カタメウオ
魚の顔は、ナマズに近いものだった。
離れた左右の目に、その目の下から一つずつ生えた二本のひげ。
釣り竿に近づけば、この大魚の傍に自ら行くことになる。
シュウヤには見えていないのだろうか。
この恐ろしく大きな魚のことが。
「あ、」
ふと、その魚の片方の目。
右の目がぽっかりと空いており、本来そこにあるべきものがないことにヒロは気づいた。
これが片目魚の正体だろうかと思いながら、ヒロはシュウヤを引き止める口実を探しに、周囲を必死に見渡す。
『ずいぶんと、懐かしい気配を感じて来てみたのだが……』
低く落ち着き払った声がその大魚の口から発せられて、ヒロはひゅうっと息を呑んだ。
ヒロは大魚が現れてから、ビリビリと肌を刺す刺激をずっと感じている。
それはきっと、この大魚がとてつもなく恐ろしい存在だと感じてる身体からの救難信号だ。
早くこの場を離れなければ、二人ともこの大魚に喰われてしまう……!
「魔女の弟子のカオルと申します、ヌシ殿」
いつの間にか、彼女はそこに立っていた。
シュウヤの釣り竿のすぐそばに。
大魚の目の前に。
黒のパーカーにジーンズのズボンというシンプルな服装。
深く被った黒いキャップ帽のせいで、彼女の表情はよくわからない。
『おや。魔女の気配だったか、これは』
そう言って、大魚の残っている左の目がぎょろりと彼女の方を向いた。
「いかがされた、ヌシ殿。魚たちが騒いでいると報せがあった。それに片目も……」
『鋭い刃がこう、ぐるっとな。ワシの目玉を持っていきよった。それでここらの魚が心配してな。自らの目をワシのところへ落としていきおる』
カカカッと大魚は愉快気に笑って言う。
『いらぬと言うておるのだが、可愛い子らの好意を無下にもできんて……』
そして寂しげな影が一瞬、大魚の残った左目に宿る。
「ヌシ殿。片目がない魚がいるとの噂が、陸のものたちにも広まりつつあります。このままでは、西條家の耳に入るのも時間の問題かと」
ヒロには、彼女と大魚の話の内容まではわからなかった。
彼女が現れてから、大魚の声は聞き取りづらくなったし、彼女の声も聞こえなかった。
唯一聞き取れたのは、「魔女」という単語。
「ヒロ!」
耳元の大きな声に、ハッとする。
自分の腕をつかんだきり、心ここにあらずの様子であるヒロをシュウヤが心配したのだ。
「具合が悪いのか。片目魚はもういい。帰ろう」
シュウヤは強張ったまま自身の左腕を掴んでいるヒロの手をそっとはずし、そのままその場に座るよう促した。
ヒロが抵抗なく座ったのを確認すると、大声でコテツを呼んだ。
「コテツ―。ちょっと来てくれ」
「えー?ミミズまだ見つかってないんだけどー!」
すぐさま走って駆け寄ってきたコテツを、シュウヤはヒロの横に座らせた。
「ミミズはもういい。釣り竿片づけるから、ここでヒロを見ててくれ」
「え、どしたの?」
「いいか、ヒロから目を離すなよ」
コテツは戸惑いながらも、ヒロの様子を伺った。
「え、マジでどしたん?」
ヒロの顔は青ざめており、強く噛みしめているのであろう唇には赤い血がにじんでいる。よくよく見れば、だらりと地面に投げ出されている腕の指先はかすかに震えていて、明らかに様子がおかしい。
「もう、いないから」
静かに、その言葉は落とされた。
ヒロから数歩の距離に立ってそう言葉をかけたのは、先ほど大魚と語らっていた彼女である。
「だ、だれだよ」
コテツの問いに答えることはせず、彼女はヒロだけをじっと見つめたまま言葉を続けた。
「うかつね。あなたみたいに過敏な子が、噂のたった水辺に近寄るなんて。今回は悪意あるモノではなかったけれど、そうでなければ喰われていたよ」
そしてヒロとの距離を縮めると、赤い名刺を取り出してスッと差し出した。
「困ったことがあれば、ここにおいで」
そろそろとヒロが赤い名刺を受け取ったのを確認すると、彼女はぐっと距離をつめてヒロの耳元でささやいた。
「行くと思えば、道は開かれる。この名刺がそこへと案内してくれる」
それだけ言うと、彼女は素早く立ち去って行った。
「こんのバカコテツー‼」
釣り竿を片付け終わったシュウヤが、そう言いながらコテツに飛び蹴りをした。
「ぐへぇっ!」
地面に転がったコテツを見下ろしたシュウヤはふんっと鼻を鳴らしてヒロへ手を差し出した。
「立てるか?」
「うん」
頷いて立ち上がったヒロを注意深く観察して、その顔色がマシになっていると気づいて少し安心する。
「付き合ってくれてありがとな。日も暮れるし帰ろう」




