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墨師  作者: さんれんぼくろ
第一章『旅の目的』
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第5話 カモメ

 ひゅるるる……ぽとん。思いもよらぬ逃亡劇を目の当たりにした粛善(しゅくぜん)は、頭頂部に降ってきた鳥のフンのおかげで現実に帰ってきた。頭上でアホー、アホーと黒いアイツが鳴いている。


 敵意はないのだろうが(だから気づけないわけで)せめて川の水でびしょ濡れになる前に落としてほしかった。

 粛善はがっくり項垂れてため息をついた。


「イノシシって……」


 ストレッサーが頭痛に成り代わる前に両側のこめかみを片手でほぐしていく。

 ほぼジャングルな山と村で暮らす者の知恵を甘く見ていた。まさか、自然に生きる動物が人間を助けるとは。


 もう一度深いため息をついてから、粛善は髪を結っている組紐を解いた。未羽に利用された盥で川の水を汲み、頭にかけてカラスのフンを洗い流す。暑い時期とはいえ、海開きはまだもう少し先。一気に体が冷えてきた。


「全部裏目に出たんじゃないですか」


 髪の水を絞っていると、空から学生服の男が降ってきた。背中に生えた大きな翼が天使を思わせる。先っぽだけが黒い、ほとんど白色の翼を閉じながら着地して、ふかふかのタオルを渡してくる黒縁メガネの高校生。


「カモメぇ……」

「汚い触るな。後ろ向いて座ってください」


 相変わらず辛辣な言葉もいまの粛善にとっては癒しでしかない。

 あの翼はいつもどこに収納しているのだろうと不思議に思いながら後ろを向くと、カモメはタオルと一緒に持っていたアタッシュケースの中からもう一枚タオルを取り出した。


 タオルの半分を川の水につけて絞り、粛善の頭頂部をガシガシ拭い始める。まだフンがついているらしい。


「まったく、だから言ったでしょう。明るく接するより先に『なにがあった』って訊くようにと。フリでいいから心配そうにしとけとも言いましたよね」


「だってさぁ……」


「だってじゃありません。こっちは『言質霊(げんちれい)』の封印のために先回りして調べているから事情を知っているだけで、本来は知らないフリをしなくちゃいけないんです。だいたい川で流されてきた人にかける第一声は――」


「あーわかった、わかった! 私が悪かった」


 降参の意を示すべく両手を上げてみせると、カモメの叱咤はすぐに終わった。さっきと同じカラスだろうか、上空でアホー、アホーとまた鳴いている。粛善は顎を上げてカモメを見た。


「カモメ、お前さんまさか私の頭にフンを」


「そこらの鳥と一緒にしないでください、ぶっとばしますよ」


 キレのいいツッコミに粛善はますます元気になる。

 怒られるのは好きではないが、カモメのぶった斬るような接し方は嫌いじゃない。気づかいが必要なくてむしろ気楽というもの。


 墨師(すみし)専属治癒係。『言質霊』の封印のために墨師一人につき一人ついてくる、怪我の回復と情報提供のエキスパート。通称『カモメ』。

 墨師八代目当主の粛善と同じく、彼もまた『カモメ』家の代表、九代目当主である。


 彼の名を粛善は知らない。教えてもらったかもしれないが、残念ながら覚えていない。『カモメ』でいいと本人からも言われている。


「はい、綺麗になりました。着替えも持ってきていますからどうぞ」


「お前さんは本っ当に気が利くなあ」


「当然です。『カモメ』ですから」


 カモメの仏頂面がほんのり誇らしげになった。

『カモメ』一家には、『ウノメタカノメ』という、墨師の動向を映像に起こす術が受け継がれている。


 歴代の『カモメ』は主に鏡や占いで使うような水晶を使っていたが、勉強に熱を入れているカモメは愛用のシャープペンシルに『ウノメタカノメ』を使っている。授業中も粛善の行動を確認する真面目すぎる当主だ。


 だからこそ、シャープペンシルに映し出された粛善と宗治郎のやり取り、締めの水被り事件までカモメはきっちり見てしまったのだろう。今回もなんとか理由をつけて授業を抜けて来てくれたに違いない。


「いつもありがとうな」


 渡された羽織袴に着替えてからお礼を言うと、カモメはやはり「『カモメ』ですから」と返してきた。今度はわかりやすく誇らしそうだった。


 本当なら緊急事態でもない限り学校を優先させるべきなのだが、以前カモメにそう言ったときにひどく落ち込まれて大変だったので、もうとやかく言わないと粛善は決めている。事実、助けられているのだから。


「あの男、ご飯に誘うつもりだったんですか?」


 盥に水を汲み直していると、粛善の濡れたほうの服をアタッシュケースに入れながらカモメが訊ねた。彼は粛善が鍋を多めに煮込んでいたのを『ウノメタカノメ』で知っている。

 粛善は「あー……」と言いながら苦い顔をした。


「ガリッガリだったろ? あの坊主。こりゃ、ろくに食べとらんなと思って。娘っ子の話をする前に腹いっぱい食べさせてやりたくてな」


「それも裏目に出てしまったと」


「らしいな。吐きそうにしとった」


 善意のつもりだった。料理も、彼の体を調べたのも。どんなにつらくとも食べなければいけないし、言質霊に喰われたならば治療が必要になる。喰われたところによっては命にも関わるのだ。


