第21話 殲滅と免罪
「大人になろうと思ったんだよ」
言質霊はまだ、未羽のフリを続ける。
「いつまでも名前で言うのは子どもっぽいかなって。せっかく生き返ったから、もうちょっと大人っぽくなりたいなって」
宗治郎はうんざりして眉を寄せた。
「いい加減にしてくれ」
未羽の顔で、声で、未羽なら絶対に言わないようなことを並べ立てる。目の前の存在がひどく不快になった。
「未羽は、親からもらった最初で最後のプレゼントだから、自分のことを名前で呼んでたんだ。子どもっぽいとか、そんな理由でやめたりしない」
どんどん剥がれていく『未羽』の仮面。宗治郎はもう自分を騙すことができなかった。
彼女の肌が完全に黒くなって、牙が際立って見えた。未羽なのだと信じようとしていた自分の目が、ようやく現実を映してくれた。
顔を覆うように生えた六本の牙は、カモメが言ったように、花の形によく似ていた。開花する前の、まだ半分縮こまった状態の花。人を喰う花。人喰い花。
「……どうして?」
言質霊が、一筋の涙を流した。
「どうして、守ってくれないの? 未羽なんだよ? ねえ、未羽がいなくなっていいの? 未羽は嫌だよ。消えたくない。助けてよ宗ちゃん」
掴みかかられ、懇願される。未羽はと言いながら、彼女は言質霊としての自分を助けるよう願っている。消えたくないと繰り返す彼女は、いま宗治郎に見捨てられたらどうなるかハッキリ自覚しているらしかった。
だからこそ、宗治郎も突き放したりはしない。
「お前は消えたりしないよ」
彼女の思考の向かう先が変わるように強く言った。
「言っただろ。この人たちは、お前を助けに来たんだ。お前が消えないように、それから、閉じ込められた未羽の魂がちゃんと天に昇れるように。そのために、この人たちは来たんだ」
未羽がいなくなってもいいのか。彼女の問いが頭の中で反響する。
死んでなお、一緒に過ごせていたこの数日間。未羽だと思い込んでまで彼女の存在を求めた自分。
逐一教えていけば、彼女はきっと、宗治郎の知る未羽に可能な限り寄せてくるだろう。決別できないようにしておいて、黒弧を外す手段を見つけるそのときまでは、身の安全のために宗治郎のそばで過ごしてくれるだろう。
もう一度、自分の頭の中で跳ね返る言葉を考える。俺は未羽がいなくなってもいいのか、と。
未羽がいない現実を、果たして受け入れられるだろうか。
宗治郎は、瞼を強く閉じる。彼女の手を無意識に握り返していた。
「人の心ってのは、ほんっとーに難しいな」
二人で黙り状態になると、粛善が明るく言った。見れば、粛善は仕方なさそうに笑いながらノートを懐にしまっていた。
「なあカモメ、私にはわからんよ。なんでみんなあんな表情をするんだ。愛する人じゃないのに、どうしてこう愛してしまうんだ」
「当主様、口を慎んでください。あとで教えますから」
「だって坊主だけじゃないだろ。これまで見てきたみんなそうだった。現実を受け入れる割に別れだけは認めない。人間は矛盾ばっかりだ」
カモメのお小言をひらりと躱しながら粛善はアートで作った食器類に十字を書いて片付けていく。周りがスッキリ片付いたところで竹刀袋を持って、特大筆を取り出した。
「私も妻の言質霊に会えたら、そういう気持ちもわかるのかもしれんが」
一瞬、粛善が悲しげな顔をしたように見えた。
粛善は筆で盥を描いて生み出して、竹刀袋の外ポケットに入れていたらしい小型ナイフを持って立ち上がる。なにをするのかと思えば、筆と盥、ナイフの三つを持って、粛善は川のほうへ一人で歩いていってしまった。
宗治郎は唖然としてその後ろ姿を目で追った。
「……怒った?」
恐る恐るカモメに訊いた。カモメは目を伏せて首を振った。
「いいえ。当主様は、こんなことで怒るような人じゃありません」
「じゃあ、なんで」
未羽になにか言ってくれると期待していたせいか、取り残された宗治郎はどうすればいいかわからない。
カモメは粛善の後ろ姿を見ないようにしているらしかった。視線を下げたまま、緊張が解けたように息を吐いた。
「……墨師の見ている前で、人が言質霊になることはない。あなたもそう思いますか」
質問の意図が、すぐには読み取れなかった。
