第2話 陥穽の裁判とゲヘナの産声
時は遡ること、十数年前。
ルナリア王国は、大陸でも有数の軍事力と豊かな国土を誇る大国として知られていた。王都のメインストリートは白亜の石畳で舗装され、夜になれば魔石燈の眩い光が不夜城のごとく街を照らし出す。
だが、その華やかな光は、あくまで一部の特権階級――貴族や大商人たちだけを照らすものに過ぎない。
光が強ければ強いほど、そこに生じる影もまた濃く、そして深い。
王都の裏路地には貧困と病が蔓延し、権力者たちは賄賂と陰謀にまみれ、己の私腹を肥やすことしか頭になかった。国を護るべき軍部すらも腐敗しきっており、出世の道は実力ではなく、いかに上位の貴族に媚びへつらい、黄金を積むかによって決まる。
それが、当時のルナリア王国の真実の姿だった。
そんな腐臭の漂う国で、ラージュは王国軍の一兵卒として日々を過ごしていた。
類稀なる身体能力と、獣のような闘争心。本来であれば最前線で武功を挙げ、瞬く間に将軍の座にまで上り詰めてもおかしくない才能を、彼女は持っていた。
だが、現実は残酷だ。
「平民出身」であり、「権力者に媚びることを良しとしない」不器用な彼女に与えられたのは、来る日も来る日も終わりの見えない基礎訓練と、丸々と太った貴族たちの馬車を護衛するだけの、退屈で無為な任務だけだった。
息が詰まりそうな毎日。
木剣を振り下ろすたびに、自分の人生がすり減っていくような虚無感。
戦場という実戦の場に出ることも叶わず、ただ飼い殺しにされるだけの猟犬。
(こんな国、いっそ滅んじまえ……)
それが、当時のラージュが心に抱えていた、決して口には出せない鬱屈した本音だった。
そんな彼女の運命が狂い始めたのは、ある陰鬱な雨の日のことだった。
「――ラージュ! 貴様を国家反逆および要人暗殺の容疑で拘束する!!」
深夜の兵舎。突然蹴り破られた扉と共に雪崩れ込んできたのは、重武装した王国憲兵たちだった。
寝込みを襲われたラージュは、状況を飲み込む間もなく何人もの憲兵に取り押さえられ、冷たい床に顔を押し付けられた。
「な、何かの間違いだ! 俺が誰を殺したって言うんだ!?」
泥にまみれたブーツで頭を踏みつけられながら、ラージュは必死に抗議した。
だが、憲兵の隊長は冷酷な笑みを浮かべ、彼女の目の前に「証拠品」を放り投げた。
それは、見覚えのある一振りの剣だった。柄には、ラージュの所属部隊と認識番号が刻まれている。
数日前に兵舎の武具庫から盗まれ、紛失届を出していたはずの、彼女の支給剣だった。
「とぼけるな。昨夜、王城の離宮で暗殺された財務大臣の胸に、この剣が深々と突き刺さっていたのだ。現場には争った形跡があり、犯人は並外れた腕力を持つ者と推測されている。貴様以外に誰がいる?」
「ふざけるな! その剣は数日前に盗まれたものだ! 俺は昨夜、ずっとこの兵舎にいた!」
「黙れ、下賤の分際で言い訳をするな!!」
憲兵の容赦ない蹴りが、ラージュの脇腹に深々と突き刺さる。
彼女はそのまま無理やり引きずり起こされ、冷たい鉄の鎖で幾重にも縛り上げられた。
事件の真相は、至極単純なものだった。
国の中枢で起きていた、権力闘争と利権を巡る貴族同士の暗殺劇。
実行犯であるプロの暗殺者を逃がし、事件を早期に「解決」するためのスケープゴート。それに、腕っぷしだけは強く、後ろ盾を持たない孤児上がりの平民であるラージュが選ばれたのだ。
すべては、腐りきった上層部の筋書き通り。
黒幕の真っ黒な影が、彼女を奈落の底へと引きずり込もうとしていた。
数日後。王国最高裁判所。
荘厳な大理石で造られた法廷は、異様な空気に包まれていた。
壁一面に飾られた初代国王の肖像画が、今の腐敗した国家を見下ろすように冷たい視線を投げかけている。
