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墨師  作者: さんれんぼくろ
第一章『旅の目的』
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第20話「未羽はさ」

「未羽、だったか。おはよーさん」


 未羽の手がぴくりと動いたのがわかった。宗治郎は未羽の手を握ったままそっと後ろを見る。未羽はやはり粛善を睨んでいたが、宗治郎の視線に気づいた瞬間、さっと宗治郎の背中に隠れるようにして小さくなった。


 背中に押し付けられた顔や体が震えている。全身で怯えてみせる未羽に、宗治郎はまだかける言葉が見つけられない。

 粛善が「あー……」と気まずそうに言って頭の後ろを搔いた。


「昨日は、なんだ、すまんかったな、雑に扱っちまって。カモメが喰われとると思うと、ちと力が入りすぎた」


 すまん、ともう一度言って粛善は両手の平をパチンと合わせた。未羽はまだ震えている。カモメは「当主様が謝ることじゃない」と不機嫌そうに言う。


 とりあえず未羽を座らせようと思って体を横にずらしたが、未羽は宗治郎の背中にしがみついたまま離れない。「こっち座れよ」と言おうにも宗治郎の喉はカラカラに乾いていて言葉が出てこない。


 どうしようと困り果てていると、未羽がなにか宗治郎に言った。声がくぐもっていてよく聞こえず、体を未羽へ向けて掠れた声で聞き返すと、未羽は目に涙を浮かべて宗治郎を睨んできた。


「宗(そう)ちゃん、ひどいよ」


 宗治郎は当惑した。ひどい? なにが。


「なんでこの人たちと一緒にいるの? 私がなにされたか、宗ちゃんは見てたんでしょ? すっごく痛かったんだよ。熱くて苦しかったんだよ。足とか、腕とか、顔も……」


 いっぱい焼かれたんだよ、と未羽が涙を溢れさせた。カモメがなにか言いかけるのを粛善が止めた。

 未羽は宗治郎の胸に寄りかかるようにして泣いた。何度も何度も、痛かったんだよと繰り返す。熱かったんだよと。


 宗治郎の頭にあのときの光景が蘇ってきた。粛善の筆で描かれた炎が未羽を焼いて、爆撃されて、月の形をした黒弧(こっこ)を再度取り付けられて。

 未羽が上げたおぞましい悲鳴も、のたうち回るような動きも、鮮明に思い出すことができる。でも、


「わざと嘘ついてるなら、いますぐやめてくれ」


 唾を飲み込むことでなんとか喉を湿らせて、宗治郎は強く言った。

 未羽がびくりとして宗治郎から離れる。未羽なのに未羽ではない顔が――黒い肌に牙が六本生えたような顔が、驚いた表情をしている。


「お前はあのとき、芋虫の形になってた。足も、腕も、顔も焼かれてない」


 自分の声が攻撃的になっているのがわかった。未羽にお前なんて言ったのも初めてだ。

 心の奥の深いところで苛立ちが芽生えている。

 未羽は嘘じゃないと主張することもなく、しかし謝るわけでもない。うまくあしらえそうな言葉を見つけ出した。


「で、でも、そんな気がした。それくらい痛かった」


 そんな気がした。それは、正しい正しくないに関わらず、それ以上の追及を逃れられる魔法の言葉だ。そして、未羽が嫌いだった言葉だ。


「痛かったのはわかってる。俺も見ててつらかった。けどな、お前を助けるには、この人はああするしかなかったんだ」


 自分の見たままを伝えて、未羽が敵意を引っ込めるのを待つ。「違う、殺されかけた」と首を振る未羽に同じ説明を繰り返す。

 粛善は、未羽に一つも怪我をさせなかった。それに、昨日約束してくれたのだ。黒弧で未羽を止められなかった場合を除いて、絶対に未羽を傷つけたりしないと。


「それに……」


 言いかけて、宗治郎は粛善の顔をちらりと見た。粛善はまた、なにかノートに書き付けていた。粛善が宗治郎の視線に気づく。


 自分のことを言われていると粛善はわかっているはずだが、宗治郎に便乗して己の無実を証明しようとは思わないらしい。不思議そうに宗治郎を見て、続けろと言わんばかりに顎をしゃくる。

