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Fifth Element  作者: 藤風大地
紅蓮の剣闘奴隷

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第5話 運命の底と、紅蓮の誓い

ルナリア王国の絶対君主が、何者かの手によって音もなくその命を散らすこととなる、およそ三時間ほど前のこと。

王都の地下深く、巨大闘技場『ゲヘナ』の上層に位置する防音ガラス張りのVIPルーム。

ヴィクター・ナイトレイが「女王との謁見」という名の暗殺任務へと赴き、部屋に残されたのは、十歳にも満たない幼き次期当主クロノスと、先代『火怒』のリーダーである巨女ガレアの二人だけとなっていた。

熱狂に包まれていた眼下の闘技場は、すでに本日の試合をすべて終え、死体や魔獣の臓物を片付ける清掃員たちの姿がまばらに見えるだけの、虚ろなすり鉢へと姿を変えていた。

「……若様。本当によろしいのですね?」

ガレアが、腕を組んだまま、静かに、だが念を押すようにクロノスへ問いかけた。

その視線は、クロノスが見つめている闘技場の地下――先ほどまで赤髪の女剣闘士が戦っていた場所の真下へと向けられている。

「うん。僕の判断は間違っていないと思うんだ」

クロノスはガラスから額を離し、振り返ってガレアを真っ直ぐに見上げた。その瞳には、年齢に似合わない確固たる決意の光が宿っている。

「彼女の剣は破滅的だった。でも、ただ自暴自棄になっているだけじゃない。……彼女の中には、まだ燃え尽きていない、とても強い何かを秘めていると感じるんだ」

「……かしこまりました。若様がそこまで仰るのであれば、私は止めません。旦那様には、事後報告となりますが、私の方から上手くお伝えしておきます」

「いいよ。これは僕が勝手にお願いしたことだから、父上には僕の口から説明する」

クロノスが首を横に振るが、ガレアは困ったように眉を下げた。

「いえ。『お守りします』と旦那様に誓っておきながら、若様をこんな血生臭い場所から抜け出させるのです。それに、あの女は危険です。私からお伝えするのが筋というものでしょう」

「なら、お願いするよ。……でも、あくまで『僕が彼女を欲した』から連れて行くんだ。彼女が勝手な判断でついてきたわけじゃない。そのことだけは、父上にも分かってもらいたいんだ」