法廷の中央。被告人席に立たされているラージュの手足には、重罪人にのみ使われる分厚い鋼鉄の足枷と手枷が嵌められていた。少し動くたびに、ジャラジャラという耳障りな金属音が冷たい石の床に響き渡る。
「俺は無実だ! こんな裁判、最初から仕組まれてるじゃないか!!」
ラージュは血の滲む手首を振り乱し、裁判長に向かって声を荒げて怒鳴った。
拷問まがいの尋問を受け、顔は腫れ上がり、軍服は破れて血と泥にまみれている。それでも、彼女の瞳に宿る炎だけは消えていなかった。
壇上から彼女を見下ろすのは、たっぷりと肥え太った裁判長だ。その目は、路傍の石ころを見るような絶対的な侮蔑を含んでいた。
「静粛に。被告人ラージュ。お前の見苦しい嘘はすでに看破されている。お前の剣が事件現場に落ちていた。そして、大臣を殺害できるほどの腕力を持つ者は、お前しかいない。それが何よりもの動かざる証拠だ」
「だから、その剣は盗まれたものだと言っているだろうが! 今はこれを使っている!!」
ラージュは、尋問官から取り上げられる直前まで腰に差していた、新しく支給された予備の剣を指差そうとしたが、手枷が邪魔をしてうまく腕が上がらない。
「ふん。己の罪から逃れるための、見え透いた言い訳だな。平民の浅知恵など、この神聖な法廷では通用せん」
「……ふざけるなッ!!」
ドンッ!!!!
ラージュが怒りに任せて、手枷の嵌められた両腕で力任せに目の前の分厚いオーク材の机を叩きつけた。
凄まじい轟音と共に、頑強なはずの机に深い亀裂が走り、木片が飛び散る。
その常軌を逸した膂力に、傍聴席と陪審員席から「ヒッ」という短い悲鳴が上がった。
「陪審員の皆さん。見ましたか、あの恐ろしい暴力を!」
検察官が、まるで待っていましたとばかりに大げさに両手を広げて叫んだ。
「あの力こそが凶器なのです! あの野蛮な力が、善良なる大臣の命を奪ったのです。もはや疑う余地などありません。こいつが、血に飢えた殺人鬼なのです!!」
陪審員席に座る貴族たちは、一様に青ざめた顔で頷き合っている。
いや、彼らも最初から買収されているのだ。
この裁判は、最初から結末の決まっている三文芝居。
ラージュを犯人に仕立て上げ、黒幕の存在を隠蔽するための、腐りきった茶番劇。
もう、判決が覆ることはない。無実であろうがなかろうが、自分はここで罪を被せられ、殺される。
(……あぁ、そうか。この国は、とっくに腐り落ちていたんだな)
ラージュは、怒りで沸騰していた頭が、急速に冷え切っていくのを感じた。
現実を悟ったのだ。
自分が今まで、こんな腐敗した豚どものために剣を振り、真面目に訓練を積んでいたのかと思うと、心の底から吐き気がした。
「黙りましたね。己の罪の重さに気づき、ようやく認める気になったということでしょう。裁判長、これ以上の審議は時間の無駄です。迅速なる判決を」
「うむ。よかろう。判決を言い渡す」
裁判長が、木槌を一度、高く鳴らした。
「被告人、ラージュ。貴様の犯した罪は国家への反逆であり、極刑に値する。よって、貴様を――死刑とする」
死刑。
その響きは、普通の人間からすれば、絶望の淵に突き落とされる死の宣告だろう。
だが。
今のラージュにとって、その言葉はなぜか、この上なく甘美な響きに聞こえた。
息が詰まりそうな毎日。実戦もないまま、理不尽に虐げられ、腐った権力者の顔色を窺うだけの無価値な人生。
無実の罪で殺されるのは腹立たしいが、今のこの地獄のような現状から解放されるのであれば、むしろ好都合ではないか。
「……く、くくっ……」
不意に、ラージュの喉の奥から笑いが込み上げてきた。
「は、はははははっ! 傑作だ!!」
静まり返る法廷に、手枷と足枷をジャラジャラと鳴らしながら、ラージュの狂ったような哄笑が響き渡る。
裁判長も、陪審員たちも、何事かと気味悪そうに彼女を見下ろした。
