第4話 狂気の観覧席と崩壊の足音
その日も、ルナリア王国の地下深くにある巨大闘技場『ゲヘナ』は、むせ返るような血の匂いと異常な熱狂に包まれていた。
闘技場のすり鉢状の底、赤黒く染まった熱砂の上で、凄惨な死闘が繰り広げられている。
対峙しているのは、一人の赤髪の剣闘奴隷――ラージュと、全身を鋭い棘で覆われた四足歩行の巨大な魔獣『棘皮獣』の群れだ。
並の剣士であれば、その棘に触れただけで肉を抉られ、猛毒に侵されて死に至る凶悪な魔獣。それが三体同時に放たれているというのに、戦況は完全に一方的な蹂躙劇と化していた。
「オラァッ!! 死ねェッ!!」
ラージュの咆哮が響き渡る。
彼女は身の丈以上もある大剣を風車のように振り回し、魔獣の棘ごと、その強固な頭蓋を粉砕した。
グチャリ、という耳障りな破砕音と共に、魔獣の巨大な体躯が宙を舞い、闘技場の石壁に激突して絶命する。
返り血を頭から浴び、ビキニアーマーから覗く肌を赤く染め上げたラージュは、休むことなく残りの魔獣へと突進していく。
防御など一切考えていない。ただ自身の命を削り、敵の命を刈り取るためだけの、破滅的な剣舞。
その血塗られた姿に、観客席を埋め尽くす貴族の女たちは、顔を紅潮させて狂ったような歓声を上げていた。
「いいぞ! もっとやれ『紅蓮の魔神』!」
「さっさと残りの獣もミンチにしなさい! 私の賭けた金貨が倍になるのよ!」
「あぁっ、なんて野蛮で美しいの! あの奴隷、今夜私のベッドに……」
醜悪な欲望。金と血の匂いに酔いしれる特権階級の嬌声。
だが、その狂騒の渦から完全に切り離された空間が、闘技場の上層に存在していた。
分厚い防音ガラスと強力な魔法結界によって守られた、最上階の特等席――VIPルーム。
そこは、柔らかな絨毯が敷かれ、豪奢な調度品が並ぶ、下界の血みどろの砂場とは対極にある静謐な空間だった。
そのVIPルームのガラスの前に立ち、眼下の殺戮ショーを見下ろしている者たちがいた。
漆黒の外套を羽織った、長身の男。
ルナリア王国の裏社会を牛耳る暗殺貴族、ナイトレイ辺境伯家当主、ヴィクター・ナイトレイ。
そして、彼の傍らには、まだ十歳にも満たない幼い少年――クロノス・ナイトレイの姿があった。
彼らの背後には、気配を完全に消して控える七つの影。先代の『四律師』と、各部隊のリーダーたちである。
「……父上」
幼いクロノスは、ガラス越しに下界の惨状を見つめながら、ぽつりと呟いた。
彼の瞳に恐怖の色はない。だが、純粋な疑問がその小さな顔に浮かんでいた。
「なぜ、こんな闘技場が王都の地下にあるのですか? あの人たちは、なぜあんなに嬉しそうに人が殺し合うのを見ているんですか?」
クロノスの問いに、ヴィクターは静かに息を吐き、重々しい声で答えた。
「……気になったものでな。少し、お前にもこの国の『現実』を見せておこうと思ったのだ」
ヴィクターは、ガラスの向こうで扇子を振り回し、下品な笑い声を上げる貴族の女性たちを顎でしゃくった。
「クロノス、よく見ておけ。これが、このルナリア王国の狂った『在り方』だ」
「在り方……ですか?」
「そうだ。女性が絶対的な権力を持ち、魔力を持たぬ男を弱者として扱う。それだけならばまだ、歪な庇護の関係として成立したかもしれない。だが、権力というものは必ず腐敗する」
ヴィクターの瞳の奥に、国を憂う深い怒りの炎が揺らめいた。
「あの貴族たちは、法で裁けぬ弱者や他国の捕虜を奴隷に落とし、娯楽として命を消費している。己の懐を肥やすための賭けの対象とし、見下し、血を見て興奮する。……このVIPルームでさえそうだ」
ヴィクターは、部屋の入り口に立つ王室直属の女性近衛兵たちを横目で見た。彼女たちの目には、ヴィクターたちナイトレイ家の男に対する明確な「侮蔑」が混じっている。
「我々ナイトレイ家は、王国の闇を掃除する『処刑人』の役割を担っている。だが、彼女たちから見れば、男である我らなど、ただの便利な『猟犬』に過ぎない。この特等席に通されているのも、我らが男だから見下されているだけのことなのだ」
「……」
幼いクロノスは、父の言葉の重大さを、まだ完全には理解できていない様子だった。
前世の記憶がうっすらと蘇りつつある彼にとって、この「女尊男卑」の理不尽な世界観は、まだどこか現実離れした舞台装置のように感じられていたからだ。
だが、窓の向こうで必死に魔獣の血を浴びている赤髪の女の姿だけは、なぜか彼の目を強烈に惹きつけて離さなかった。
その時。
背後の影から、一人の女性が音もなく進み出た。
先代の『冥土』部隊のリーダー。漆黒のメイド服に身を包んだ、冷徹な暗殺者。
「ヴィクター様。……そろそろ、お時間です」
「あぁ。もうそんな時間か」
ヴィクターは懐中時計を確認し、パチンと蓋を閉めた。
