《閑話》とある少女の独白
酷い雨の日だったとか、驚くほど風が強い日だったとか。
そういう特別な天気の日ではなかった。
ただ、太陽は厚い雲で覆われていて、昼間であっても陽の光が差さないどんよりとした曇り空の日だった。
なにか悲しいことがあったとか、辛いことがあったとか。
とびきり楽しいことがあったとか。
そういうわけでもなかった。
いつもと同じ、学校からの帰り道だった。
重いランドセルを背負って、4年生になって始まったクラブ活動で帰る時間が遅くなるのを残念に思いながら、ひとりで帰り道を歩いていた。
その日、いつもと違ったところはひとつだけ。
なんとなく、普段は曲がらない道を選んだ。
交差点の信号前で立つ旗を持った見守りの人の視界に入りたくなくて、その人がいない道を通ろうと思ったのだ。
曲がってすぐ、わたしの足を止めさせたのは小さな何かの鳴き声。
ミー、ミー。と聞こえるその音を辿っていくと、小さな子猫と目が合った。
青い瞳がまっすぐに、わたしのことを見上げていた。
子猫の鳴き声につられるよう、その子猫へと手を伸ばした。
真っ黒な子猫だった。
驚かせないよう、下からそっと伸ばした手の指先は、カプリと子猫に噛まれてしまった。
とっさにひっこめた指先をおそるおそる見れば、子猫の小さな牙で傷ついたところから赤い血がぷっくりと出てきていた。
遅れてやってきた、ジンジンとするような痛みに顔をしかめながら、わたしはもう一度手を伸ばした。
今度は伺うようなことはせず、下からすくい上げるようにしてそのまま子猫を抱き上げた。
しっかりと両手でつかまえた子猫は本当に小さくて、わたしは少し怖かった。
不意に、先ほど噛まれたところにざらりと湿った感触がした。
子猫が舌を伸ばし、傷跡をなめたのだ。
かち合った青い瞳がなんだか謝っているように思えて、「痛くないから大丈夫」と嘘を言った。
ふと、同じに思ってしまった。
道で見かけたこの小さな子猫。
このまま放っておかれれば、きっとあの花のように。
そのまま弱って、死んでしまうと。
―あれはわたしだ。咲かせる前に、折られてしまったのはわたしの……。
理科の観察だと、与えられた。
一人一つの植木鉢。
どちらか選びなさいと、選択肢があって。
ホウセンカと、マリーゴールド。
悩んで、花の形が可愛らしいと、わたしはマリーゴールドを選んだのだ。
朝と帰りに水をやっていた。
忘れっぽくて飽きっぽい自分の性格を考えると信じられないくらい真面目に。
ちゃんと、毎日水をやっていた。
芽が出て、茎が伸びて。
ぐんぐん大きくなっていって。
観察日記をつけながら、期待を込めて鉢を見ていた。
教科書で見た、写真みたいな花が咲くのかと、わくわくするのが止まらなかった。
脳裏に浮かぶのは、折られてしまった細い茎。
ポキリと手折られ、頭が不自然に下を向いていた。
鮮やかなオレンジ色の花弁が、先端にわずかに見えていた。
もうすぐ咲きそうだった、わたしのマリーゴールド。
水やりの為に、毎朝慣れない早起きをした。
誰もいない、人の気配がしない朝の学校は嫌いじゃなかった。
朝靄の中、柔らかな日差しが並ぶいくつもの植木鉢たちを照らしていて、その中のたった一つが、わたしの鉢。
同じ日に種を植えたのに、鉢によって成長の速さに違いがあるのが面白かった。
毎日朝と帰りに水をやって、小さな芽が出てぐんぐん伸びていく様子を見守った。
観察日記をつけるのは嫌いだったけれど、少しずつ大きくなるのを観察するのは好きだった。
成長が早い子の鉢は、もう花が咲いているものもあった。
わたしの鉢も、もう少し。
頭の部分が膨らんで、その先にオレンジ色が少し見えていた。
きっともうすぐ。かわいい花が見れるはず。
それは明日か、明後日か。
そんなに遠くない日のはずで。
苦手な早起きを成功させて、その日も軽い足どりで鉢を見に行った。
―あ、
いくつも並ぶ同じ鉢たち。毎日通ううちに、自分の鉢の場所を覚えていた。
だから、遠くからでもそれが自分の鉢だとわかってしまった。
近づくにつれ、首を傾げながら。
違うと思った。
ぐるぐると色んな角度からその鉢を見て、鉢に書かれた名前を見て。
けれど、やっぱりこれは自分の鉢だと。
昨日の帰りはいつもと同じ様子だった。
