ケガレのようなもの
奏司は響家本家へ寄り、御子姫の療養に必要なものを双子に準備させた。その間に少し風呂に入りたいというとすぐに準備してくれた。
やっとくつろいで湯船につかっていると、響家の下働きの女が入ってきた。
「何しに来たの。出てって」
「お背中流したりはいらないですか?」
「これって御子姫知ってんの?」
女は奏司の剣幕な様子に驚き、慌てて着替えの浴衣を置いて出て行こうとした。
「ちょっと待って、聞きたいことがある」
奏司は御子姫が許すとも思えない、風呂場への女の出入りを怪しんだ。
「誰かに頼まれたの? 正直に話してくれたら御子姫には言わないから」
返ってきた答えは、奏司が最も聞きたくない類のものだった。
虫唾が走った。
性的なことはされていないと言っていたが、祝い事などあって奏家の男たちが来て風呂を使う時は、背中を流したりは当たり前だったという。
「昔の風習はもう必要ないから、今後一切そういうことはしなくていいよ」
女は一礼して出て行った。
奏司は夜は奏家本家に泊まることにした。父奨弥の部屋へ行き、戸を叩くと世話を任せている女が出てきた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
女を呼び出すと、奏司は客間で女と二人で話をした。
「ちょっと言いにくいんだけど、この前のことでさ。父さんって、まさかとは思うけど、そういうこと……できるの?」
女は少しためらいながら、頷いた。
「いえ……ほんの時々ですが、意識がぼんやり戻られることがあります。その時は……男として、問題なく」
「マジか……」
奏司は考えもしなかったことが起きていた。これはどう受け止めればいいのだろう。一刻も早く奨弥の祖父に会い、禁術のことを聞かなければならない。
その日、奏司は本家の自室に泊まった。大学も休んだままなので、早く復学しなければと考えていた。
真夜中、奏司は違和感で飛び起きた。すると若い女が奏司の隣で寝ていた。
「誰の差し金だっ!」
奏司は女の腕を掴むと、部屋の明かりをつけて顔を見た。まだ若い、御子姫とそう違わない年頃の娘だった。
「誰に命令された、言えっ!」
「すみません! 許して下さい!」
奏司は真夜中にも関わらず、総代代理を呼びつけた。
「どういうことだ」
口籠る代理に、奏司は冷ややかに言い放った。
「改めないなら、即刻皆クビにする。戦人をやめ里から下がらせる。いいな!」
奏司は部屋を出ると、女たちを一室に集めた。そして世話役の女を呼び、しばらく指導をするよう言いつけた。
その日以降、奏司は荷物をまとめるとホテルへと居室を移した。
家の建築には取り掛かっているので、なるべく早くできあがるよう賃金ははずむと言って頼んだ。
奏司が滞在していたのは、大学にも間近な上、学会が開かれるような大きなホテルだった。
しばらく経った頃、ホテルのロビーで奏司は二十代後半くらいの男性に呼び止められた。
「こんにちは。奏奏司さんではありませんか?」
その男性は神守眴と名乗った。
穢の研究をしている、常世の眼を持つ者であった。
「あなた、穢のことで困っていませんか」
奏司は、初対面なのにいきなり何を言い出すのかと身構えた。だが、この男の気配には、どこか覚えがある気がした。
「御子姫殿はお元気ですか。その後、アカメはどうですか」
「ああ、もしかして、特別な眼を持っている穢に詳しい方ですか?」
眴は眼帯を取ると、軽く頷いた。そして奏司の眼を覗き込むように見つめてきた。その闇のように黒い眼に、奏司は一瞬、魅入られた。
「あなたの中に穢のような影が見えるので、大変でしょうね」
「えっ? 見えるんですか!?」
「もちろん、そのための眼ですから」
奏司はもっと詳しく話を聞きたいと思い、眴をホテルの自室に招くことにした。
すると眴はさっそく奏司に近寄りながら、スーツの上着を脱いで椅子の背にかけた。