その顔つきが、父親のものから、冷酷な『暗殺組織の長』の顔へと切り替わる。
「クロノス。お前はガレアと共に、ここに残っていなさい」
ヴィクターが振り返り、背後に控えていた一人の屈強な女性に声をかけた。
燃えるような赤髪を短く刈り込み、筋骨隆々の肉体を誇る巨女。先代の『火怒』リーダー、ガレアだ。
彼女は巨大な大斧を背負い、歴戦の猛者特有の落ち着いたオーラを放っていた。
「私はこれから少し、ルナリア王国の女王陛下と『謁見』をしてくる。……ガレア、クロノスを頼むぞ」
「ハッ。お任せを、旦那様。若様の御身は、このガレアが命に代えてもお守りいたします」
ガレアが深く首を垂れる。
ヴィクターはクロノスの頭を一度だけ優しく撫でると、冥土のリーダーと他の側近たちを連れて、足早にVIPルームを後にした。
扉が閉まり、部屋にはクロノスとガレアの二人だけが残された。
眼下の闘技場では、ラージュが最後の一体の魔獣の頭部を大剣で叩き割り、熱狂のピークに達していた。
歓声が防音ガラスを微かに震わせる。
ガレアは、ヴィクターが立っていた場所へ歩み寄り、クロノスの隣に腰を下ろした。巨体である彼女が座ると、高級なソファーがミシリと悲鳴を上げた。
「……若様。彼女が、気になりますか?」
ガレアの突然の問いかけに、クロノスは「え?」と不思議そうに顔を上げた。
「先ほどから、旦那様が深刻な話をされていても、若様は少し上の空で……ずっと、真剣に彼女の戦いを見ておられたので」
ガレアは、闘技場の中央で荒い息を吐きながら大剣を杖にしているラージュを、太い指で指差した。
「そ、そんなことないよ。……ただ、彼女には、何かあるんじゃないかなと思って」
クロノスは少し慌てて誤魔化したが、再び視線はラージュへと吸い寄せられていった。
「こんなひどい闘技場で、あんなに血まみれになって戦っているのに……彼女の目は、全然諦めていないように見えたから」
クロノスの純粋な言葉に、ガレアはフッと小さく鼻を鳴らした。
そして、ガラス越しにラージュの戦いぶりを、プロの戦士としての鋭い目で見下ろした。
「……ぬるいですね」
「えっ?」
「彼女の剣は、ぬるい。ただの力任せの暴力です。あれは『戦い』ではありません」
ガレアは腕を組み、冷酷なまでに的確な評価を下した。
「確かに、彼女の持って生まれた身体能力や筋力は、そこらの騎士を遥かに凌駕しているでしょう。ですが、彼女の太刀筋には『守るべきもの』がない。ただ感情に任せ、破壊衝動に身を任せて剣を振っているだけです」
ガレアの言葉は、闘技場でのラージュの立ち回りの本質を完璧に見抜いていた。
防御を捨て、己の肉体を削りながら敵を斬る。
それは強さではない。ただの自暴自棄だ。
「彼女の目は、諦めていないのではなく……『死に場所』を探しているだけの、飢えた獣の目です。あのような自暴自棄な剣を振るう者は、いずれ必ず、己の脆さに足をすくわれて死にます」
「…………」
「彼女は弱いです。精神的に、すでに折れかかっている。……もし、若様があの女を我がナイトレイの近衛にスカウトしたいとお考えなのであれば、私はおすすめしませんよ」
ガレアは立ち上がり、大きな温かい手でクロノスの小さな肩をポンと叩いた。
それは、火怒のリーダーとして、次期当主であるクロノスに『強さの本質』を教えようとする、彼女なりの優しさだった。
だが。
ガレアの忠告を聞きながらも、クロノスの視線は、熱した砂の上で孤高に立つラージュの姿から離れなかった。
確かに、ガレアの言う通りかもしれない。彼女の剣は破滅的で、彼女の心は絶望に沈んでいるのだろう。
しかし、クロノスの脳裏に焼き付いたあの紅蓮の髪と、全てを叩き壊そうとするような悲痛な剣の軌跡は、彼の心の奥底にある何かを強く揺さぶっていた。
(……いや。あの人は、ただ弱いだけじゃない)
クロノスはガラスに額を押し当て、熱狂に包まれた闘技場を見つめ続けた。
あの泥と血にまみれた絶望の底で、それでも手放さずに握りしめられている『誇り』の残滓。
もし、あそこに俺が手を差し伸べたら。
彼女の抱えるその圧倒的な暴力を、俺が正しい方向へ導くことができたら。
おそらく、この時からすでに、クロノスの運命の歯車は回り始めていたのだ。
彼が後に、あの絶望の底にいる剣闘奴隷『ラージュ』を拾い上げ、最強の側近『ティラン』として名を与えるという、血塗られた絆の始まり。
VIPルームの冷たい静寂の中で、幼き主の決意は、密かに、だが確かな熱を持って産声を上げていた。
◆ ◆ ◆
闘技場の熱狂から一夜明けた、次の日の朝。
ルナリア王国の王都は、突き抜けるような青空とは裏腹に、かつてないほどのパニックと絶望のどん底に叩き落とされていた。
ゴォォォォォォン……! ゴォォォォォォン……!!