カモメは眼鏡を取って、目頭を指で押さえる。それから粛善の背中を裸眼のまま見つめた。
たっぷり時間を置いて、宗治郎はようやく思い至った。
「まさか……さっき言ってた、妻の言質霊に会えたらって」
カモメは憂い顔で「ええ」と肯定した。
「当主様の奥様は、当主様の目の前で、言質霊になりました」
宗治郎は振り向いて粛善の姿を探す。さっきまでは小さくても見えていた後ろ姿はどこにもない。
「なんの言霊だったのか、いったいなにがあったのか、ぼくは知りません。言質霊になった事実と、捕えられずに逃がしてしまった状況だけを教えられました。もう、十年も前のことです」
粛善を見つけられずに宗治郎が体を正面に戻すと、カモメはもう眼鏡をかけて、アタッシュケースの中を探っていた。白色と黒色のトランプのようなものを取り出した。
「以来、当主様は墨師の務めをこなしながら、ずっと奥様を捜していらっしゃいます。だからですかね。あなたのような、割り切ろうにも感情が邪魔をしてボロボロになっている人を見ると、ああして逃げてしまう。……たぶん、羨ましいんですよ」
カモメは持っていた二枚のトランプを地面に置いた。すると、トランプからふわりと煙が上がった。その煙が、人が通れるほどの大きな扉の形を作る。
白色と黒色それぞれの扉は筆で描かれているように見えて、宗治郎はこれも粛善のアートで用意されているものなのだとピンときた。
カモメが「さて」と言った。
「おしゃべりはこの辺にして。『門』についてはぼくからお伝えします」
宗治郎は、えっ、と声を上げた。
カモメが宗治郎に視線を寄越す。
「なにか」
「え、いや……あのひと、荻野さん、いないけど。なんていうか、いいのかなって」
「昨日話したとおり、言質霊には時間がありません。こうしている間も彼女の腐敗は確実に進んでいます。当主様が落ちているからと言って、有効に使えるはずの残りの時間を無駄にするわけにはいかないでしょう」
カモメは少しも迷わず宗治郎の疑問を振り払った。宗治郎は隣で黙り続けている未羽を見る。時間が有限なのはさっきの彼女の反応からして間違いないんだろうが、まだどこにも腐敗の兆候はない。粛善が戻ってくるのを待つくらい問題ないんじゃないか。
もしかしたら宗治郎が思っているよりもずっと、この二人はドライな関係なんだろうかと新たな疑問を抱える。
「それに……いまは、邪魔をしてほしくないと思うので」
カモメはまた憂いの表情でそう言った。
なんの、と訊こうとしたが、話は終わりとばかりにトランプから生み出された扉が揺れる。炎が風を受けて形を変えるように、白と黒、両方の扉が存在を主張する。
カモメがいつもの仏頂面に戻って、宗治郎と未羽それぞれに顔を向ける。空気が締まったように感じた。
「では、本当なら墨師がすべき最後の説明をさせていただきます。質問は随時受け付けますが、最終的な判断は当主様の役割なので、より詳しく知りたい場合はのちほど当主様に訊いてください」
カモメの講義が始まると思った。言質霊について教えられたときのような、細かくて、先生のような話の仕方を期待した。
「単刀直入に訊きますが」
しかしカモメの第一声は、宗治郎の予想の真逆を行った。
「殲滅と免罪。どっちがいいですか」
意味がわからずぽかんとする宗治郎を置いて、話は進む。クエスチョンマークが浮かぶ宗治郎とは対照的に、未羽は質問の意味をすぐに理解したらしい。先ほどまでとは打って変わって、宗治郎に泣きついたりせず、カモメの話を真剣に聴き始めた。
【第21回 豆知識のカモメ】
粛善は特大筆の墨の補充に行った
「見に行かないでくださいね。当主様はいま一人になりたいんですから。アホガリにも言質霊にも言っておかないと」
(そういえば当主様、食後のお茶飲んでなかったな。喉乾いてるんじゃ……でもあんなにわかりやすく補充セットを持っていったってことは、ぼくにも来るなってことだろうし。川にいるならそのまま飲むか。でも一日中、川にいる? あそこ直射日光だし、今日暑いし、熱中症……虫とかも大丈夫かな)
お読みいただきありがとうございました。
《次回 美由紀(1)》
粛善視点に移ります。しょんぼりしつつ、まあ元気。
どうぞよろしくお願いいたします。




