第9話 食思
東家に会ってから三日が過ぎた。
依然としてあの男が現れる様子はない。もしかしたら本当に見逃してくれたのかもと期待しつつ、宗治郎が周囲への警戒を解くのを待っているだけのようにも思える。
未羽から離れる瞬間を狙われているのではないか。そう考えると、いつまで経っても自由に行動できない。宗治郎の神経はまったく休まらなかった。
そして、そういう落ち着きのなさというものは、自然に生きる動物は敏感に感じ取るもので。
「ごめんな未羽。もしかしたら今日もメシ抜きになるかもしんねえ」
トトト、と小さな音を立てて、罠のすぐ近くまで来ていたウサギが去っていく。
追いかけて捕まえようにも、昨日降った大雨のせいで地面がぬかるんでいる。足を取られて斜面から転がり落ちることは避けたかった。
「そちゃ、しっぱい」
「はは。ほんと、失敗ばっかだな」
宗ちゃん、という発音が苦手らしい。子どものような話し方をする未羽に、宗治郎は笑って返す。
飛び出た木の根っこに座っている未羽は、宗治郎が動物を獲るのにしくじるたびに指摘した。表情も抑揚もないので、捕えられないことに怒っているのか面白がっているのかは想像するしかない。
「村でやってたときは結構な確率で捕まえられたんだけどな」
罠を回収しながら軽く愚痴をこぼす。
百発百中とまでは言えないが、宗治郎はそれなりに上手いほうだったと自負している。こんなに罠にかからないのは狩りを最初に教えてもらったころ以来だ。
「未羽が近くにいるせいかもなー」
冗談交じりに言ってみると、未羽は心外だとばかりに頬をふくらませてみせた。
「みる、みない、おなじ。そちゃ、へた」
風船みたいになった頬を強調してくる。可愛らしい行動だが、目に生気がないため少々怖い。
「そだな。俺が下手だった、ごめんなさい」
暗くなる前に移動するべく、宗治郎は未羽を促して立ち上がった。
「腹減ったな」
前を歩かせている未羽に言うと、短い相槌が返ってきた。
東家にもらった肉を最後に、宗治郎はほとんどなにも食べていない。狩りは失敗するし、桑の木はいくつか見たが実の落ちる時期なので食べられず。
釣りを考えたが、赫村から繋がる川には毒を持った魚がいる上、数も少ない。長い時間、開けた場所にいてあの男に出くわしたらと思うと、できるだけ草木に隠れていたかった。
「未羽、今日も野草を探そうか」
前を歩く未羽がぴたりと止まる。振り返って、宗治郎を無表情で見上げた。
「ほら、未羽も腹減ったろ? 生肉以外にも食べられるかもしれないし」
未羽の偏食ぶりをどうにかすべく提案する。
炙った肉を避け、生肉を食べた未羽は、宗治郎がどんなに頑張って野草やキノコを探してきても食べなかった。水も一滴すら飲んでいない。なにか口にしてもらわないと心配になる。
「にく」
未羽は頑として肉を選ぶ。
「草じゃダメか」
「にく」
「キノコは?」
「にく」
「……魚」
未羽は口を閉じ、少し考える仕草をしてから頷いた。よし。
「魚も釣れなかったら草にするからな」
周囲への警戒を一層強くして、隣に並んで歩き出す。未羽がちらりと後ろを見た。
「はやく消えないかなあ……」
その言葉だけは、未羽ははっきりと言えるのだ。
宗治郎は未羽が見ているほうへ顔を向ける。彼女はこの言葉を言うとき、いつも遠くにある高い木の上部を見ている。
そこになにがあるのか、宗治郎には見えないし感じとれない。ただ、無表情なはずの未羽の顔が憎悪に歪んでいるような気がして、はやく消えてくれと、同調せずにはいられない。
結論から言うと、魚は獲れなかった。餌にしようとミミズを捕まえるたびに未羽にひったくられ、食べられたからだ。子どものようないまの未羽に、ミミズと魚の関係を話しても納得してもらえない。
野草を探そうにも日が落ちてしまって大して見つけられず、とにかく明日の体力を温存するために早めに横になった。
事はその日の夜中に起きた。
空腹のあまり眠れなくて、目を休めているだけだったときだ。隣で一緒に寝ていた未羽が起き上がったのがわかった。
「未羽?」
未羽も眠れないのだろうかと、宗治郎は目を開けて声をかけた。名を呼ばれた未羽はやたらとゆっくりこちらへ顔を向ける。四つん這いの状態で宗治郎のすぐ近くまでやって来た。
「そ、そ、ちゃ。おき、お……おき、てる?」
日中よりも聞き取りづらい言葉で問いかけてくる。未羽の顔が、宗治郎の顔の真上にくる。
「起きてるよ。どうした」
とろんと眠そうな、虚無の瞳。閉じかけていた瞼が開いて、未羽は唇をほんの少しだけ尖らせた。
「お、おお、き、おきてる、の?」
どうして、そんなに残念そうなのか。
「おき、てる、ね。ごめ、んね」
なぜ、謝るのか。
月の光を背負った未羽は、顔を離してもう一度宗治郎を見下ろした。
「そちゃ、め、つぶ」
「……つぶ?」
「め、とじる」
――目を閉じて。