「……はぁ。お小さいのに、本当に我が強いお方だ。かしこまりました」

ガレアは深くため息をつき、背負っていた巨大な大斧の位置を直し、覚悟を決めたように歩き出した。

「参りましょうか。底無しの泥沼へ」

◆ ◆ ◆

闘技場『ゲヘナ』の地下牢は、上層の煌びやかなVIPルームとは文字通り天と地ほども違う、無間地獄だった。

急な石階段を下っていくにつれ、空気はねっとりと重くなり、カビと腐敗臭、そして血と排泄物の混じった強烈な悪臭が鼻を突く。

まともな光源はほとんどなく、壁に等間隔で設置された油まみれの松明が、虚しく煤けた光を揺らしているだけだ。

この最下層には、もはや見張りをする兵士すら一人もいなかった。

鉄格子の中に放り込まれているのは、明日には魔獣の餌になることが確定している重罪人か、あるいはすでに精神が崩壊し、反抗する気力すら失った肉の塊ばかり。

生きようが死のうが、闘技場の運営陣にとってはどちらでも構わないのだ。逃げ出す体力など残っているはずもなく、ただ死を待つだけの完全な無防備状態。

ピチャッ、とクロノスの小さな靴が、汚水に塗れた石畳を踏む。

悪臭に思わず顔をしかめそうになるが、クロノスは必死に表情を保ち、ガレアの大きな背中を追って奥へ奥へと進んだ。

やがて、一番奥の、少しだけ広い牢の前に二人は辿り着いた。

冷たい石の床。藁すらろくに敷かれていない劣悪な環境。

その暗がりの隅で、壁にもたれかかるようにして、一人の女が座り込んでいた。

燃え盛るような、紅蓮の髪。

間違いない。先ほど闘技場で、圧倒的な暴力を振るっていた『紅蓮の魔神』だ。

人の気配を感じたのか、女――ラージュが、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。

薄暗い牢獄の中でも、その双眸だけは、暗闇に潜む飢えた獣のようにギラリと鈍い光を放っている。

「……あ?」

ラージュの喉の奥から、乾いた、そして酷く刺々しい声が漏れた。

彼女は鉄格子越しに、上等な服を着たクロノスと、その後ろに控える筋骨隆々なガレアをねめつけ、口元を嘲笑うように歪めた。

「誰だ、お前らは。……こんな汚ぇ場所に、随分と可愛らしいガキが迷い込んできたもんだな。隣にいるデカブツは、そのお守りってところか?」

挑発じみた言葉。

彼女の目には、クロノスに対する明確な「侮蔑」と、貴族という存在そのものに対する深い「憎悪」が渦巻いているのが分かった。

「……若様」

ガレアが、クロノスにそっと耳打ちをした。その声には、微かな警戒が混じっている。

「再度伺うようですが、本当によろしいのですね? あれは、人間というより、ただの檻の中の獣です。噛みつかれますよ」

「うん」

クロノスは小さく頷いた。

「コロシアムで上から見ていた印象のままだよ。……でも、期待通りだ。ここまで強く、僕たちに牙を剥いてこなきゃ、ナイトレイの兵にはなれないよ」

「……はぁー。かしこまりました。お怪我のないよう、私の背中から離れないでくださいね」

ガレアは再び呆れたようなため息を漏らし、クロノスの護衛として少しだけ前に出た。

「おい、そこのお前!」

「お前じゃねぇ。俺の名前はラージュだ」

ラージュは立ち上がりもしないまま、鉄格子に背中を預けて吐き捨てた。

「ラージュ。単刀直入に言う。ここから出してやる」

ガレアの冷徹な声が、地下牢に響く。

「ここから出て、我がナイトレイ家に仕え、若様をお守りしろ。……それが、ここから出るための条件だ」

その言葉を聞いた瞬間。

ラージュの表情から嘲笑が消え、代わりに底知れぬ嫌悪感が浮かび上がった。

「……はッ!」

ラージュは、心の底から馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、鼻で大きく息を吐いた。

「お守り、だと? 冗談じゃねぇ。俺はな、貴族の飼い犬になるくらいなら、このままここで魔獣の餌になって死んだ方がマシなんだよ。ましてや、そんなヒョロヒョロの男のガキの盾になれだと? ふざけるのも大概にしろ。とっとと失せな」

「貴様、何を……ッ!」

ラージュの恩知らずな言葉に、ガレアの堪忍袋の緒が切れた。

主であるクロノスを侮辱されたのだ。ガレアの右手が、背負っていた大斧の柄に伸び、今にも鉄格子ごとラージュを両断せんばかりの殺気を放つ。

「待って、ガレア」

だが、クロノスがスッと小さな手を前に出し、ガレアの巨体を静止させた。

「若様?」

クロノスはガレアを制した後、ゆっくりと鉄格子に歩み寄り、両手で冷たい鉄の棒を握りしめた。

そして、暗がりに座り込むラージュを、氷のように冷たく、見下すような視線で射抜いた。

「……君、本当に強いの?」

静かな、だが心臓を直接撫でるような、冷酷な少年の声。

ラージュの眉がピクリと動いた。

「闘技場で戦っているのを見た時は、すごい力だと思った。でも……今の目の前にいる君には、戦士としての強さの覇気も、生きようとする気力さえ見えない」

クロノスは、あえてラージュの逆鱗に触れるような、心無い言葉を紡ぎ出した。

「なんだ、勘違いだったのかな。君はただ、自暴自棄になって暴れているだけの、哀れな獣だったのか」

「……あ?」

ラージュの喉の奥で、低く危険な音が鳴る。

「ガレア、ごめん。君の言う通りだったよ」

クロノスはラージュから視線を外し、振り返ってガレアに告げた。

「彼女は、僕が求めていた『強さ』には値しないね。ただ死ぬのを待っているだけの弱虫だ。こんなガラクタ、連れて帰っても何の役にも立たない。……帰ろう」

クロノスはそう言い捨てると、本当に興味を失ったように背を向け、出口の方向へと歩き出した。

――プツン。

その瞬間、ラージュの中で、何かが完全に切れる音がした。

「んだと……! テメェ!!」

ガシャンッ!!!!