「死刑? ああ、好都合だ! こんな腐った国で生きていくより、死んだ方がずっとマシだ! さあ、殺せ! 俺を早く殺せ!! ギロチンでも絞首刑でも、今すぐここでやってみせろ!!」
それは、絶望を通り越した者の、命を投げ打った叫びだった。
その狂気に満ちた姿に、法廷の空気が凍りつく。
「ま、待った。その死刑の宣告に、異議を申し立てる」
その時。 法廷の分厚い扉が開き、重々しい足音と共に背後から声が響いた。 ラージュはその声を聞いた瞬間、全身の毛穴が粟立ち、胃酸が逆流するような強烈な嫌悪感を覚えた。虫酸が走る。 ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、見慣れた軍服を着た女。 ラージュが所属していた部隊のリーダー、隊長だった。
「……隊、長」
ラージュは乾いた唇から言葉を絞り出した。彼が、自分を助けに来てくれたのか? いや、そんなはずはない。この女もまた、上層部に媚びを売ることで出世してきた腐敗の象徴のような人間だ。
「裁判長殿。そいつは、見ての通り血の気が多く、野蛮な獣です。ですが、ただ殺してしまうには少々……惜しい才能を持っています」
隊長は、ラージュを一瞥すらせず、まるで品評会で家畜を値踏みするかのように語り始めた。
「実戦経験こそありませんが、その身体能力は軍の中でも群を抜いています。今そいつをただ殺してしまえば、国にとっても大きな『損益』になる可能性がある」
「……何を言っている? 国家反逆者を助命せよとでも言うつもりか?」
裁判長が不快そうに眉をひそめる。
「滅相もございません。殺人は大罪。当然、死刑に値します」
隊長の口元が、三日月のように歪んだ。
「であれば、ただ殺すのではなく、『見世物』にして利益を生ませては如何でしょうか」
「見世物だと?」
「ええ。こいつを、地下闘技場行きにすればいいのです。血に飢えたこいつには、『ゲヘナ』の砂上がうってつけだ」
『ゲヘナ』。
その名を聞いて、法廷内がざわめいた。
王都の地下深くにある、非合法の闘技場。犯罪者や奴隷、魔獣たちが血みどろの殺し合いを演じ、貴族たちが莫大な金を賭けて楽しむ、狂気と欲望の坩堝。
あそこに送られた者は、例外なく、肉片すら残らず悲惨な死を遂げるという、文字通りの地獄だった。
「コロシアムで負ければ、どうせ死にます。ギロチンで一瞬で殺すよりも、コロシアムで嬲り殺しにされる方が……それこそ、大罪人の末路に値する素晴らしい見せ物になるのでは?」
「……なるほど。確かに、ただ殺すのでは国庫の足しにもならん。良い提案だ」
裁判長と隊長が、醜悪な笑みを交わす。
そして、隊長はゆっくりとラージュに歩み寄り、その肩にポンと手を置いた。
「それに、ラージュ。お前は無実なんだろ?」
耳元で囁かれたその声には、嘲笑と悪意がネットリと張り付いていた。
「なら、地獄の底で、その剣で無実を証明してみせろ。できるものならな」
すべてを理解した。
この男も、最初からグルだったのだ。自分の部下を売り飛ばし、さらには闘技場の胴元から紹介料までせしめようという腹積もりに違いない。
「おのれ……ッ!!」
「静粛に!!」
裁判長の木槌が、ラージュの怒号を遮るように打ち鳴らされた。
「先ほどの判決を再度言い渡す! 被告人ラージュ。貴様を死刑から、地下闘技場『ゲヘナ』での剣闘奴隷刑へと変更する! 判決は絶対である。以上、閉廷とする!!」
その宣言と共に、複数人の筋骨隆々な近衛兵たちがラージュに群がり、その両腕を強引に担ぎ上げた。
「くそっ! 放せ!! コロシアムなんて、俺は行かないぞ!! 触るんじゃねぇ!!」
ラージュは必死に暴れ、咆哮したが、手枷と足枷の重さに加え、数人がかりの力に抗うことはできなかった。
薄暗い法廷から、さらに深い闇の底へと、彼女は引きずられるように連行されていった。
