第19話 目覚め
粛善の朝は早い。日が昇り始めるころには起きて、朝の日課となっているノートを最初から最後まで丁寧に読んでいく。ノートの最初には毎朝読むよう促す自分の字。じゃないと後悔するぞ、とも。
「昨日……なんっかカモメが教えてくれたはずなんだけどなあ」
十二個作ってある項目の『共感力』のページの最後。書きかけの『他人の服を』という文を見て首を傾げる。どうやら書いている最中に寝落ちしてしまったらしい。
たしか、言質霊となった未羽が芋虫状に変わってしまったあとに教えられたはず。ぼんやりと『服』に関するシーンは思い出せるが、それのなにがいけなかったのか、考えてもまったくわからない。もう一度カモメに訊くしかないだろう。
ノートの後ろに挟んだ付箋を一枚取って、そのページの上部に飛び出るように貼り付ける。それからまたページを繰って、次の文を頭に叩き込む。
太陽が完全に辺りを明るくするころになって、ようやく粛善の日課は終わった。最後まで読み終えたノートを懐に戻し、うんと伸びをする。体がパキパキと音を立てた。
「おー、大漁、大漁」
振り返って目に入ったものに思わず手を叩いた。
自分の後ろに四つほどあけた地面の穴に、匂いにつられてやってきた動物がはまりこんでいる。誘い込むための匂いは特大筆のアートで作った偽物だが、己の餌だと思い込んだ動物たちは我先にと飛びついた直後に落とし穴にかかり、そのまま動けなくなっている。
三つの穴にはそれぞれイノシシとウサギとイタチ。四つ目は頭から穴に入っていて種類がわからない特大の獲物。これは生肉しか食べられない未羽行きだ。
体を前向きに戻すと、川に張っておいたアートの網に魚がかなりかかっている。食べられるかどうかは選別しなければならないが、これだけあれば今日の食事には困らない。
魚でいっぱいの網と、落とし穴に事前に取り付けておいた袋を持って引っ張り上げ、獲物を回収する。種類のわからないどデカい獲物はこのままにして、未羽が起きたら喰いに来させるとしよう。
カモメは魚しか食べないだろうなと思いながら、粛善は昨日話し合っていた場所へと歩く。アートで作った即席テントの前で、カモメが焚き火の強さを調節している。未羽の見張りの片手間でお米を炊いてくれたらしく、食欲を誘ういい香りがした。
◇
香りにつられて宗治郎が目を覚ますと、テントの外で男が料理をしているところだった。フライパンが男の腕で見え隠れする。男の隣で青年がなにか説教じみた声を上げていて、それを男が謝りながら笑っている。
久しぶりに、よく寝た気がした。不思議なほどスッキリしている頭で、宗治郎は寝転んだまま男の後ろ姿を眺める。
男は昨日、自分のことを『荻野』と名乗った。墨師の荻野。「名前は粛善っつーらしい」と。
らしい、とへらへら笑いながら付け加えたのを思い出すと同時、宗治郎が見せてもらったノートの中身も一緒に頭に浮かぶ。『自分の名前』というページに書かれた『荻野粛善』の下には、おそらく男が周りから呼ばれているあだ名も記されていた。
そこまでしないと忘れるというのはどういうことなんだろうと思う。自分の知っている大人たちとさして変わらない粛善をぼんやり見ながら、宗治郎はノートに書かれた内容を振り返ろうとした。しかし、粛善がふとこちらを見た。目が合った。
「おはよーさん。ちょうどよかった、朝メシできたぞ」
笑顔で手招きされて、宗治郎はのそりと起き上がってテントを出る。太陽が眩しくて目を眇めた。
「腹減っとるか?」
粛善が例の筆で食器を描きながら訊いてくる。おぼんとしゃもじも描いてポンポン生み出していく。
「減ってる……けど」
「そら、よかった。食欲ないって言われたらどうしようかと思っとった」
粛善の隣で『カモメ』と名乗った眼鏡の青年がご飯をよそっていく。普通の顔をして、白いご飯を丼鉢に盛っている。
「朝ご飯にしては多すぎな気もしますけどね」
「どっちにしろお前は魚以外食べんだろう」
「猪肉はいただきます。ウサギとイタチはちょっと」
「好き嫌いはダメだって教えてくれたのカモメなのになあ」
