第3話 血塗られた狂宴と孤独の墓標
咽せ返るような血の匂いと、獣の臓物が放つ強烈な腐敗臭。それに、何百、何千という人間の汗と熱気が混じり合い、闘技場のすり鉢状の底には、濃密な死の空気が泥のように滞留していた。
ルナリア王国、王都の外れの地下深くに建造された巨大闘技場『ゲヘナ』。
そこは、表向きこそ「高貴なる貴族たちのための秘密の社交場」と名乗っているが、その実態は法で裁けぬ大罪人や他国からの捕虜、そして生け捕りにされた異形の魔獣たちを無理やり殺し合わせる、狂気と快楽の坩堝であった。
「殺せッ! いいぞ、もっとやれ! その男の四肢を無残に引きちぎれ!」
「ああっ、もっと血を! 私が賭けた金貨百枚を無駄にする気!? さっさとその獣の腹を裂きなさい!!」
すり鉢の底を見下ろす観客席から降り注いでくるのは、煌びやかなシルクのドレスや高価な宝石に身を包んだ、女性貴族たちの耳をつんざくような嬌声と罵声だった。
このルナリア王国、いや、この世界において、男性は魔力が乏しく、肉体的にも非力な「庇護されるべき弱者」である。特権階級の女性貴族たちは、美しい男をペットのように侍らせ、ワイングラスを傾けながら優雅に微笑んでいる。
だが、その彼女たちの足元、この闘技場の熱した砂を赤黒く染めているのは、魔獣の血だけではない。娯楽として消費され、無惨に引き裂かれていった、無力な男性剣闘士たちの血もまた、そこには大量に混じっているのだ。
守られるべき弱者を、己の懐を温めるための賭けの対象とし、その死に様を見て嘲笑い、興奮に頬を染める。
これが、ルナリア王国の裏側に巣食う、権力者たちの腐りきった本性だった。
ズガァァァァァァンッ!!!!
地響きのような凄まじい轟音と共に、闘技場を取り囲む分厚い石壁に、巨大な質量の塊が叩きつけられた。
体長五メートルを超える、四つの凶悪な瞳を持つ双頭虎。鋼鉄の盾をも容易く噛み砕くと言われる、Sランク指定の恐るべき魔獣だ。
だが、その巨体は今、原形を留めないほどに無惨にひしゃげ、壁にめり込んだままビクビクと痙攣し、大量の血反吐を吐き散らして息絶えようとしていた。
その巨大な猛獣を、たったの一撃で、まるで羽虫でも払うかのように壁まで吹き飛ばした者がいた。
「……次」
もうもうと舞い上がる砂埃と血の霧の中から響いたのは、酷く低く、そして感情の抜け落ちた、乾ききった女の声だった。
燃え盛るような、紅蓮の長髪。
身の丈以上もある巨大で無骨な大剣を片手で軽々と引きずりながら、一人の女が悠然と歩み出てくる。
際どいビキニアーマーに覆われた豊満な肢体には、魔獣から浴びたばかりの新しい鮮血と、これまでの死闘で刻まれた無数の古い傷跡が重なり合っている。
そして、彼女の首には、決して外れることのない重々しい鉄の輪――大罪人、そして『奴隷』の証である、呪印が施された隷属の首輪が、冷たく鈍い光を放って食い込んでいた。
(……つまらねぇ)
ラージュは、大剣の切っ先からポタポタと滴る魔獣のドス黒い血を無造作に振り払い、鬱陶しそうに観客席を見上げた。
狂喜乱舞し、醜く顔を歪めて歓声を上げる貴族の女たち。自分の命を、ただの金儲けのサイコロとしてしか見ていない、肥え太った醜悪な豚ども。
