常世の眼
奏司は自宅マンションに帰ると、誰もいないと思っていたところ、眴がいてくれたことが嬉しかった。
「泊まってくるかと思っていました、何かあったんですか」
奏司は怒りが収まらず、御子姫との間に起きたことを、延々と話した。眴はそれを黙って聞いていた。
「奏司さんは、御子姫殿のことになると本当に真剣ですね。それだけ心を捕まえられている、ということでしょうか」
「そんなふうに取らないでくれる? 俺はとにかく、もう何もかもが嫌で話してるんだから」
「本当にどうでもいい相手なら、ここまで怒ったりしません。ずっと心を占めているから、こんなふうに話し続けてしまうんですよ」
奏司は思いもかけないことを言われ、一瞬動揺した。そう言われてみれば、初めて会ったあの時から、いつも心の中には御子姫への想いがあった。それは奨弥のものだとずっと思っていた。
「俺は……」
眴の言う通り、これだけ離れていても、良い感情も悪い感情も、好きな想いも嫌いな想いも、どんな時も絶えず心を占めていたのは御子姫のことだった。
「ねえ、眴。俺は眴に会いたくて帰ってきたんだよ。どうしてそんなこと言うの」
「そうですか、それは光栄ですね」
奏司はむくれた顔をして、ソファに座る眴の膝に頭を乗せて寝転んだ。
「俺はこうしてるだけでいい」
奏司は手をのばして、眴の顔に触れた。眴はその手を取って、指に口づけると軽く噛んだ。
「奏司さんは、こうして今、私に甘えているように、御子姫殿に甘えていたはずです。急に立場を逆にして、大人になり急がなくてもいいのではないですか」
「だって、俺が守ってやらないと、御子姫は戦以外何もできないから」
「本当にそうでしょうか、響家の女はそんなに柔ではありませんよ。奏司さんは、大人ぶって御子姫殿を甘やかしたのでしょう。そのぶん今になって苦しくなって、こうして私に甘えているんです」
「もういいよ……」
「これは、ちょっと言いすぎました、すみません」
泣きそうな奏司のおでこに、眴はやさしくキスをした。
「そこじゃやだ」
眴は微笑んで、奏司の唇をやさしく包み込んだ。
しばらく、奏司が欲しがるまま、眴は幾度もキスをしてやっていた。
「はい、そろそろ湯に浸かって疲れを取って寝て下さい」
眴はそう言うと、湯船に湯を張りにいった。
「眴、一緒に入ろうよ」
「いえ、私は……ちょっと……やめなさい」
風呂場から出て行こうとする眴の腕を、奏司は思わず掴んだ。もつれた拍子に湯がかかり、濡れたブラウスシャツの下から、ところどころ痣のようなものが透けて浮かび上がった。
「眴、それ……」
「だから、やめるよう言ったんです。見苦しいものを……」
「見せて、それって紋でしょ」
「お見せできるようなものではありません」
「いいから、見せてよ。なんで隠すの」
「恥ずかしいからですよ」
「俺にまで、隠さなくちゃいけないの?」
眴はため息をつきながら、困った人ですね……と濡れたシャツを脱いだ。響紋が茶や赤く、ところどころにまだらに入っていた。
「もう、いいですか」
「だから、一緒に入ろうよって言ってるじゃん」
「あの、いい加減に……」
眴は、いつもと変わらない真剣な眼差しに、根負けして服を全部脱いで入ってきた。
白い体には、ケロイドのように響紋が浮かび上がっていた。通常、紋は黒くくっきりと体に刻み込まれるように出る。眴のそれは不完全で、まるで何かの傷痕のように見えた。
「醜いでしょう」
「そんなこと、ない……」
「これが、私が常世の眼と引き換えに得たものです」
「それなら、余計に恥ずかしがることなんかないよ。眴の力がなかったら、俺は巣食われたままだ」
奏司は、眴の胸に浮かんだ紋にそっと触れた。
「ここで取り出せば、眴もすぐに手に水をかけ続けられるよね。眴にもその方がいいんじゃない?」
「紋から引き剥がせるのは、浅いところにいるものだけです。今日はもうお疲れでしょう」
