深まる溝
宿の者は、二人を奥の離れへ案内した。
通常の風呂のほかに水垢離ができる場所もあった。清水の滝の、落ちる水の音が心地よかった。
「風情があっていい宿ですね」
先に風呂へ入った奏司は、畳にごろんと寝転んだ。
「本当に、奏司さんは無防備すぎて笑えますね」
「眴は意味のない無理強いはしないだろ」
「さあ、どうでしょうね」
笑いながら、眴は風呂へ入りにいった。
「ああ、食事来てましたか。先にいただいて下さってよかったのに」
眴は冷蔵庫からビールと水を持ってきた。眴は奏司に水を渡すと、自分はグラスにビールを注ぎ美味そうに音を立てて飲んだ。
「美味しそうに飲むんだな」
「まあ、風呂上がりですからね、最初の一杯は格別ですよ。欲しそうな顔してますね、飲みますか?」
「いいよ、まだ缶チューハイの方がいい」
「はい、どうぞ。グラスいりますか」
缶の蓋まで開けて渡された奏司は、一口飲んでこんな味だったかなと思った。
「こんなジュースみたいだったかな、もっと大人の味だと思ってた」
「いくつの時の記憶ですか」
「小学生。母さんがいつも美味しそうに飲んでて、缶がさ、ジュースみたいに見えるじゃん。置いてあった飲みかけ飲んだら、甘苦いっての?」
眴は笑いながら、ダメなやつじゃないですかと言った。
「そうそう、思い出した。一度、刑務所の母さんに会ってほしいんだ」
「そうですね、見るだけなら」
「女の人だから?」
眴は思わず笑いをこらえながら、違う違うと手を振っていた。
「奏司さんは、やっぱり危機感がないですね。まあ、それだけ強いということなんでしょうけど。乗っ取られそうになってるんですよ、あなた」
眴は常世の眼を奏司に寄せると、眼の中を覗き込んだ。
「私は、あなただから取ってあげようと思ったんです。忘れないで下さい」
「うん……わかってる」
奏司は小さく頷いた。
眴はそのまま、将大から聞いた禁術の話を静かに引き取るように続けた。
「道を外れた行いは、特に禁忌を犯す場合には以ての外、穢れを呼んで当然だと言えましょう」
「そっか……」
「奏司さん。あなたは、自分が穢れているのではないかと思っていませんか」
「思わないようにしてる。けど、正直よくわかんないよ。最初、将大さんから言われた時はグサッときたけど」
「そうですね。でも、将大殿が仰ったように、あなた自身が穢れているわけではないんです。中に、穢れたものが巣食っているだけなんです」
「それって、父さんの魂込みでってことでしょ」
「だとしても、奏司さんは悪くありません。穢れてもいません。そこに在る穢れたものを取り除くために、今日ここへ来たことを忘れないで下さい」
眴は目の奥を指差していた。それはまるで、その奥に潜む奨弥に向けているようだった。
街へ戻る途中、眴からの勧めでお金のかかるホテル暮らしをやめ、奏司は部屋を借りることにした。なぜホテルのロビーで眴と出会ったのか、奏司にはようやく腑に落ちた。眴は同じ大学の大学院に勤めていたのだ。
奏司は今後、穢擬を祓うために、眴のマンションの部屋へ通うことに落ち着いた。奏司も母洋巳と暮らすため、すぐ近くにマンションを借りた。
奨弥の祖父、将大の行動は早かった。奏司が訪れて数日後には、戦人の里の奏家本家へ姿を現していた。
将大その人を直接知る者はいなかったが、奏家の本家本元では生きている中では、最上位の人物である。奏家本家は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
将大は一切、奨弥へ容赦はなかった。
お抱えの奏家の者たちを使い、周囲に有無を言わせず、奨弥を将大の住む山深い屋敷へと連れていった。
将大の元で、奨弥は本格的な禊を強いられることとなった。
部屋は地下にあり、大きな巨石と巨石の隙間から絶えず清水が落ちてくる小さな滝があった。その下へ奨弥は座らされ、倒れようがどうだろうと放っておかれた。
食事は一日一度、将大と同じ食事、粥と精進料理が供されていた。
その岩屋の牢を取り巻き、幾人もの奏家の者が、同じように罪と穢れのための精進潔斎を執り行っていた。