今すぐ、あの観客席にこの大剣を放り投げ、あのニヤケ面をまとめてミンチにしてやりたい。そんなドス黒い破壊衝動が、常に彼女の腹の底でマグマのように燻っている。
だが、首輪に刻まれた呪印が、それを決して許さない。
闘技場の主への反抗、観客への殺意、あるいは逃亡の意思を抱いた瞬間、この首輪は術者の魔力に反応し、ラージュの全身の血液を沸騰させるような致死的な激痛を与える仕組みになっているのだ。
自由はない。未来もない。尊厳など、とっくの昔にこの砂に埋もれた。
かつて王国兵として国を護るために振るっていたはずの誇り高き剣は、今や豚どもを楽しませるための見世物の道具に成り下がった。
彼女に残されているのは、ただ目の前の敵を粉砕するという「戦う」本能だけだった。
闘技場の奴隷として、彼女は純粋に『死に場所』を探していた。
だが、皮肉なことに、彼女を絶望の底に突き落としたその「類稀なる圧倒的な力」のせいで、並の魔獣や剣闘士では、彼女の体に傷一つ負わせることすらできないのだ。
誰か、俺を殺してくれ。俺の心臓をその刃で貫き、この吐き気のする無間地獄から永遠に解放してくれる強者はいないのか。
そんな絶望的な祈りを胸の奥底に秘めながら、ラージュは今日もただ機械的に、目の前に放たれる敵を屠り続けていた。
「さぁさぁさぁ! 圧倒的、あまりにも圧倒的だ! 我らが無敗の剣闘奴隷、血に飢えた『紅蓮の魔神』ラージュ! 次の相手は、東方の魔境から生け捕りにされた、泣く子も黙る残虐な悪鬼……『装甲鬼』三体だァァッ!」
実況の甲高い声が闘技場に響き渡ると同時、反対側の巨大な鉄格子がギギギと重い音を立てて引き上げられた。
暗がりの中から姿を現したのは、全身が岩石のように硬く分厚い甲殻で覆われた、体長三メートルを超える三体の異形の怪物だった。
「ゴォォォォォォォッ!!」
血の匂いに興奮した装甲鬼たちが、地響きを立てながら、三方向から一斉にラージュへと突進してくる。
「……来いよ。少しは骨のある死に方をさせてやる。……そして、俺を楽しませろ」
ラージュの唇が、三日月のように歪んだ。獰猛な、獣のような笑みだった。
心では死を求めているはずなのに、いざ命のやり取りを前にすると、細胞の隅々にまで染み付いた戦士の血が、マグマのように沸騰を始めるのだ。
無抵抗で殺される気など、毛頭ない。
彼女を殺すことができるのは、彼女が全力を出し切った上で、さらにその上を行く、理不尽をねじ伏せるほどの絶対的な『強者』だけだ。
ドッ!!
ラージュが熱した砂を蹴り上げ、自らも装甲鬼の群れへと突っ込んでいく。
「グルアァッ!」
先頭の装甲鬼が、鋼の如き硬度を誇る丸太のような右腕を振り下ろす。直撃すれば、岩盤すら粉々になる一撃。
だが、ラージュはそれを避けることすらしない。
「遅ぇよ」
下から上へ。
ラージュの大剣が、空気を圧縮するような凄まじい風切り音を立てて跳ね上がった。
ドゴォォォォォンッ!!!!
金属と岩石が衝突したような、耳をつんざく爆音が闘技場を揺らした。
装甲鬼の硬質な腕が、大剣の圧倒的な質量の前に、まるで枯れ枝のように粉砕される。
「ギ、ギャアァァァァッ!?」
悲鳴を上げる暇すら与えない。振り抜いた大剣をそのまま強引に手首で返し、今度は横薙ぎの一閃。
バキィィィンッ!