 カモメは優しい言葉で表現してくれているが、粛善からしてみれば、裏目どころか拒絶の域だったとさえ感じる。特に、あの涙と目つき――。


「なあ……カモメ」


 水の入った盥を足もとに置いて、粛善は竹刀袋から特大筆を取り出した。筆の先を盥の中に入れ、竹刀袋の外ポケットにある小型ナイフで自分の指先を少し切る。ぷつりと丸く浮き出てくる血液を、盥の水へ一滴落とす。


「私は、あの坊主を傷つけることをしたのか」


 一滴の血を入れた水が次第に黒くなり、ついには墨のように真っ黒に変わる。黒くなった血液入りの水を特大筆がゆっくり吸収し始める。


「したんだろうな。お前さんが返事に困ってるときは、大抵そうだ」


 カモメはアタッシュケースの蓋を閉めた体勢のまま、視線を下へ向けて黙っていた。口うるさいカモメはこの手の話にだけは絶対に小言を言わない。

 粛善は小さく笑って空を見上げた。


「共感力がないというのは、難しいな。ちっこい頃から知ってるお前さんと違って、なにを言ってなにをしたら怒るのか、まるで見当がつかん」


「……当主様」


「泣かせるつもりなんか、なかったんだがな」


 どれだけ考えても、やはりなにが悪かったのかわからない。傷つけたのだろうということしか、粛善にはわからない。


 粛善は無意識に筆の柄を指でさすっていた。ちょうど親指が当たっている位置に正の字が刻まれている。正が二つ、二画目までが一つ。計、十二の印。この印のどこかに、粛善が本来持っていたはずの共感の力が封じられている。

 大事で憎らしい、墨師に代々伝わる特大筆。


「いまのところ、返してほしいものナンバーワンだ」


 人に共感できないのに、人の心が知れるはずもない。

 特大筆が血液入りの墨を完全に吸収した。竹刀袋に収納して、空になった盥を持って立ち上がる。気分を変えるべく大きな伸びをした。


「当主様が申しわけなく思う必要はありません。あれはただの身勝手です」

「お前さんは私の味方をしたがるからな」


 突っかかる勢いで肯定してくるカモメに微笑んで、粛善は彼の頭にぽんぽんと手を置いた。


「でもな、カモメ。私が悪いときはちゃんと言ってくれ。そうじゃないと、今後も誰かを傷つけかねん。泣かれるのは苦手なんだ」


 カモメは顔を上げて粛善を見るが、「はい」とも「いいえ」とも答えない。返事を求めて粛善が眉をくいっと上げてみせると、カモメはしぶしぶといった様子で頷いた。アタッシュケースを持って立ち上がる。


「お前さん、本当は私の愚痴を聞くために来たんだろう? 着替えとタオルはそのついで」


「いけませんか」


「いいや、助かった。ありがとな」


 心のケアまでしようとする『カモメ』はそういない。粛善は穏やかな気持ちで言った。


「お前がいて良かったよ」


 なにかお礼をと思って懐に手を入れるも、先ほど着替えたのだと思い出す。手元にある盥と特大筆でなにかできるだろうかと考えていると、カモメは呆れたようにため息をついた。表情だけは少し嬉しそうに見える。


「飯盒で煮込んでたの、クリームシチューですよね」


「ん? おう」


「食べていってもいいですか。一人分にしては多いでしょうし」


 粛善は目を丸くした。クソがつくほど真面目な優等生が、必要以上に授業をサボろうとしている。


「そりゃ、もちろん歓迎するが。けどお前さん学校は」


「授業の内容くらい把握しています。ノートも誰かに見せてもらいますから問題ありません」


 でもテストがどうのと言っていなかったかと粛善は思う。カモメは粛善の心配などお構いなしにくるりと方向転換して歩き出した。


「ぼくは『カモメ』です。当主様が最優先です。だから役割を果たした上でオール5取ってみせます」


「お、オール5?」


「食べ終わったらあの二人の今後について話しましょう。ぼくが調べ損ねた彼らの村についても調査が済んでいます。もうあんな失態はしませんのでご安心を」


 斜面を登りきったところで立ち止まり、カモメは粛善を見下ろした。「ほら早く」と言って、飯盒のほうへ行ってしまう。

 粛善はしばらくぽかんとして、それから吹き出して笑った。


「詫びのつもりか。気にせんでええのに」


 優等生はやはり、理由がなければサボりはしないのだ。

 もう声が届かないほど遠くをカモメは歩いている。粛善は特大筆の入った竹刀袋を忘れず担ぎ、素直なのか偏屈なのかわからない高校生を追いかけた。

【第5回 豆知識のカモメ】

粛善の失われた共感力についてはまた後日


「返してほしいなあ、共感力」


「ぼくが代わりに寄り添いますから気にしないで大丈夫です」


「そりゃな、お前さんは諸々わかってくれてるから私も気にせんよ。ただまあ、初対面のやつにはなあ」


(初対面って意識はあるのに服の中覗いたのかこの人)


「おいカモメ、言ってくれとさっき頼んだろう」


「ぼくは了承していません」


「頷いとったが」


「あれは首のストレッチです」


「言い訳にしてももっとマシなの考えんか……」


お読みいただきありがとうございました。


《次回 追われる二人の追われる前》

宗治郎たちが村人に追われるはめになった村の『掟』について。

どうぞよろしくお願いいたします。

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