凄まじい金属音。

先ほどまで壁にもたれかかっていたラージュが、弾かれたように飛び起き、鉄格子に力任せに激突したのだ。

彼女の太い両腕が鉄の棒を握りしめ、ギリギリとへし折らんばかりの力を込めている。

首に巻かれた隷属の首輪が、鉄格子に当たって鈍い音を立てる。

「ガキの分際で、舐めた口ききやがって! 俺が弱虫だと!? 誰がガラクタだ! 今すぐその首をへし折ってやるから、ここに入ってこい!!」

ラージュの目は血走り、獣のような咆哮が地下牢に轟く。

鉄格子がなければ、間違いなくクロノスはミンチにされていただろう。

だが、クロノスは振り返り、激昂するラージュを見て、ニヤリと……悪魔のように冷徹な笑みを浮かべた。

「……なんだ。その意気込みが、まだ残っているんじゃないか」

「なッ……」

「本当に死にたいだけの弱虫なら、僕の言葉なんて無視すればよかったはずだ。でも、君は怒った。自分の誇りを傷つけられて、怒りを爆発させた」

クロノスの言葉が、ラージュの胸の奥底、分厚い絶望の殻で覆い隠していた「本音」を鋭く抉り出す。

「君は、本当は死にたくなんかない。まだ戦いたい。自分の誇りを証明したい。……違うか?」

「だ、黙れ……ッ! 知ったような口を……!」

「なら、その力を、その怒りを、我がナイトレイ家で振るってみてよ。ここで豚どもを楽しませるためじゃなく、君自身の意志で、本当の戦いを見せてみてよ」

「んだと! テメェ、俺をからかって……!」

ラージュが完全に理性を失い、再び反論の怒号を上げようとした、その刹那だった。

――スゥッ。

ラージュの目の前に、冷たい銀色の金属が、音もなく降り立った。

ガレアの巨大な大斧の刃。

それが、鉄格子の隙間をすり抜け、ラージュの鼻先わずか数ミリのところでピタリと静止していた。

「……ッ!?」

ラージュの呼吸が、完全に停止した。

熱り立っていた頭から、一瞬にして血の気が引いていく。

「……二度はないぞ」

ガレアの、感情の抜け落ちた声。

そこには、闘技場の魔獣が放つような野蛮な殺気はない。ただ純粋に、呼吸をするように命を刈り取る、プロの暗殺者としての「冷徹なる死」の気配が凝縮されていた。

もしラージュが次に一言でも主を愚弄する言葉を吐けば、この斧は躊躇なく彼女の顔面を真っ二つに叩き割るだろう。

(……勝てない)

ラージュの細胞の隅々までが、そう理解した。

自分は身体能力では誰にも負けない自信があった。だが、目の前に立つこの巨女は、次元が違う。

歴戦の修羅だけが纏う、圧倒的な死の匂い。

ラージュの膝から、ふっと力が抜けた。

ガクン、とその場にへたり込み、腰を抜かしてしまう。

「なっ……」

心臓が、早鐘のように激しく脈を打っている。

怖い。

死ぬかもしれない。

だが、ラージュはその「死の恐怖」を前にして、不思議な感覚を覚えていた。

今まで闘技場で、自暴自棄になって死に場所を探していたはずなのに。いざ、本当に命が終わるかもしれないという絶対的な絶望に直面した時、彼女の心の奥底から、消えかけていた命の火が、爆発するように燃え上がったのだ。

(……俺は、まだ、死にたくねぇ……!)

生への渇望。戦士としての生存本能。

それが、クロノスの言葉と、ガレアの殺気によって、無理やり呼び覚まされたのだ。

「……良いだろう」

ガレアが、ボソッと低く呟いた。

斧を構えたまま、ラージュの瞳に再び「生への執着」が宿ったのを確認したのだ。

そして。

ガィンッ!!!!!