という破壊音と共に、装甲鬼の強固な頭蓋が、兜(甲殻)ごと無惨にカチ割られ、脳漿と鮮血が噴水のように吹き上がった。
「ヒャハハハハッ! もっとだ! もっと来いッ!!」
返り血を全身に浴び、赤髪をさらに赤く染め上げながら、ラージュは狂ったように哄笑した。
斬るのではない。叩き潰す。粉砕する。
その姿は、まさに実況が名付けた通りの『紅蓮の魔神』そのものだった。
彼女は、胸の内に渦巻く世界への憎しみ、国家への怒り、そして死ねない自分自身への絶望を、全てその大剣に乗せて、血と肉が飛び交う戦いの渦へと深く、深く没入していった。
◆ ◆ ◆
数十分後。試合終了の銅鑼が、闘技場に空しく鳴り響いた。
フィールドの中央には、バラバラの肉塊と化した三体の装甲鬼の死体が転がり、その真ん中で、ラージュが大剣を杖にするようにして荒い息を吐いていた。
今日もまた、彼女を殺せる者は現れなかった。
ガチャガチャ、と金属の擦れる音が近づいてくる。
試合が終わったのを見計らい、重武装したコロシアムの兵士たちが十数人がかりでフィールドに降りてきた。
彼らの手には、強力な拘束魔法が編み込まれた特殊な分厚い鎖が握られている。
いかに隷属の首輪があるとはいえ、興奮状態にあるこの怪物を、そのままにしておくわけにはいかない。万が一、反乱を起こされて観客席にでも飛び込まれれば、闘技場の胴元は莫大な損失と責任を負うことになるからだ。
それを避けるため、ラージュは試合が終わるたび、こうして豚のように縄で縛り上げられ、地下の牢獄へと引きずり戻されるのだ。
「大人しくしろよ、怪物め」
「おい、しっかり鎖を巻け! 緩んでたら俺たちの首が飛ぶぞ!」
兵士たちは、ラージュの抵抗がないことを確認しながらも、怯えた手つきで彼女の腕を後ろ手に縛り上げ、何重にも鎖を巻きつけていく。
ラージュは抵抗しなかった。ただ、虚無の宿った瞳で、血に濡れた砂を見つめているだけだ。
兵士たちに両脇を抱えられ、薄暗い地下の廊下を引きずられていく。
そして、腐臭の漂う、藁がわずかに敷かれただけの劣悪な牢屋へと、乱暴に投げ捨てられた。
ドサッ、と冷たい石の床に体が叩きつけられる。
「今日もご苦労だったな。せいぜい、次の試合までその汚い命を繋いでおけよ」
兵士の一人が、まるで路傍の石にでも声をかけるような、何の感情も籠もっていない蔑みの言葉を投げかけ、鉄格子の鍵をガチャンと閉めて去っていった。
彼らにとって、ラージュは人間ではない。ただ、金を生み出すための消費アイテムに過ぎないのだ。
兵士たちの足音が遠ざかり、牢屋に再び重苦しい静寂が戻ってきた。
ラージュは、鎖で縛られたまま体をゆっくりと起こし、口の中に溜まっていた血の混じった唾を、冷たい石の床へと吐き捨てた。
「……クソが」
掠れた声が、暗い牢獄に虚しく響く。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、切られた傷口が熱を持っている。
だが、それ以上に彼女の心を蝕んでいるのは、どうしようもないほどの『孤独』だった。
ラージュは、鎖で縛られた手を不器用に動かし、牢屋の隅にある、壁の石組みの一つにそっと触れた。
そこは、少しだけ他の石と色が違い、人為的に抉られたような痕跡があった。
「……みんな。今日も帰ってきたぞ」
ラージュは、その冷たい石に向かって、ポツリと語りかけた。
その石の下、いや、この闘技場の地下深くの暗闇には、無数の「彼ら」が眠っている。
かつて、この牢屋にラージュが放り込まれた日。絶望して壁を向いていた、あの全身傷だらけで右目が潰れた老人。右腕を欠損していた男。膝から下を失っていた女。
彼らは皆、ラージュに「諦めろ」と釘を刺した者たちだった。
だが、彼らはもうここにはいない。
数日前の試合で、魔獣の餌食になり、あるいは見世物としての価値を失い、ゴミのように処分されていった。
どんなに言葉を交わさなくとも。
同じ地獄を共有し、同じ泥水をすすり、共に絶望の淵に立っていた「同室の者たち」。
彼らが一人、また一人と死に絶え、牢屋から連れ出されて二度と戻ってこないたびに、ラージュの心は少しずつ、確実に削り取られていった。
彼らが寝ていた場所には、微かに血の染みだけが残されている。
今はもう、この冷たく広い牢獄には、ラージュ一人しかいない。
「……クソッ……」
ラージュは、石に触れたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。
死にたい。
だが、死なせてくれない。
生きたいわけではない。だが、戦わずにはいられない。
彼女の魂は、この血塗られたゲヘナの泥の中で、ただ緩やかに摩耗し、すり減っていくのを待つしかなかった。
一筋の光すら差し込まない暗闇の中で、彼女の赤い髪だけが、命の残り火のように微かに揺れていた。
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