「奏司さんの体の中に、穢ではないのですが、非常に近いものが巣食ってきています」
「どうしたらいい? なんとかなる?」
「眼の中を覗かせてもらってもいいですか」
そう言って眴は左眼を奏司の眼に近づけてきた。今にも唇が触れそうなくらい近くまで寄ると、クスッと笑った。
「奏司さん、私が怖いですか」
奏司は何を言っているのか理解できず、ただいつの間にか身動きができずにいた。
眴は先ほどまでの軽い笑みを消し、左の闇だけが奏司を捕らえ続ける。常世の眼の闇は、異様に冴えて見えた。
ほんのしばらく黙ってから、眴は小さく息をついた。
「いましたね。思ったより深い。五臓六腑のあちこちに根を張っています」
「そんなにひどいの?」
「正気でいる方が不思議なくらいです。ですが、あなたならまだ間に合う」
眴は奏司にスーツの上着を脱ぎ、ベッドに横たわるよう促した。
眴は奏司の喉元、胸元、みぞおちへと順に手を当てていった。指先は静かだったが、何かを探るような、あるいは見えない糸を手繰るような動きだった。
「今から一つ、表へ引っ張り出します。動かないで下さい。怖がると、もっと深いところへ逃げます」
「そんな、どうやって……」
「追い込みます。あなたは、出たものを祓う準備を」
眴がそう言った瞬間、奏司の体の奥で何かが蠢いた。
「う……っ!」
みぞおちの裏で、どろりとしたものが這い回る。
その感触は、内臓のあいだをぬめる蟲が這っていくようで、思わず身を捩りたくなった。
「動かないで」
眴の声が低く、奏司の耳元へ落ちる。
眴は奏司の胸骨のあたりを押さえ、もう片方の手で喉元へ擬を追い上げていった。皮膚の下で黒い脈のようなものが浮いては消える。
眴の眼には、それがはっきり見えているらしかった。
「そこです。喉に来ています」
奏司は急激な吐き気に襲われ、ベッドから飛び起きた。
胃がせり上がるような感覚と同時に、喉の奥から独特の生臭さが込み上げてくる。
「うっ……」
「そのまま。吐いて」
奏司は身を折った。
次の瞬間、血でも痰でもない、どす黒くぬめる塊が床へ吐き出された。
塊は床へ落ちるや否や、びたんっと一度脈打った。
奏司はそれを見る前に、あの臭いでわかった。
常世の穢がまとわりつかせるのとよく似た、生臭く、湿った臭いだった。
「これが……」
「ケガレのようなもの、です。穢そのものではありません。ですが、よく似ている。だから厄介なんです」
眴は黒い塊から距離をとった。取り出すことはできても、自分ではどうにもできないという顔だった。
「今です。祓って下さい」
奏司ははっと我に返ると、輪紋を繰り出した。
祓いの唱え詞を増幅させ、床の上でもだえる黒い塊へ叩きつける。
びたんっ、と最後に一度だけ跳ねたあと、それは跡形もなく消えた。
「お見事です」
眴は静かに一礼した。
奏司は肩で息をしていた。喉の奥にはまだ焼けるような不快感が残っている。
ただ、先ほどまで体の奥にへばりついていた嫌な気配が一つ消えたことだけは、はっきりとわかった。
「まだ、いるんだよね」
「ええ。今のはその一つです」
眴はあっさりと言った。常世の眼は静かに奏司を見ていた。
「そんなに?」
奏司の不安げな声が返ってくる。眴は奏司の隣に腰かけた。
「気の道はご存知ですね。それを伝って五臓六腑に散っているんです。気を食らいながら、少しずつ魂の方へと寄っていく」
「魂……」
「ええ。あなたの魂だけは傷つけさせるわけには……ですから、失礼を承知でお声をかけさせていただきました」
「俺の魂だけは、ってことは」
奏司は言葉を切った。
「もう一つの魂は、手遅れです。私にとって重要なのは、奏司さん。あなたの魂です。放っておけば、もっと厄介なことになります」
奏司は思わず喉を押さえた。喉はまだひりついていた。それよりも、もっと胸の奥がひりついていた。




