第10話 見てはならないもの
罠を張ってから数時間後、なんとかウサギを獲ることができた。未羽の食べられるものが得られてほっとする。
行き過ぎた空腹が早く食べるよう訴えかけてくるが、未羽を長い間ひとりにすることもできず、宗治郎は急いで仮の塒へと戻った。
「未羽、獲れたぞ」
うさぎの耳を掴んだまま前に突き出すと、仰向けに寝ていた未羽が勢いよく起き上がった。動けるくらいには元気になったらしい。
四つん這いの状態でこちらへ来た未羽は宗治郎の頭へ手を伸ばしてきた。それからなにかに気づいて一度引っ込めて、自分の服で泥を拭ってから再度手を伸ばす。べし、と頭をはたかれた。
「そちゃ、えらい」
宗治郎は苦笑した。怒られたのかと思った。
「お褒めいただきまして。未羽は大丈夫だったか? 俺のいない間にあの男が来たりしてないか」
周りを確認しながら訊く。未羽はこくりと頷いた。いつものように遠くの高い木の上のほうを見て、宗治郎にもわかるよう指さした。
「あいつ、あそこ」
「……木のとこ?」
「あそこ、いる。ずっといる。ずっと、こっち、みてる」
ずっと? とオウム返しをすると、未羽はまた頷いた。
あの男がそこにいるかなど宗治郎には確認のしようがない。でも一日中、木の上にいるなんてこともないだろう。バレないよう近づいてくるのではないかと危ぶむ宗治郎の隣で、未羽は確信した声で言った。
「早く消えないかなあ」
腹に巻かれた黒いものに手を添えて、未羽は苛立ちを滲ませた。流暢な言葉や刺々しい表情が、宗治郎を不安にさせた。
「メシにしよう。食ったらその黒いの外す方法考えようぜ」
太い枝を並べて作った台の上にウサギを置いて、持ち歩いている石で手早く捌いていく。初めは丸かった川の石だが、使い勝手を良くするために割ったり削ったりしていくうちに肉が裂けるほど鋭利になっていた。
宗治郎は自分が動くために必要な最低限だけを残して、捌いた肉のほとんどを未羽へ渡した。未羽はやはり上品に座って、生の肉を汚く食べた。
「そちゃ、これね、ぎゅーってなるの」
食べ終わってから一段と流暢に喋るようになった未羽は、宗治郎に黒いものの感覚を共有してくる。木の根に座って身振り手振りで説明する。
「服がね、ぎゅーってね、入ってくる感じがするの」
「服が入ってくる感じなのか?」
「そう。お腹にね、服がね、ぎゅーって」
宗治郎はまさかと思って未羽の黒いものに手を押し当てた。相変わらず触ることができない。黒いものに触るつもりが、宗治郎の手は未羽の服を掴んでいる。
「錯覚……?」
宗治郎は愕然とした。どうして気づかなかったのだろう。未羽の腹に巻かれた黒いものは、精巧に描かれた蛇のような『絵』だった。
巻きついている、触れられると本気で思えるほどの立体感。布地の重なりも相まって、横から見ても質量がしっかりあるように見える。
指先で黒い絵と未羽の作務衣の触り心地を確かめると、黒い絵のほうは、和紙に墨汁を垂らしたような独特の滑らかさがあった。もしこれが、墨で描いただけの絵だったとしたら――。
「未羽、ちょっと川で……」
洗ってみよう、と提案しかけたところで、未羽の腹から音がした。きゅるるるるる、と宗治郎の耳まできっちり届くほど大きな音だった。
宗治郎は目を丸くする。未羽が顔を背ける。
「……お腹、すいた」
宗治郎の口がぽかんと開いた。
「いまさっき食べたじゃないか」
「でも、お腹すいた」
「もうちょっと我慢できないか」
「お腹すいた」
未羽の腹は何度も空腹を訴えてくる。虚無の瞳が宗治郎を見上げ、困ったように眉を八の字にした。
しばらく見つめ合う。ぐぎゅるぅ、と盛大な音が鳴る。宗治郎はため息を吐きつつ笑った。
「ここ数日、全然食べてなかったもんな。わかった、もう一回行ってくるよ」
未羽の表情が明るくなった。
「そちゃ、ありがとう。大好き」
目が閉じるほど笑った未羽は、生前の未羽となにも変わらないように見えた。死者であるという事実が、宗治郎の中でどんどん意味を無くしていく。
「すぐ戻ってくるから。周りに気をつけて待ってるんだぞ」
「はーい」
元気の良い返事を聞いて、宗治郎は再び狩りに出た。手で縄を弄びながら、未羽の服に描かれた絵について考える。
果たして、水で洗うだけで落ちるだろうか。染み抜きのような作業が必要だろうか。
洗剤の代わりが必要だとすると、ムクロジの実が役に立つ。しかし実が採れるのは秋頃で、見つけられたとしても青くて使えないかもしれない。
物は試しと言うし、手当り次第に木の実や草を集めて擦り洗いでもしてみようか。ついでにキノコも採れば晩ご飯の足しになるだろう。
そうしようと考えて、宗治郎は踵を返した。野草の採取用に作った間に合わせの籠を取りに帰るのだ。
宗治郎がいない間、未羽がなにをしているのか想像する。だらりと寝転がっているような気もするし、あの男がいると思われる巨木をじっと見ている気もする。ミミズを見つけたら食べているかもしれない。
少し気になって、こっそり覗いてみることにした。木陰から未羽の様子を窺う。予想の一番目、だらりと仰向けになった未羽がそこにいた。
眩しくないのかな、と宗治郎は思う。カンカン照りの太陽が未羽の顔を焼いている。