二つ目の丼にご飯をよそいながら、「いくらジビエ生産者や専用機械を作ったって」とカモメはぶつくさ言っている。その横で、こちらも筆で生み出したらしいモノクロの動く人形といくつかの見知らぬ機械。
まさか筆で描けば肉の処理まで任せられるのかと、宗治郎は驚きを通り越して若干引いた。
「で、あなたはいつまで突っ立ってるつもりですか」
三つ目の丼にご飯を盛りながらカモメがそっけない声で指摘してくる。
宗治郎がモノクロ人形たちを視界に入れないようにして座ると、カモメはしゃもじを二回ほどひっくり返した量のご飯をこちらに見せてきた。それから、「どれくらい食べますか」と訊いてくる。「もう少し食べますか」と。
宗治郎は面食らった。
どれくらい? まさか、言えばこれ以上にご飯を盛られるのだろうか。
「えっと……そんな量の米、どこから……」
両手のひらをカモメに向けて怖々訊く。「うん?」と粛善が反応して、ああと言いながらカモメを指さした。
「カモメが家から持ってきてくれたぞ。昨日のシチューの具材とかもな。肉は新鮮なほうがいいんで、さっき獲ってきた」
な、と相槌を求める粛善の手を、カモメは「人に指をささない」と言いながら軽く叩いている。
もう一度ずいと差し出される白いご飯を見ながら、昨日も今日もこんなに贅沢をしていいんだろうかと考えた。
村にいたころは米なんて貴重。基本は芋。戦時中に生きていた村長は、あのころは粟ばっかり食べてなあとよく話していた。
やはり食べてはいけないような気がして、当たり前みたいにいっぱい盛られたご飯を遠ざけながらこんなにいらないと言う。ご飯なんて、少量で十分だ。生きていけたらそれで十分だと。
粛善が目をぱちぱちさせる。カモメが不憫なものを見るような目をする。ご飯の上に甘辛い香りのする肉を汁ごとのっけながら、カモメは言った。
「ぼくたちが住んでいるあたりでは、これくらいが普通です」
は? と声が出た。カモメは続ける。
「物価や家計によって多少の違いはありますが、大抵の人は飢えとは縁遠い生活を送っています。あなたが暮らしていた村のような、来年を生き延びるための生け贄の制度なんて必要ないほど豊か。むしろ、余ったり食べ残したりで結構な量が廃棄されると聞きます」
肉がのった豪華すぎる丼がおぼんにセットされる。粛善がキノコの入った汁物と小鉢の肉料理を置く。平たい皿に野菜を盛り付けながら、カモメはため息混じりに「そもそも」と言った。
「あなたは村を出たんでしょう。だったら村の考えは置いておいて、自分の気持ちに正直になればいいんです」
念のためか、カモメはお腹は空いていますかと再度訊いてくる。宗治郎はカモメの話を考えるのに忙しくて曖昧な返事をしたが、腹だけは素直に空腹を訴えた。
怖い感覚が抜けないまま、自分の中ではてんこ盛りに見える朝ご飯一式を受け取った。
追加で粛善から焼き魚も渡される。焚き火でじっくり火を通したらしく、串に刺して焼かれた魚はいかにも食べ頃な匂いがした。
米に、肉、魚、汁物、野菜。宗治郎からすれば三食分は優にある朝ご飯を見ていると、粛善からオレンジ色のドレッシングなるものを渡された。サラダにかけるよう言われる。
そういえばこの野菜はどこから出てきたのだろうとキョロキョロしていると、察したカモメが宗治郎の知らない透明の袋を見せてきた。表面には『水洗い不要のカット野菜』などと書かれている。見知らぬ袋のその文字をじっと見る。加工年月日が、昨日。
「………………毒?」
収穫直後じゃない野菜のカット済み。怖い。
「毒なんかありません。消費期限内、冷蔵もバッチリにして持ってきているので傷みもありません」
重そうな持ち手付きの箱をぽんぽん叩いてホレイバッグなんて言われてもなんのことかわからない。宗治郎は知ろうとするのを諦めた。この二人は、いや、この二人が住んでいた場所では通じる言葉なんだろう。
食事を始める際の挨拶は同じ『いただきます』だったので、宗治郎は安心した。バッテン箸になる粛善をカモメが指導するという、大人と子どもが逆になっているようなやり取りを見ながら食べていく。
