。
「無理です……。」
「なんで?」
「好きすぎます……。」
黒瀬は困ったように頭をかいた。
その様子を見た奈央は小さく呟く。
「両片思いって、こういうことか。」
そして、三年生の番。
観客席からも歓声が上がる。
「黒瀬先輩だ!」
「速い!」
スタートの合図と同時に、黒瀬は真っすぐ封筒へ走った。
紙を開く。
一瞬だけ目を落とす。
そして周囲を見渡した。
紙に書かれていた言葉は――
『可愛い子』
ざわつく会場。
誰を選ぶのか。
女子学生たちが少しそわそわし始める。
黒瀬は迷わなかった。
一直線。
看護学科のテントへ向かう。
「あ。」
小春と目が合う。
「小春。」
名前を呼ばれた。
「えっ……わ、私ですか?」
「来て。」
小春は慌てて立ち上がる。
友達に背中を押されながら黒瀬の前へ。
「で、でも……。」
「時間ない。」
黒瀬はそう言うと、小春の前にしゃがんだ。
「え?」
「掴まってて。」
「えぇぇ!?」
会場がどよめく。
小春が戸惑っている間に、黒瀬はひょいと小春を抱き上げた。
お姫様抱っこ。
「きゃっ!」
小春は反射的に黒瀬の首へしがみつく。
顔は真っ赤。
耳まで真っ赤。
「せ、先輩っ……!」
「落ちる。」
「落ちませんっ!」
「ちゃんとつかまって。」
「はいぃ……!」
黒瀬はそのまま軽々と走り出した。
グラウンド中から歓声が上がる。
「うわぁ!」
「黒瀬先輩やば!」
「小春ちゃん可愛い!」
「映画みたい!」
ゴール。
審判が紙を確認する。
「借り物成功!」
拍手が湧き起こった。
黒瀬は静かに小春を降ろす。
足が地面についた瞬間、小春はしゃがみ込んでしまった。
「だ、大丈夫?」
美咲が駆け寄る。
「……無理です。」
「どうしたの?」
「恥ずかしすぎます……。」
顔を両手で隠したまま、小春は動けない。
そんな姿を見て、サッカー部二年の奈央が大笑いした。
「小春ちゃん、顔トマトじゃん!」
「奈央先輩ぃ……。」
「黒瀬先輩、容赦ないなぁ。」
周りの部員たちも笑っている。
その中心で、黒瀬だけはきょとんとしていた。
「なんで照れるん?」
奈央は呆れたように肩をすくめる。
「黒瀬先輩。」
「ん?」
「好きな人にお姫様抱っこされたら、誰だって照れます。」
「そうなん?」
「そうなんです。」
「……知らんかった。」
真面目な返事に、その場はさらに笑いに包まれた。
競技終了後。
小春は一人で校舎裏のベンチに座っていた。
まだ鼓動が速い。
両手で頬を押さえる。
「もう無理……。」
そこへ静かな足音が近づく。
「小春。」
顔を上げると、黒瀬だった。
スポーツドリンクを一本差し出す。
「お疲れ。」
「ありがとうございます……。」
受け取る手が震える。
黒瀬は隣に座った。
少しだけ沈黙。
風が二人の間を通り抜ける。
「嫌やった?」
黒瀬がぽつりと聞く。
小春は勢いよく首を横に振った。
「ち、違います!」
「ならよかった。」
それだけ言って立ち上がる。
歩き出した背中を見つめながら、小春は小さく呟いた。
「……もっと好きになっちゃいました。」
その言葉は風に乗って消えた。
だから黒瀬には届かない。
けれど少し離れた場所で一部始終を見ていた奈央は、腕を組みながら苦笑した。
「黒瀬先輩。」
「ん?」
「そのうち本気で小春ちゃん取られますよ。」
黒瀬は首をかしげる。
「誰に?」
「だから、その鈍感さなんですよ。」
奈央はため息をついた。
春はまだ終わらない。
恋もまだ始まったばかり。
だけど、この日の借り物競走は、寮中で何年も語り継がれる伝説になるのだった。




