ナルのバイト-2-
異変はすぐに訪れた。
黒く大きな影がのそりと現れたのだ。
その影はヒロのいる部屋の前で立ち止まり、その見上げるほどに大きな体を震わせた。
よくよく見れば、影は大きな蜘蛛の形をしていることにヒロは気づく。
「うわわわっ!」
蜘蛛のいくつもある黒光りする大きな目が間近に迫り、ヒロは情けなく声をあげた。
「縛!」
鋭いナルの声が響くと、その大きな蜘蛛の動きがピタリと不自然に止まった。
自らを縛る見えない何かを振りほどこうと、蜘蛛はギチギチともがいている。
「あはっ!まだ動けるんだ」
ナルは楽し気に笑って、緑色の札を数枚飛ばして蜘蛛の身体に素早く貼った。
すると蜘蛛の動きは完全に止まる。
しかし、ヒロの目前に迫る蜘蛛の爛々とした黒光りするいくつもの目から闘気は失われておらず、緊張から自分がごくりと唾を飲み込んだ音が、ヒロにはやけに響いて聞こえた。
「こ、これ、どうするんですか」
緑色の札を貼ってから動く様子のないナルに、ヒロは震える声で問いかけた。
「どうもしない」
ナルは図形の中へと踏み入り、ヒロの横へどかりと腰を下ろした。
それからじっと蜘蛛の黒い目を見つめた。
「こいつは、人を殺していない」
「そういうの、わかるんですか」
ナルは答えず、蜘蛛へと声をかけた。
「おまえの主は死んだよ。この屋敷は、西條本家が預かる」
蜘蛛の表情なんて、ヒロにはわからない。
それでも、蜘蛛がナルの言葉をじっと聞いているのはなぜだかわかった。
「おまえを縛る契約の術はもうないだろう。おまえの主は死んだ。もういないんだ。どれだけおまえがここで待っていても、帰ってはこない」
ナルは蜘蛛にかけた捕縛の術を解いた。
「どこへなりとも行け。俺はおまえを祓わない」
蜘蛛は口元近くの毛で覆われた短い脚を動かし、コトリと首を傾げた。
「使い潰される道具になりたくなければ、早くこの屋敷から立ち去れ。西條はここに魔がいることを知ってはいるが、まだおまえには気づいていない。だから去れ」
足踏みをするように蜘蛛は脚を動かして、数歩後ろへと下がった。
「去れっ!」
ナルの強い言葉に驚くように、蜘蛛は小さく飛び上がった。
そして緑札の拘束を振りほどき、その巨体からは考えられぬような素早さで部屋を出ていくのをナルは何もせずに見送った
「退治、しないんですか?」
ポツリとヒロの落とした言葉に、ナルは「なにを?」と答えた。
「なにをって、」
さっきの蜘蛛を、と言いかけたのをヒロはやめた。
それはナルが、なんとも形容しがたい表情をしていたからだ。
悲しいような、寂しいような、そんな表情。
「あの蜘蛛は、昔ここに住んでいた人が使役していた魔だ。その人が亡くなって、自由になったのに、まだああしてこの家を守っていた。俺では駄目だったんだ。知った気配の俺では、姿を見せてはくれなかった」
「つまり、侵入者であるぼくを追い払おうと蜘蛛は現れたってことですか?」
「そうだな。ヒロは無力だが、気配だけは立派だから」
「どういうことですか」
眉をひそめてヒロが問うと、ナルはいつもの飄々とした顔でへらりと笑って言った。
「魔への囮として優秀ってことさ」