意外と言っては失礼だろうが、粛善が作った料理は昨日のクリームシチューも込みで全て美味しかった。食が進みすぎて、人生初のおかわりをする。
宗治郎が一心不乱に食べている間、カモメから粛善に向けて何度かお説教が飛んだ。そのたび粛善は食べる手を止めてノートに書きつけていく。
箸はまともに持てないし、他人の服の中を覗くようなデリカシーのかけらもない人だし。
朝起きたときは普通の大人と変わらないと思ったが、考えてみればやっぱり変なオッサンかもしれないと宗治郎は思った。
和やかに朝食は進む。宗治郎は一足先に満腹になってぼんやりと空を見上げる。晴れた夏の空に形の整った細い雲があって、あれが飛行機雲というやつかと、さっきカモメが粛善に教えていたのを思い出す。
各々食べ終わって、そろってごちそうさまをしようとした。そんなときだった。
「宗ちゃん……」
眠そうな声が割って入ってきて、宗治郎はハッとしてテントに顔を向けた。昨日から眠り続けていた未羽が、テントから出てきたところだった。
宗治郎と粛善たちを交互に見た未羽は、お腹に巻きつけられた黒弧をぎゅっと手で押さえる。警戒しながらこちらに歩いてくる。
カモメが「当主様」と囁くのが聞こえた。
粛善は未羽から視線を逸らさずに頷く。
「『カモメ』の羽を喰っとるからな。契約者以外に術が作用するかは半々で考えとったが……どうやら効いたらしい」
「すみません、つい防御してしまって」
「謝るな。お前が無事でよかった。それに予想より二時間早く起きる程度ならそこまで脅威じゃない。もっとお前の治癒術が奪われていたなら昨日のうちに覚醒しただろうしな」
『カモメ』というニュアンスがなんとなくカモメを呼んだわけではない気がする。それ以外の二人の会話はよくわからなかった。
未羽は口をぐっと閉じたまま宗治郎の隣まで来た。宗治郎の肩に両手を置いて背中側に立つ。見えないが、なんとなく宗治郎の肩越しに粛善を睨みつけているような気がする。
少し躊躇ってから、宗治郎は未羽の手に自分の手を重ねた。どうして躊躇ったのか、考えたくない。
ようやく起きた未羽におはようとも大丈夫かとも言わなかった自分。背後に立たれて一瞬ぞくりとした自分。未羽の顔なのに未羽ではないように見える自分の目。
未羽に対する気持ちが――未羽の真似をしている言質霊への思いが、昨日までとは全然違うものになっていることを、宗治郎はまだ認めたくなかった。
【第19回 豆知識のカモメ】
箸の持ち方は『常識』のページに書かれている
「朝に読んで頭に叩き込むんだけどなあ」
「覚えるのとその場で実践するのとではやはり違いがあるんじゃないですか」
「それはわかってるんだが……朝イチにそれをすると」
「今度はほかのことを覚える時間がなくなる」
「そういうこった」
「ぼくが教えたらすぐにできるわけですし、たぶん体は覚えてるんですよね」
「いや、この間ひとりで練習したがまったくできんかった」
「バッテンになっちゃったんですか?」
「おう。どんなに文字や絵で見ても一向に直らん」
「覚えてるわけじゃないんですね」
「カモメに直接指導してもらったらすぐできるんだけどな」
「そういえば、正しい持ち方にさせようとしてぼくが当主様の手に触れたときのアホガリの顔」
「いやぁ〜な顔しとったなあ。まだ気にしとるんだろ、触れるのは婚約者だけっちゅー掟」
「アホらしい。さっさと忘れてくれませんかね」
「それかカモメ、『私の嫁に来るか?』」
「!? 当主様……どこでそんなセリフを」
「河原に落ちとった漫画雑誌に」
「忘れなさい、いますぐ。そういう不要な言葉は覚えない!」
「忘れるやつに覚えるなって言うのは酷じゃ……」
「いいから!」
「そう怒るなよぉ、『私の可愛いカモメちゃぁ〜ん』」
カモメから本気の蹴りを食らった粛善であった。
お読みいただきありがとうございました。
《次回「未羽はさ」》
関係に変化。
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