王都地下闘技場『ゲヘナ』、地下牢。
日の光など一切届かない、冷たく湿った空気が漂う石造りの牢獄。
血と汗と、排泄物の入り混じった腐臭が鼻をつく。
ラージュは、鉄格子の奥にある、カビの生えた藁がわずかに敷かれただけの劣悪な空間に放り込まれた。
「せいぜい、ここで頑張れよ。元王国兵殿」
ラージュを押し込んだ兵士が、格子越しに皮肉混じりの言葉を吐き捨て、唾を吐いて去っていく。
「くそっ!! 待て!! 開けろ!!」
ラージュは弾かれたように起き上がり、兵士を追うように走ったが、分厚い鉄格子に激突し、鈍い音を立てて弾き返された。
ガチャンッ、と冷たい音が響き、兵士の足音は暗闇の奥へと消えていく。
「……無駄だ。諦めろ」
不意に、背後の暗がりから、擦れた枯れ枝のような声がかけられた。
ラージュが振り返ると、そこにいたのは、人間と呼ぶのも憚られるような姿の者たちだった。
壁際で丸くなっているのは、全身傷だらけで、右目が潰れたボロボロの老人。
その隣には、右腕を肩から欠損している男や、両足の膝から下が失われている女が、死んだような虚ろな瞳でラージュを見つめていた。
誰もが、限界まで痩せこけ、肌には無数の鞭の跡と、深い刃物の傷が刻まれている。
「ここに入れられた以上、生きて抜け出すことは絶対にできねぇんだよ……」
老人が、ゴホゴホと血混じりの咳を吐きながら言った。
「お前も、すぐに俺たちみたいになる。諦めて……大人しく運命を受け入れろ……」
「……」
彼らの姿は、紛れもなく、近い未来の自分自身の姿だった。
絶望と死の匂いしかしないこの空間。
普通の人間なら、ここで心を折られ、死を待つだけの抜け殻になってしまうだろう。先ほど法廷で「殺せ」と叫んだ時のラージュであれば、彼らの横に座り込み、自ら命を絶つことを選んだかもしれない。
だが。
冷たい石壁と鉄格子に囲まれた今のラージュの胸の奥底には、別の感情が沸々と湧き上がっていた。
腐りきった国家。自分を売り飛ばした上官。そして、命を娯楽の道具として消費しようとする貴族たち。
その理不尽な悪意に対する、純粋で圧倒的な『怒り』。
「……ふざけるな」
ラージュは、鉄格子を握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「運命を受け入れろだと? 誰がそんなもん受け入れるか」
彼女は、ボロボロの老人たちを振り返り、暗闇の中でも爛々と輝く、獣のような双眸で見据えた。
「俺は抗ってやる。こんな腐った底なし沼から、とっとと這い上がってやる。あいつらの思い通りになんて、絶対にされてたまるか……ッ!」 「……バカだな。その時は、お前が肉塊の死体となって出っ転がされる時だけだ」 老人は呆れたように釘を刺し、再び壁に顔を背けた。
死体となって出るだけ。
上等だ。
殺されるのを待つだけの豚になるくらいなら、最後まで牙を剥き出しにして、運命の喉元に食らいついてやる。
ラージュの瞳には、かつての虚無感は消え失せていた。
ただ自暴自棄に死を望んでいた兵士は死に、ここから、過酷な運命に抗う、一人の血塗られた剣闘士の人生が幕を開けようとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、下にある広告下の評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に!)や、ブックマークで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想も一言いただけると、作者が泣いて喜びます。よろしくお願いします!
X(旧Twitter)アカウントはこちらから
https://x.com/Fujikaze_novel