「いや、なんか不安なんだよ。今日の俺、まるで自分じゃないみたいだった。ただ怒ったんじゃない。あんなふうに頭の中が真っ黒になって、何を言いだすかわからなくなるのが怖いんだよ」
奏司は眴の手を取り顔を埋めた。頭を眴の方へ押しやると、肩が小刻みに震えていた。
「俺はいつも怯えてるんだ。あのケガレのようなものの中にまた閉じ込められやしないかって」
眴は少しでも奏司の不安を軽くしてやれるよう、気の済むまで穢擬を取り続けた。奏司はそのたびに祓い続けた。
浅いところへ引っ張り出したものをあらかた取り除くと、眴は奏司にシャワーで水を浴びせた。奏司はそのまま水を浴び続けた。
「湯を張り直したので、水垢離が終わったら浸かって下さい」
「眴、手を見せて」
眴の手は赤くはなっていたが、以前のようにただれてはいなかった。
「浅いところのはこうやって取り除こう。深いところのは今まで通り、喉からで」
「一日に一度か、二度が限度ですよ」
「うん、なるべく気を通して紋に寄せるようにするよ。そしたら今のように祓える。少し軽くなった気がするよ」
「それはよかったです」
二人は体を拭くと奏司の部屋へ行き、そのまま抱き合って横になった。
そうでなければ、奏司は眠れなくなっていた。眴は奏司が寝ついたのを見計らって、あとでそっと自室へ下がっていった。
奏司の不眠は深刻だった。それでも、奏司は薬を飲もうとしなかった。薬によって制御不能な状態で眠ることの方が、奏司には耐えがたく、なおさら奏司自身を苛んだ。
奏司は仮釈間近の母洋巳を、眴と一緒に訪ねた。一緒に面会できると聞いていたので、先に母には知らせていた。
洋巳は初めて会う眴を非常に警戒した。
「母さん、この人はね、母さんが気にしていたことを、見ることができる人だから」
洋巳は実刑よりも少し長く刑務所に入っていた。それは薬の持つ不安定さが、想像以上に重かったからであった。
「母さん、眴はね、ケガレが見えるんだ。母さん気にしてたでしょ。俺と暮らそうって言っても」
眴は穏やかに笑いながら、そっと左目の眼帯を取った。
「私が見る限り、全身特にどこも、問題ありません」
「本当っ!?」
「はい、一つお伺いしても? 精進潔斎を続けていらっしゃいますか。そろそろおやめになって、もう少し体力を戻された方が良いかと思います」
眴は不安そうな洋巳の顔色を伺いながら、静かに続けた。
「もしご不安でしたら、祓いの数珠を作らせましたので、手首に巻いていただくのはいかがかと思いまして」
眴は紫水晶の数珠を奏司に手渡した。
「奏司さん。よければこれを、まずお母様にいかがですか。私の見立てで申し訳ないのですが」
洋巳は淡い藤色に近い紫の水晶の数珠を受け取り、嬉しそうに腕に巻いた。
「ありがとうございます。落ち着きます」
何度も礼を言いながら、洋巳は一緒に暮らす日を励みに頑張ると刑房へ戻っていった。
奏司は眴と買い物をすると眴のマンションの部屋へ寄った。そこで穢擬を祓ってから二人は奏司のマンションへと戻った。
奏司にとって今、一番落ち着く場所は神守眴の隣だった。何一つ、てらうことなくいられる、ただ一つの場所だった。
「眴のその闇のような眼に見つめられると、安心する」
二人でいる時、奏司は眴に眼帯を外すよう言っていた。それがどれほど眴に負荷をかけているか、奏司は知らないままだった。
「常世の眼を持ってる人は眴のほかにどれくらいいるの?」
「さあ……? 一族内では、私以外には多分……」
「眴だけってこと?」
「眼を持って生まれてくること自体が珍しいので」
常世の眼も、現世の眼も、眼を持つ者はその眼が弱点でもあった。
いくら気をつけてはいても、穢擬を巣食わせる奏司の側にいることは危険極まりなかった。
それでも、眴は望んで自らを奏司の側に置いた。最初は眼の血筋の総意だったとしても、それはもう今となっては眴にはどうでもよいことだった。