鼓膜を破るような金属音と共に、ガレアが大斧を横に薙ぎ払った。

ラージュを閉じ込めていた分厚い鋼鉄の鉄格子が、まるで飴細工のようにあっさりと切断された。

カラン、コロン……。

切断された鉄の棒が、虚しい音を立てて冷たい石畳に転がる。

圧倒的な暴力による、物理的な解放。

「再度聞く。お前は、ナイトレイ家に仕え、若様を守ると……今ここで誓え」

ガレアが、斧を下ろし、ラージュを見下ろして宣告する。

ラージュは、切断された鉄格子と、自分を見下ろす二人を交互に見つめた。

もはや、選択肢はない。

いや、選択肢は最初から一つしかなかったのかもしれない。

「……あぁ、誓うさ」

ラージュは、乾いた唇を舐め、掠れた声で答えた。

「アンタらみたいな化け物と一緒にいられるなら……この退屈な地獄よりは、マシな死に場所が見つかりそうだからな」

それは、負け惜しみのような、だが彼女なりの最大限の「降伏」と「忠誠」の誓いだった。

「……だが、最後に挨拶だけさせてくれ」

ラージュはゆっくりと立ち上がり、出口へと向かう前に、牢屋の壁の隅にある、わずかに色が変わった一つの石組みの方へと向き直った。

そこは、かつて彼女と同室であり、彼女に「諦めろ」と釘を刺し、そして無惨に死んでいった老人や仲間たちの血が染み込んだ場所だ。

「……今までありがとな」

ラージュは、その冷たい石に向かって、ポツリと、誰に聞かせるでもなく語りかけた。

「今日で、お前らとも最後の別れになるだろう。……お前らに、何度助けられたことか。何度、俺の心を繋ぎ止めてもらったことか」

彼女の脳裏に、今はもういない彼らの顔が浮かぶ。

ここで絶望して死んでいくはずだった自分が、光の差す場所へと引き上げられようとしている。その後ろめたさと、感謝。

「……俺は、第二の人生を歩むよ。お前らの分まで、生き汚く、最後まで抗ってやる」

ラージュは石に向かって深く頭を下げた。

「いってきます」

それは、過去の絶望への決別であり、これからの人生に対する強い希望を孕んだ、美しい別れの儀式だった。

「……挨拶は済んだか?」

ガレアが、静かに問う。

「あぁ。もう思い残すことはねぇよ」

ラージュが振り返り、清々しい顔で答えた。

「なら、少し眠っててくれ」

「……は?」

ラージュが疑問の声を上げる。

その瞬間。

ドゴォッ!!

「がはっ……!?」

ラージュの鳩尾に、ガレアの容赦ない鉄拳が、めり込むように突き刺さった。

肺から空気が強制的に排出され、ラージュは白目を剥いて、そのまま崩れ落ちた。

ドサッ。

先ほどまで感動的な別れを告げていた女剣闘士は、一瞬にして意識を失い、石の床に大の字になって転がってしまった。

「……よかった。来てくれるって信じてたから」

クロノスは、気絶したラージュを見下ろしながら、少しだけホッとしたように笑みを浮かべた。

「全く、若様は……。なぜ、あんな試すような危険なマネをされたのですか? 一歩間違えれば、本当に首を絞められていましたよ」

ガレアが、呆れたようにため息をつく。

「んー。なんとなく、かな。……でも、ああやって追い詰めれば、彼女が『本気でどう言ってくるか』、本当の顔が見られると思ったから」

クロノスは、子供らしい無邪気さと、大人びた冷酷さを併せ持った笑みで答えた。

その顔には、すでに他者の心理を操り、自分の駒として従える「王」の片鱗が見え隠れしている。

「……はぁー。本当に、末恐ろしいお方だ」

ガレアは深くため息をつきながら、気絶して伸びているラージュを、米俵のように軽々と自身の太い肩に担ぎ上げた。

「そろそろ行かないとね。抜け出したことが父上にバレちゃう」

クロノスが、足早に石階段の方へと向かう。

「……若様。この大女を担いでVIPルームに戻る時点で、完全にバレますけどね」

ガレアが、半ば投げやりな声でツッコミを入れる。

「あ、そっか。まあ、なんとかなるよ!」

薄暗く、腐臭の漂う地下牢から、二人の足音が遠ざかっていく。

後に残されたのは、切断された鉄格子と、沈黙する石の壁だけだった。

こうして。

後にナイトレイ公国の最強の矛であり、『火怒』のリーダーとして恐れられることとなる紅蓮の剣闘士。

絶望の底に沈んでいた『ラージュ』は、一人の幼い少年によって拾い上げられ、『ティラン』としての新たな命を与えられた。

運命の歯車が、音を立てて回り始めた夜だった。


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