第8話「はやく消えないかなあ」
日が暮れ始めていた。友好関係を築いたイノシシと別れてからもう六時間。宗治郎は未羽を連れてひたすら歩き続けている。
度々振り返ってはあの男がいないか確認するが、いまのところ追ってくる気配はない。少し意外ではあったものの、あの男がこのまま逃がしてくれるとも思えず、宗治郎は足を止める気になれなかった。
ガサ、ガサと、歩いては鳴る草木の音が二人分。オケラの鳴き声がうるさいほどに辺りを包む。それが神経を逆撫でして、緊張がより強くなる。あの男の、未羽を見る冷たい目付きを思い出した。
「未羽、まだ歩けるか」
前を向いたまま、宗治郎は後ろにいる未羽へ問いかけた。離れないよう握っている彼女の手は氷のように冷たい。
「ごめんな、こんなことになって。でも俺、絶対お前を守るから。あんなやつの好きにさせたりしないから」
返事を待たずに宗治郎は続ける。
「未羽がまた喋れるように、俺、なんか方法探すからさ。だから心配すんなよ」
一人で話している間に日はどんどん沈む。世界が次第に青っぽくなっていく。足元が見えづらくなってきた。
「うん?」
作務衣の裾を後ろから軽く引っ張られ、宗治郎は未羽を振り返った。
未羽は、あの男から逃げる前も、それ以降も、言葉を発していない。まるで話し方を忘れてしまったかのように、首を振って相槌を打つくらいしか反応がない。しかし意思はあるらしく、なにか伝えたいことがあるときはこうして行動に移してくれるのだ。
「どうした」と訊けば、彼女は宗治郎の顔を穴があくほど見つめてくる。「疲れたか」と訊けば、彼女はこくりと頷いた。
宗治郎は、止めていた息を吐き出した。
「そうだよな。ごめん、どっかで休もう」
未羽はまたこくりと頷いた。
村の者たちから逃げていたときと違って走ってはいないが、ずっと歩きっぱなしでは疲労も溜まる。川沿いは危険だと考えて姿が隠れやすい茂みの中を選んだために水すら飲んでいない。
狩りで慣れている自分はともかく、未羽はとっくの昔に限界を迎えていたのだろう。その場にぺたんと座り込みそうになるのを宗治郎は支える。触れた彼女の肩は、手と同様に冷え切っていた。
――もう死んどるよ。
あの男の言葉が頭に蘇ってきて、振り払おうとして顔を左右に振った。休む前に、もう一度男の姿を探す。やはり、近くにはいない。
「水場を探してくる。さすがに飲まず食わずじゃ参っちまうからな」
ここにいるよう言うと、未羽の虚無の瞳が宗治郎へ向けられる。なにを考えているのかしばらく動かなかったが、やがてこくりと頷いた。
水場といっても、そう遠くまで行くつもりはない。においや湿気、ほんのり冷たい空気の流れから、これまで避けていた川がそれなりに近い位置にあることがわかっている。茂みを選んで歩いてきたつもりが、村から離れた土地の形状は難しい。
きょろきょろと辺りを見回しながら進む。川のにおいが近くなってきて、周囲に遮蔽物が少なくなる。あと一歩で木陰から出るというところで、未羽が後ろからついてきているのに気がついた。
「未羽、あんまこっち来んな、ちゃんと隠れてないと――」
見つかる、という言葉が、最後まで続かなかった。宗治郎の左肩に誰かの手が置かれ、ぎくりとしたからだ。
「おい」と低い声が掛けられると同時、反射的に手を振り払ってその場から飛び退いた。
未羽を後ろに庇い、川辺で拾っていた石をポケットから出して武器として構える。
暗いせいで相手の顔が判別できない。しかしシルエットはあの男よりも頼りなく、しかも馬の蹄の音がする。
跳ねる心臓を必死に落ち着けながらよく見れば、話しかけてきたその男は、宗治郎が逃げている男とは別人だった。
肩から力が抜ける。
「東家の、おやっちゃん……」
隣村に住む東家と、彼の愛馬のラーだった。貧困の際はお互いに食料を分け、助け合っている村の男だ。宗治郎も何度か会ったことがある。
「似てんなと思ったら、やっぱり宗治郎じゃねぇか」
宗治郎の剣幕に驚いていた東家は拍子抜けしたような顔になる。よっこらせとジジくさい言葉とともにラーの背から降りて、待っているよう指示をする。
こちらへ寄ってくるや、宗治郎の身なりを見てラーのもとへ引き返し、水の入った瓢簞と手ぬぐいを持ってまたこちらへやってきた。
「ひでぇ顔だな。珍しく道にでも迷ったか?」
ほら、と言いながら持ってきた両方を渡される。宗治郎はどう返事をしようか迷ったが、たっぷり入った水を前にして、乾いた喉が急に悲鳴を上げだした。
お礼も返事も忘れ、栓を抜いて喉を鳴らしながら勢いよく飲んでいく。カラカラだった喉に、体に、水分が戻ってくる。頭がクリアになる。
東家が軽く笑った。