王城の最も高い尖塔から、国中に非常事態を告げる重苦しい弔鐘が鳴り響いている。
メインストリートには武装した近衛兵たちが血相を変えて走り回り、貴族たちは顔面蒼白で情報を求めて右往左往していた。
昨日まで、永遠に続くと思われていた「女性優位の絶対的な権力構造」。
それが、たった一夜にして、音を立てて崩れ去ったのだ。
ルナリア王国の絶対君主である女王が、何者かによって『暗殺』された。
王城の最深部。何重もの魔法結界と、最強の女性近衛騎士たちによって守られていたはずの王の寝室。
そこで女王は、一滴の血も流さず、抵抗した痕跡すらなく、まるで眠るようにして冷たくなっていたという。
毒殺か、呪いか、あるいは未知の暗殺術か。
侵入者の形跡もなければ、魔法を使用した残滓すらない。
完璧すぎる仕事。
「おのれ……! 警備の者たちは一体何をやっていたのだ!!」
「結界に異常はなかった! 犯人は、影のように現れて、影のように消えたとしか……!」
「至急、国境を封鎖しろ! 怪しい者は一人残らず捕らえて拷問にかけろ!」
王宮の中枢は、完全に機能を停止し、互いを疑い合う猜疑心と恐怖の渦に飲み込まれていた。
絶対的な指導者を失った国がどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
権力の空白を巡る貴族同士の血みどろの派閥争い。そして、この混乱を好機と見た近隣諸国からの侵略の足音。
ルナリア王国は、この日を境に、取り返しのつかない崩壊の一途を辿ることとなる。
だが、その大混乱を極める王都を背に、早朝の街道を静かに離れていく一台の馬車があった。
ナイトレイ辺境伯家の紋章が刻まれた、黒塗りの馬車。
その車内で、ヴィクター・ナイトレイは、目を閉じて深く座席に背中を預けていた。
「……ご苦労だったな。皆、怪我はないか」
「ハッ。滞りなく。……女王の命、確実に刈り取りました」
冥土のリーダーが、恭しく頭を下げる。
ヴィクターの瞳が、ゆっくりと開かれた。その目には、大仕事を成し遂げたという達成感は微塵もなく、ただ冷徹な虚無だけが宿っていた。
これが、ナイトレイ家が代々背負ってきた「呪い」であり「使命」。
国を護るため、腐りきった権力を闇から切り捨てる。
証拠も、痕跡も、何も残さない。
犯人は、永遠に闇の中へと消えていくのだ。
「……父上」
隣の席に座っていたクロノスが、小さく声をかけた。
ヴィクターは、そんな息子の頭を、いつものように優しく、大きな手で撫でた。
「クロノス。よく見ておけ。そして、覚えておけ。……これが、我らナイトレイの歩む道だ。光を護るために、自ら泥と血にまみれる覚悟。お前もいずれ、この重荷を背負うことになる」
ヴィクターの言葉は、幼いクロノスへの遺言のようにも聞こえた。
馬車の窓の外で、遠ざかっていく王都の景色が、朝焼けの赤い光に照らされている。
ルナリア王国が滅びの道を進むのと反比例するように、ナイトレイの血を引く少年と、絶望の底で彼を待つ紅蓮の剣闘奴隷との運命は、いよいよ交差する時を迎えようとしていた。
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