生前の未羽の声を思い出す。未羽は眠れないとき、よく宗治郎の布団の中に潜り込んできた。
起こしてごめんね、と言って、そっと目元にキスをする。たまらずこちらからもキスをする。口付けはどんどん深くなって、未羽の細い体を抱き寄せてから了承を得る。
別室とはいえ、親にバレないかとヒヤヒヤしながら愛し合ったのだ。
彼女はもう、生きていない。しかし未羽である以上、行動は同じなのではないか。
求めてくれているのならと思って、宗治郎は未羽の言うとおりに瞼を閉じた。
そちゃ、と宗治郎を呼ぶ声。ふわりと近づいてくる気配。落とされた、瞼への口付け。
宗治郎の目尻に涙が浮かぶ。その涙を奪い取るように未羽の唇が触れる。
やがて彼女は、宗治郎の胸元へ顔を乗せてきた。ひんやりとした未羽の頬が布越しに触れて気持ち良かった。
「そちゃ」
呼ばれ、目を開ける。未羽の手が宗治郎の顔の横に置かれ、宗治郎を見下ろしてくる。
「そちゃ……食べて、いい?」
その問いに、違和感を覚えなかったのは。彼女が未羽本人であると信じこもうとしていたからだ。
「いいよ」
食べるという言葉が、そのままの意味でも、比喩でも、どちらでもいい。未羽の好きにさせてやりたかった。
彼女の長い髪が、宗治郎の頬や肩に触れた。
彼女の顔が、そっと下りてくる。
彼女の口がこれまでよりも大きく開かれて、くちゃ、と湿った音がする。小さな牙のようなものが見えた。
――喰われたか。
あの男の言葉が蘇る。
「うぎゃっ!」
牙が宗治郎の喉笛に突き立てられるその瞬間、未羽が声を上げて後ろに倒れた。宗治郎はハッとして起き上がった。
そこには、胴体に巻かれた黒いものに苦しむ未羽の姿があった。
腹を押さえ、もう片方の手で自分の首を掴み、体を丸めてよだれを垂らしている。ビクリビクリと痙攣を起こしている。
「未羽!」
苦しむ彼女のそばへ駆け寄って、宗治郎は未羽の首から手を離させようとした。しかし、どれだけ力を入れても未羽の手は離れない。
ギリ、ギリと、首が締まっている音がする。
明らかに未羽でない者の意思が彼女を動かしている。
「そちゃ……」
腹に当てていた未羽の手が宗治郎の服を引っ張った。苦しいのだろう、すごい力だ。
「そちゃ、そちゃ……これ、くるしい、そちゃ」
未羽はぽろぽろと涙を流した。これ、と言いながら未羽が示したのは、首ではなく、腹に巻かれた黒いもののほうだった。
爪を立てて、必死に剥ぎ取ろうとしている。
宗治郎は思い出した。あの日あの男は、未羽の腹に巻かれたこの黒いものを『外すな』と言ったのだ。『自由にさせるわけにはいかないから』と。
つまり未羽がこうなっている原因は、あの男が付けたのだろう、この黒いもの。
「くそっ……!」
引きちぎろうにも、あのときと同じで触れることができない。宗治郎の指は黒いものに掠りもしない。
自分の無力さに腹が立って、宗治郎は地面に拳を叩きつけた。
なにもできないまま、時間だけが過ぎていった。真っ暗だった辺りがほの明るくなったころ、未羽の痙攣はようやく止まった。
嘘のように未羽の手から力が抜けて、締め付けていた首が開放される。未羽はぐったりとして動かなくなった。
「そちゃ……」
聞き逃してしまいそうな小さな声が宗治郎を呼ぶ。
「おなか、すいた。なか、すいた」
くるくると小さな腹の音がした。
宗治郎は乾いた喉を唾でどうにか湿らせてから、そうだなと応じた。
「今日は、絶対に肉食べさせてやるから。もう少しだけ辛抱な」
宗治郎は未羽に休んでいるよう言って立ち上がる。狩りの準備をして、獲物に逃げられないよう張り詰めた意識を緩めていく。
未羽がもし、空腹に耐えられなくなって宗治郎を食べようとしたのなら。それがトリガーとなって黒いものが未羽を苦しめるのなら。
いますべきは、一刻も早く未羽へ食べ物を渡してやること。それから、黒いものを剥がすための努力だ。
【第9回 豆知識のカモメ】
墨師は悪者にされやすい
「ちょっといいですか。当主様がすごく悪いやつみたいに思われてます」
「喰われんようにしてやってるのになあ」
「当主様の行いは正しいのに、なんでこんなに悪いやつみたいになってるんですか」
「まあ好きな女子の首締められたらなあ」
「首を喰おうとしたなら首に仕置きをするのは当たり前です。というか、あいつ自ら喰われに行ってますよね。マ〇なんですか」
「マ〇……?」
「覚えなくていいです」
「なあカモメ、お前さん私のことバカだのアホだの言う割に言葉の意味を教えようとせんよな」
「覚えなくていいから教えないんです」
「いやいや、若いもんに負けんよう新たな言葉を……」
「うるさいクソ当主。覚えようとするな」
「なんで怒るんだ」
「もういいから黙っててください」
「お前の情緒がたまにわからんよ」
お読みいただきありがとうございました。
《次回 見てはならないもの》
人間を演じる彼女の人間でない証明。
どうぞよろしくお願いいたします。