一晩のうちに何があったのか。
わたしの鉢のマリーゴールドは、頭の部分がぽっきり折れてしまっていた。
強い風が吹いたのだろうか。
ホウセンカの茎は太く立派で、それと比べるとマリーゴールドの茎は細く頼りなく見える。
きっとそうだ。
昨日の夜、とても強い風が吹いたんだ。
頭におおきなつぼみを乗せていたから、その風にわたしのマリーゴールドは耐えられなかったんだ。
―かわいそうに
囲いを作って、風から守ってあげなくちゃいけなかったんだって思った。
もう少しだったのに。
ちぎれそうな花になろうとしていた部分をそっと茎から外して、中を割った。
弱弱しい種になりかけのものたちが、たくさんたくさん詰まっていた。
教科書で見た種よりずっと弱弱しくて。
埋めてもこれは、芽が出ないと頭の隅で理解ができた。
泣かなかった。
花に対して、愛情がなかったからかもしれない。
それからしばらくして、わたしの花はまたつぼみをつけた。
だんだん、だんだんと大きくなって、わたしの期待と同じようにふくらんだそのつぼみは、一度目のつぼみと同じオレンジ色の花弁をちらりと見せ、はち切れそうなくらいになっていた。
浮き立つ気持ちと裏腹に、心のどこか冷静な部分が囁いた。
―この子もきっと、折られてしまうよ。
よぎった考えを追い払って、放課後。
いつものように水をやった。
翌朝。
わたしの鉢に花はなかった。
いつかのように、不自然に下を向いたつぼみがわたしを迎えた。
つぼみと茎との間に残された、わずかな繊維の繋がりを断ってそれを手に取った。
やさしく割って中を開けば、細く弱弱しい種のなりかけたちが顔を見せた。
すぐには数えられないほどたくさんのそれらを直視しないよう、隠すようにティッシュでくるみ、ポケットに入れた。
涙は出なかった。
だからきっと、悲しくなかった。
けれど、自分の内側に不用意に侵入してきた刃のような。
そんな不快感は確かにあった。
長期休み前。
植木鉢を家に持って帰った。
結局、学校では私の鉢のマリーゴールドは一度も咲かなかった。
周りのみんなが観察日記に花の絵を描いている中、わたしは青い茎を描いていた。
わたしの鉢の子は咲くのがとびきり遅くて、成長がゆっくりだと。
観察日記に、描くのが大変そうな花を描かずにすんだと。
そう、思った。
持ち帰った鉢は、ベランダの日当たりの一番いい場所に置いた。
毎日見守って、水をあげた。
時々、水やりを忘れちゃうこともあったけど。
わたしのマリーゴールドは青々としていた。
そしてまた、頭には固いつぼみができて、そのつぼみはどんどんと膨らんでいった。
わたしはじっと、そのつぼみを見守った。
あくる日、花は咲いた。
オレンジ色のかわいらしい花を、わたしのマリーゴールドは見せてくれた。
それは教科書の写真通りの花だった。
わたしより先に咲いていた、クラスメイトの鉢のマリーゴールドと同じ花だった。
やっぱりそうだったんだと、わかってしまった。
わかったら、目尻に溜まった涙が落ちた。
鼻がぐずぐずして、また涙が落ちた。
あぁ、と口から小さな声が出た。
一粒一粒頬を伝うものが、ぱたぱたとベランダの床にシミを作った。
誰にも、言わなかった。
折れてしまったマリーゴールドのことを、言っていなかった。
見つける度に、それをそっと隠していた。
ティッシュに包んで、ポケットに押し込んで。
なかったことにしていたのだ。
悪い奴がいるんだなと。
家のベランダで綺麗に咲いた花を見ながらそう、思った。
無秩序に、誰の花でもよかったのか。
それともわたしの花だから折ったのか。
確かめなかったから、わからない。
どちらにしたって、悔しかった。
わたしの花ならいいだろうと、きっとそいつは思ったのだ。
心のどこかで、そうわたしを軽んじて。
わたしの名前が書かれた鉢のマリーゴールドを手折ったのだ。
咲くことさえできず、摘まれてしまったわたしのマリーゴールド。
花も咲けず、種も作れず。
わたしの鉢にあったばかりに、植物としての在り方をなにもできなかった。
だから、同じに思ってしまった。
道で見かけた小さな子猫。
このまま放っておかれれば、きっとわたしのマリーゴールドのように。
そのまま弱って死んでしまうのではないかと。