その牢に入れられてからは、奨弥は生きるも死ぬも己次第という状況の下に晒されていた。
奏家本家の奨弥に関する騒動は、すべてが総代了承済み、つまり将大に一任する免状が出ていた。御子姫の元には、奏家の事ゆえ、一切お構い御免と通達された。
とりあえず生活地盤が整うまでの連絡先を兼ね、奏司は滞在先のホテルを指定していた。
奏家本家で働いていた奏家の女たちは、将大から本家より出るように言われ路頭に迷う状況だった。奏司は連絡を受け、空き家となっている戦人が住んでいた住居を、数名ずつで使用できるよう手配した。このように奏司は、里のことについては奏家本家の騒動から派生したことのみ引き受けていた。
奏司は何かあれば連絡するよう、奏家本家には伝えていた。
しかし御子姫は、奏司と喧嘩別れしたあの日以来、自ら動こうとしなかった。
本来、戦人の里こそ御子姫が治めるべき場所だった。御子姫は、そこへ手を伸ばそうともしなかった。
奏司はホテルに届く報せの中、御子姫についてのものは里へ連絡するよう断っていた。そして、総代の仕事に関係なさそうなものを一切無視していた。
里にも電話はある。御子姫自らが動けば済む話だった。
だが総代の仕事を本来の形で奏司が引き受けるようになってから、御子姫はなぜか何もかも奏司の判断を仰ぐようになっていた。
「悪いけど、これは御子姫がやるべき仕事だから」
唱も言葉も困り果てていた。かといって異形の里へ行っても、御子姫は奏司に相談しろの一点張りだった。すぐに必要な決済一つできずに終わっていた。
「だって、俺が来る前は全部御子姫がやってたんでしょ。俺は表の仕事を引き受けるって言っただけだし」
「そうなんですが、二言目には奏司の言う通りにしろ、でして」
「それであとから文句言うのは誰だよ。この前だって、そんなことは聞いてないとか。そんなふうにしろとは言ってないとか」
「まあ、そうですけど……」
「なにこれ、新手のいじめ? 俺はそんなに暇じゃない」
奏司は唱と言葉には悪いが、もうこれ以上御子姫につきあう気はさらさらなかった。
御子姫は奏司から見れば、よくまあこれで今までやってこれたものだと思うほどだった。朝令暮改もいいところで、これが良いと思ったから、の一言で変わってしまう。
奏司にしてみれば、そんなことにいちいち関わっているのは無駄の極致だった。
奏司は、御子姫が思う通りにするよう全部突き返していた。
それが滞るようになり、困る者が現れたので引き受けていただけである。
ただ、それにさえ文句をつけてはひっくり返してくる御子姫には、もうつきあえないのは当然だった。
けれど、御子姫には訳がわからなかった。どうしたらいいかの判断基準が狂ってしまっていた。
御子姫は指図し、動かし、最後に自分でまとめ上げることに長けていた。今までの仕事は、それでどうにかなってきたのだ。
そうして一番の難点は、どうして奏司がそんなふうに変わってしまったかを御子姫は理解できなかったのである。
本当に些細なことだった。すれ違いと呼ぶほどの。
ただ、その互いに気づかない些細なことが積み重なって、深い溝となりつつあった。
そこへ決定的な出来事が重なった。奏司が戦人の里で、新しく自らが住むための新居を建築していることが、奏司からの報告より早く御子姫の耳に入ったのだった。
「奏司を呼べ!」
御子姫が新居のことで怒っていると、唱から連絡があった時点で奏司はもううんざりだった。奏司は報告書を随分と前に渡していた。
「御子姫が目を通すのを忘れてただけでしょ」
そう言ったきり、奏司は取り合わなかった。
御子姫が奏司に辛く当たるのは、仕方のないことだと奏司は受け止めていた。
しかし、それにも限度があった。
御子姫が奏司を見る眼差しが変わったことを、御子姫自身は気づかないでいた。周囲の者たちは薄々感じていたが、何も言うことができないでいた。
あの夜のことを思い出すたび、御子姫の心は大きく乱れ、未だ立ち直れないでいた。
豪鬼と剛拳は、祓い清められ新しい畳の入った家で生活を始めていた。
そこへ御子姫が来ることはなかった。
すべての思い出ごと、御子姫の中ではなかったものにされていた。




