覚醒の余波
堤の上で観察を続けていた眴の元へ、奏司が立ち寄った。
「どう?」
「そうですね。資料にまとめて、早急に会議にかけたい点がいくつかあります」
眴はそう答えながらも、視線はなお水面のうねりを追っていた。
「大きなアカメが澱から抜け出して動いています。今までとは違う動きです」
奏司は、眴が指差した先の波を見つめた。
訓練はうまくいった。
だが、それで片づく話ではないことも、もうわかりかけていた。
「そっかあ、早いところ研究室片付けないとね」
「そうですね、私は今日はこれで一旦街へ戻ります」
「手伝えることはない?」
眴はにっこり笑いかけると、御子姫の方を見た。
「奏司さんには、御子姫殿と話し合われないといけないことが生じているはずです」
すると、眴がちょうどいいと、ある方向を指差した。それは先ほどのように波が大きくうねったところだった。
「あのような大きなうねりの下には、澱から出てきた大きなアカメが潜んでいる可能性が高いです。それを先に御子姫殿にお伝え下さい。そういうアカメには確実に祓える状況でない限り、今はまだ手出しはしない方がいいです」
ここからでは正確にはわからない。だが、あれほどのうねりを起こすものなら、異形の大船でさえ一撃でひっくり返されかねなかった。
そして、もう一つ大きな難点も見えていた。
大砲の訓練を始めてみると、その威力や特徴には対によってかなりのばらつきがあった。それをどうするか課題は残った。
「今夜、御子姫のところに泊まるよ」
「わかりました。豪鬼殿の話もされた方がいい頃合いかと」
「ああ、それもあったっけ」
眴は余計なことは何も言わない。奏司に笑いかけると、一緒に堤から降りてきた。そして、禊をしたら出かける旨を伝えた。
奏司は訓練を終えると禊を済ませてから、スェットに着替えると御子姫の元に向かった。
「姫様は禊の最中ですので、お部屋でお待ち下さい」
浴衣に羽織姿の御子姫が部屋に戻ってきた。
「ああ、奏司か。早かったな、髪が乾いておらぬ、これで拭きなさい」
御子姫はタオルを渡すと、奏司の近くに向かい合って座った。
「訓練はどうじゃった。もっと、勢いよくても受けられるか」
「俺は大丈夫。豪鬼もきっと。豪鬼の方が、威力が増してる気がする。っていうか、あれは何? 途中で経文が変わったよね」
「そうじゃな。響家の響と同じじゃ。響かせると威力が増す。響紋じゃな。それより、私の指示はわかりやすかったか、豪鬼には伝わっておったか」
御子姫はこの調子で、訓練の話を続けていた。
「訓練通りのことが、常世でできるかどうかかなあ、豪鬼がね」
「それより、眴はどうじゃった。一緒に穢を見て話しておったろう」
「うん、早急に、多分明日にでも報告書まとめて持って来るって。大砲の訓練と穢の、特にアカメの動きを踏まえて、会議した方がいいかもって」
あんな遠くからよく見ているなあと奏司は感心した。それと同時に振る舞いにも気をつけなければと思った。
その後も話は豪鬼のことになり、この先どう扱っていくのか、一度、剛拳を交えて話し合わなければとなった。
奏司は、その夜御子姫のところへ泊まることに決めていた。せっかく機嫌がよくなってくれているところ、無下にはできない。
御子姫が、あの事から立ち直ってくれているなら、奏司にとっても喜ばしいことだった。
御子姫のことは、以前と変わらず好きだし、何より守るべき存在で大切に思っていることに変わりはなかった。
寝屋に入って、久しぶりに御子姫にふれる。ところが、思いも寄らなかったのは、自分自身の心の傷の方だった。
あの日、奨弥が自分の体を使って行ったことを、奏司は体が覚えていた。
「御子姫、ごめん。俺、無理」
口づけさえ、できない。何かがおかしい。まるで体がすくんでしまって何もできないでいた。