「そっちの嬢ちゃんにも飲ませてやんな。こんなとこまで手ぶらで来るもんじゃねぇよ。ほら、嬢ちゃんも喉乾いてんだろう、し……」
言いながら、東家の顔から笑みが消えていった。宗治郎は我に返って水を未羽へ渡してやる。しかし彼女は水を受け取らないし飲む気配もない。疲れはしても喉は乾かないのだろうかと、宗治郎は新たな疑問を抱えることになる。
ひとまず借りた手ぬぐいで未羽の顔についた泥を落としてやっていると、東家は「おい」と小声で言いながら宗治郎の肩を抱いて未羽から離させた。
「宗治郎、お前、あれがなんなのかわかってんのか」
東家は宗治郎へ耳打ちする。緊迫した声だった。
「ありゃ死者だ。なんであんなもん連れてる」
赫村と同じく狩りと農業で暮らしている東家にとっても、死んだ生き物の瞳は見慣れたものなのだろう。あっさりと未羽が死んでいることを見抜いた。
彼はちらりと未羽へ視線を向ける。未羽はこちらに興味がないらしく、歩いてきた道をじっと見続けている。
「やっぱ、そう見えるよな」
瞳だけじゃない。体が異常に冷たいことからも、未羽はもう生きてはいないのだと十分に伝わってくる。
だからこそ、自分の言葉に反応を示したり、同じように歩いているのが宗治郎にとって不思議でならない。
「いったいなにがあった。あの娘はなんだ」
「わかんねぇ」
「わからないって」
「今年の生け贄に選ばれたんだ。それで、嫌だったから、連れて逃げてたんだけど」
ここまでの経緯をざっと伝えると、東家は黙り込んでしまった。宗治郎はもう一度未羽へ顔を向ける。未羽はやはり、来た道を見つめたままでいる。
「東家さん。お願いだ、一晩だけ泊めてくれないか」
帰る場所もない。行き先もない。あの男がいつまた顔を出すかもわからない状況で、できる限り野宿は避けたかった。しかし、東家は首を横に振った。
「悪いな、宗治郎。お前んとこには世話になったが、俺は得体の知れない化け物とは関わりたくねぇ。上さんを守んのが俺の責務だからな」
東家の後ろで、ラーが嘶いた。自分も忘れてもらっては困ると主張しているようで、宗治郎は東家と苦笑を交わした。
「ほんと、悪いな」
「いや、いいよ。奥さんによろしくな」
頼るべきではないと納得して、宗治郎は笑顔で東家を送り出した。
東家は謝罪とばかりに今日の狩りで得たのだろう獲物の一部と水を宗治郎に押し付けていった。おかげで今晩は食事にありつける。
一応、未羽へ水を差し出してみるも、彼女はやはり、飲もうとしない。
周囲を警戒しながら火を起こし、東家に貰った肉を炙って食べた。未羽は、炙った肉は食べなかった。生肉は食べた。
――お前さん、この娘っ子に喰われたか?
未羽の豪快な食べ方を見ていると、あの男の言葉が脳裏を掠めた。宗治郎は後頭部に手を当てる。あったはずの傷口が、綺麗に塞がっている。
――やはり喰われとるよ。
――あんまり見ない喰い方だがな。この娘っ子、うまーいことやったようだ。
炙った肉を噛んで引きちぎった。頭の中でぐるぐる回るあの男の言葉をかき消したかった。水を飲んで、また肉を食べる。途中で塩辛くなったのは、耐えきれず涙がこぼれたからだった。
東家でさえ、未羽を連れた自分を家に招くことを恐れた。ならば隣村へ行ったとしても同じ扱いを受けるだろう。
これから先、自分たちを助けてくれる人はいない。
村にも戻れない。
父も、母も、村の『掟』に逆らえはしない。
「……未羽。どこ見てんだ」
生肉を喰らいながら、未羽は一点を見続けていた。周りと比べて少し背の高い、遠い木の上のほうに視線を固定していた。生前と同じように上品に座って、口の周りを肉の脂と血で汚している。最後の一口を放り込んでから、彼女は言った。
「はやく消えないかなあ」
自分の腹に巻き付けられた黒い物に手を当てて、未羽は今日初めて言葉を発した。話せるようにするための努力は不要になった。
【第8回 豆知識のカモメ】
馬の名前は『ラー』
「カモメ、あの『ラー』だと思うか」
「エジプト神話の太陽神ですか。それにしてはちょっと嫉妬深くて頭が悪そうだったような……」
「馬に賢さを求めるなよ」
「知らないんですか当主様。馬は賢い生き物なんですよ」
「ほう。じゃあ私と馬、どっちが賢い?」
「…………」
「悩むなよ。泣くぞ」
「いえ、当主様がご自身のことをそんなに過小評価していると思わなくて」
「お? じゃあ私も結構賢かったり……」
「それはないですけど」
「上げて落とすスタイルやめてくれよなあ」
お読みいただきありがとうございました。
《次回 食思》
生肉は食べた未羽。しかしお腹に付けた黒弧がある限り、人を喰うことはできない。
どうぞよろしくお願いいたします。