宗治郎は木陰から出て未羽のもとへ歩み寄った。未羽はなにか小声でぶつぶつ言っていた。声をかけようとすると、地面についた未羽の髪の先が細かく動いていることに気がついた。宗治郎は息を呑んだ。
未羽の黒い髪が、四方八方に伸びて土をほじくり返しているのだ。ミミズを見つけ次第、動く髪が捕まえて未羽の口へ運んでいく。ミミズは身を縮める間もなく未羽にむしゃりと食べられた。
未羽は、すぐそばに宗治郎がいることに気づかない。仰向けに寝転がったまま、今度は空を飛ぶ鳥に向かって髪が伸びていく。狙いを定め、銛のようにドスンと突き刺した。顔に数滴落ちた鳥の血を舐り、未羽は鳥の羽を剥ぐこともせず食べ始めた。
さすがに食べにくいらしく、起き上がる。目の前にいる宗治郎に、彼女は気づかない。一心不乱に鳥を食べている。
髪はまだ、食べ物を探している。十メートルは離れているはずの場所で小鳥を見つけ、同じように伸ばして刺して引き寄せた。未羽は獣のように食い散らかした。
初めて、彼女のことを怖いと思った。
自分はなにか、とんでもないものを育ててしまっているのではないか。
あの髪はなんだ。アイツから逃げるときにも動いていた、あの髪は、いったい。
「宗ちゃん?」
宗治郎はハッとした。捕まえた小鳥も食べ終わった未羽が宗治郎に気づいて笑っていた。
一瞬だけ、顔全体に牙の生えた化け物に見えた。
「宗ちゃん、早かったね」
「あ、ああ。ごめん、まだなにも獲ってないんだ。ついでに木の実も集めようと思って」
我ながら、取り繕うのが上手いと思った。不自然な表情にはなっていない自信がある。最初こそどもってしまったけれど、声も震えなかったし掠れてもいない。通常通りの話し方ができたはずだ。
それでも、宗治郎の背中は汗でびっしょりだった。
「ねえ、宗ちゃん」
手製の籠を持ち上げたとき、未羽は言った。
「なにか……見た?」
冷たい、低い声だった。宗治郎の心臓が一度大きく脈打った気がした。
答える前に、未羽の顔をおそるおそる見る。
目が、死者のものではなくなっていた。生前と同じ鳶色の瞳が宗治郎を真っ直ぐ見ていた。
化け物の錯覚はもう起こらなかった。
「なにかって、なにを?」
宗治郎は落ち着いて聞き返した。
髪のことか。食べ方か。それとも、牙のことか。彼女がなにを思って『見た』と言っているのか、宗治郎は探ろうとした。しかし未羽は、にこりと笑った。
「なんでもない」
ほんの少し口元に残っていた、捕食した鳥の血を拭って。明るい声色に戻った未羽は、笑みを崩さなかった。
宗治郎は籠を一度置いて、未羽の前に膝をつく。目線を合わせ、鳶色の瞳を真っ直ぐ見つめながら、「未羽」と彼女の名を呼んだ。
「お前は……未羽、だよな?」
懇願するような声で。
やめろと脳は警告している。目の前にいる存在を未羽と認めてはいけないと、頭はきっちり理解している。でも、
「うん。未羽だよ」
宗治郎へ向けられたその笑顔は、正しく未羽のもので。行動も、話し方も声も、全てが未羽で。
宗治郎は、泣きながら笑っていた。
「そうだよな。未羽だもんな」
震える手で未羽の頬に触れ、それからそっと抱き寄せた。あんなにも冷たかった未羽の体は、宗治郎と同じか少し温かいくらいになっていた。
もう、死者の特徴はどこにもない。
彼女が死んだ事実は宗治郎の頭の隅にしかない。
理性が追いやられ、幻想に支配される。
彼女は、未羽だ。
「行ってくるよ」
籠を持って立ち上がる。未羽は「行ってらっしゃい」と穏やかに笑う。
背を向ける宗治郎へ、「宗ちゃん」と滑らかにあだ名で呼んだ。
「遅めに帰ってきてね」
早めに帰ってきて、ではないのか。
宗治郎が振り向くと、未羽は可愛らしく小首を傾げてみせた。
「遅めに。……ね?」
未羽の髪が、妖しく動いた気がした。
「わかった。ゆっくり帰ってくる」
言葉の意味を考えないようにして宗治郎は了承を返した。
未羽の髪が、またゆらりと動いた気がした。
気がしただけだ。宗治郎はもう、未羽の髪に干渉しない。彼女の死も受け入れない。
【第10回 豆知識のカモメ】
粛善は高いところが苦手
「先に言っとくぞ。降りられなくなったわけじゃないからな」
「なに言い訳してるんですか」
「自分で登って降りられなくなったなんて子どもみたいな印象を持たれたくないんだ」
「じゃあとっとと降りればいいじゃないですか」
「下を見るのが怖い」
「…………」
「……カモメ」
「助けませんよ」
「カモメ」
「子どもじゃないんでしょう?」
「悪かった。子どもでいい。子どもでいいから」
「大の大人に子どもだなんて言われましても」
「助けて」
「当主様の弱みトップ10に入れておきますね」
「入れていいから助けて」
「アイス奢ってくれますか?」
「いくらでも奢ってやるから」
「どうしようかなあ」
「頼むから助けてくれ」
カモメに高所恐怖症がバレた最初の出来事である(数年前)。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 再会》
黒弧があってもなくても。
どうぞよろしくお願いいたします。