「なにを泣いておる。また一からやり直しすればよい」
御子姫はやさしく奏司を抱きしめた。そして口づけた。やわらかな唇が奏司の唇を包む。
奏司も同じようにしようとして吐き気に襲われた。
「ごめん」
「なにを謝る」
気持ちはあっても、抱けるかどうかは別ものだった。
それがどうしてなのか。ずっと考えてきたのに、答えは見えなかった。
豪鬼は訓練を重ねるにつれ、鬼としての何かが覚醒めつつあった。
桁違いの覇気に、奏司はあらためて固唾を呑んだ、今はまだ訓練中だからいい。戦となれば異形衆の大砲が八対もそこへ加わる。いったいどんな光景になるのか、奏司にも想像がつかなかった。
豪鬼の紋は日増しに濃くなり、若干だが線が太くなってきたように思えた。
奏司は合間をぬって、里長に相談しに行った。里長は久し振りに会った奏司に訓練はどうかと尋ねた。
「はい。あらためて御子姫の凄さを知りました。そして、豪鬼の」
「そうか。やはりな、豪鬼は鬼という異形だからな。気の道が太い。覇気だけで人の何十倍も違う」
奏司はもっともだと頷いた。そして紋の変化を話した。
「まだ訓練の段階なのに、豪鬼は術を、大砲を繰り出すたび、覇気が上がっていくんだ。常世に行っても今のままで大丈夫なのかな」
「常世では、気を外から取り入れるわけにはいかない。今のままで戦が続けられるかという心配ですか」
「うん、そうなんだ。今のうちに加減をすることを教えた方がいいのか、それとも豪鬼にはこのまま何も指図しない方がいいのか」
里長は、ふむ、と言ったまま黙った。
「御子姫殿は豪鬼を対になさるおつもりか。それならお任せするが一番良い」
「それは御子姫に相談した方がいいってこと?」
「まあ、そうですな。さて、少しお手伝いいただいてもよろしいか」
里長は屋敷の裏手へ行き、奏司にスコップを持たせると山へと向かった。眴も気がつき率先して従った。
案内されたところには、見事な山藤が群生していた。
奏司と眴は指示された苗木を掘り出した。二株持ち帰ろうとしていると、里の者が来て手際よく麻袋に入れ運んでくれた。
「昼は日向に置き、夜寝るときは枕元に。この株なら戦人の里でも咲く」
里長は眴に丸薬を渡しながら、一株はおまえのだと言った。良く育てよ、と。
豪鬼が鬼として覚醒めつつあるのと同時に、御子姫の術は進化を遂げた。
それはまた、穢の変容をもたらすだろう。それくらいの予測は当然だった。
最近の眴は、忙しそうにしていた。奏司もまた、訓練と表の仕事で忙しかった。異形の里へ向かう車中は静かだった。
書類に目を通すのをふとやめて、奏司は運転する眴に話しかけた。
「最近の穢はどお?」
「と申されますと?」
「何かあるんじゃない? ていうか、ないとおかしい」
眴はバックミラー越しに覗いた、奏司の目がやけに鋭いのに気がついた。
「奏司さんにはかないませんね。ここだけの話で聞いて下さい。まだ確証はありません。一度だけ、視えた話です。澱ごとアカメが消えたんです。それも広範囲で」
「どういうこと? 呑み込まれたとか、蹴散らされたとか?」
サービスエリアに入ると、眴は一息ついて話を続けた。
「わかりません。ただ、澱の中で、何かが始まっていることだけは間違いなさそうです。大きなアカメが澱から姿を現わす回数が増えてきています」
「あの、用心深いやつが? 澱から出てこざるをえない……」
二人は目と目を見合わせると、コーヒーを飲みながら深く息をついた。
二人は常世の穢の変容について、ひとつの答えを導き出そうとしていた。そこから考えると、新しい何かが生まれつつあるのもまた理にかなっていた。
それは、これまでの穢とはまるで異なるものの出現を、静かに告げているようだった。