 宗治郎は話を再開した。


「それに。先に手を出したのは、この人じゃなくてお前だった」


 カモメを喰おうとしたことを指摘すると、未羽は息が詰まったような声を出した。

 宗治郎は未羽の目をまっすぐに見る。牙や黒い肌が邪魔をしているが、未羽の瞳はただ怯えているだけに見える。

 嘘をついたのではなく本当に混乱していただけなのかもと思うと、宗治郎は幾分か優しくなれた。


「文句があるなら、あとで俺がいくらでも聞いてやる。だからまずカモメに謝るんだ」


 一人で謝らせるつもりはないので、宗治郎は未羽の手を引いて自分の隣に来させ、先に頭を下げた。無知だったとはいえ、危険な目にあわせたのは確かだからだ。

 未羽が戸惑っているのを感じた。手が汗で湿り出していた。


「別に、謝る必要はありません」


 時間の流れがひどく遅いように感じていると、未羽ではなくカモメが口を開いた。頭を上げるよう言われ、おずおずと姿勢を戻す。

 カモメはこれまでと同じ仏頂面だったが、声に怒りは感じられなかった。


「こちらが脅(おど)かしたのは事実ですから。まともな説明もないまま黒弧に縛られて、飢えているのに監視だけは続けられて。相当ストレスを感じていたはずです」


 宗治郎がなにか言う前に、未羽が反応した。


「監視。やっぱり、監視だったの」


 未羽が小さな声で聞き返すと、カモメは表情を変えずに「ええ」と言った。


「言質霊(あなた)がいま借りている体の持ち主が――『未羽』が愛した人を喰わせるわけにはいかないので」


 実際に見続けていたのは粛善らしいので、カモメは粛善に視線を寄越して相槌を求めた。粛善はノートから顔を上げる。未羽と目が合うまで待って、微笑を浮かべて頷いた。


「心配せんでも、私らはお前さんを悪霊扱いしたいわけじゃない。人を喰わずにいればいずれ腐って塵になるってわかっとるから、そうなる前にどうにかしてやりたいだけだ」


 前向きな意見とは対照的に、未羽が体を強ばらせた。勢いよく宗治郎のほうに振り向いて、首を大きく横に振る。蒼白になった顔で、「違うよ」と否定する。


「違うよ、宗ちゃん。腐ったりしない。塵になんかならない。私は人間だから。芋虫にはなっちゃったけど、でも人間だから。悪霊でも、化け物でもない。腐らない。塵になったりしない。宗ちゃん、私は――」


 宗治郎は手を上げて未羽の言葉を遮った。未羽の顔が緊張で歪む。視線は宗治郎を見ているのに、本当はどこか現実にない場所を見ているかのようだった。


「昨日、全部教えてもらった。いまのお前の体のこと」


 未羽は真っ青になった。人間ではないと宗治郎にまで言われたかのような絶望した顔だった。

「違うよ」と小さな声で未羽が言う。宗治郎は「もういいんだ」と肯定か否定かわからない返事をする。

 宗治郎は、言質霊について詳しく教えてくれたカモメの説明を思い出した。


 ――言質霊は弱い生き物です。力を付け始めたら脅威になりますが、環境が整っていなければ一週間程度で自然消滅してしまう、とても不安定な存在なんです。


 言質霊が水を飲まないのは言霊が弱るからだという補足から始まったその話。


 言質霊は、人を喰って力を付ける。動物の新鮮な死肉でも同じようにエネルギーに変えることはできるが、言質霊として存在し続けるにはまったく足りない。人を喰わずにいれば、いずれ体の端から腐っていく。


 腐敗が進むにつれて、言質霊になるまで手を繋ぎ続けた言霊たちが分離していく。言質霊として活動できるだけの言葉の魂が足りなくなって、最後には、バラバラの言霊に戻って霧散する。言質霊の命はそこまで。そして体の持ち主は――未羽は、灰に変わる。風に飛ばされる。


 やっぱり信じたくない気持ちが再来する。彼女は言質霊ではなく、死後の世界から蘇ってきた未羽本人で、いまは混乱していてらしくないことばかり言ってるのではないか。そうだったら、どんなにいいか。


「違うもん」


 未羽はまだ、己の状態を否定した。


「言質霊なんかじゃない。私は、未羽だよ。宗ちゃんの知ってる未羽。未羽だよ」


 未羽の焦りで冷たくなった手が宗治郎の手を強く握った。宗治郎の顔を覗き込んで、必死に言い続ける。「私は、未羽だよ」と。


「宗ちゃん、私は――」

「未羽はさ」


 聞いているのがつらくなってきて、また遮った。宗治郎は自分の手の震えが抑えられなかった。どこまでも信じたがらない自分を内心で叱咤して、現実を見ようとする。息を吸おうにも浅くしか吸えない。何度も唾を飲み込んで、目をぎゅっと瞑る。じんわりと涙が滲み出た。


「未羽は、自分のこと……『未羽』って呼ぶんだよ。『私』って言わないんだ」


 自称未羽の、言質霊の言葉が止まった。目を大きくして、視線が宗治郎から外れる。考えるような時間を置いて、それから思い出したかのように自分の口に手を当てた。


「やっぱりあったか。坊主だけが感じる違和感」


 粛善が言うので、宗治郎は息を整える努力をしながら頷いた。

 話せなくなって、生肉を食べてまた話せるようになってから、彼女はずっと、一人称を『私』で統一していた。これまでもいまも、一度も『未羽は』とは言わなかった。


 未羽の形をしているだけで、彼女は未羽ではない。言質霊。言霊の集合体。人を喰わなければ生きられない、自分の生に執着する生き物。


 ――その考え方を変えさせて、道を示し、『門(もん)』を通じて解放する。それが墨師(すみし)の役割です。


 昨日カモメが言ったことを思い出す。

【第20回 豆知識のカモメ】

言質霊は水を飲まない


「飲んだらどうなるのか気になります」


「知っとるだろお前さんは」


「知識としては知っていても、ぼくは肉眼で言霊を見ることができませんから。言霊が弱るってどういう状態なんですか?」


「そのまんまだぞ。あのぽわぽわしたやつらが弱っていくんだ。イメージとしては……あー、たんぽぽの綿毛。あれが水で溺れてぺたんこになる感じだ」


「当主様。たんぽぽの綿毛は水に濡れません」


「例えだ、例え。『水に流す』って言葉があるだろ? 言葉から生まれる言霊はそういうイメージに弱い。表面は人間の皮膚に守られるが、体内に水を入れるなんて言霊からすればとんでもない地獄なんだよ」


「…………」


「どうした」


「いえ、たんぽぽのイメージでそんな話を聞いていたら、肥料を与えれば復活するかもなと」


「口の中に?」


「当然です」


「お前さん、秀才のくせにたまーにアホになるよな」


「当主様のアホ加減が移ってきてるのかも」


「真面目に考えんでくれ。私のアホはどうにもならんから頑張って自衛してくれ」


お読みいただきありがとうございました。


《次回 殲滅と免罪》

粛善、離脱。

どうぞよろしくお願いします。

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