沈む違和感
奏司は朝早く異形の里を去った。スーツに着替えた袖口から、捕縛の痕がわずかに覗いた。その手首はまだ痛々しかった。
会わずに去るつもりだった。それでも、奏司は一目、御子姫の顔を見たかった。
里長に伴われ、奏司は深く眠りに落ちている寝顔を見つめた。涙が溢れ、声が漏れそうになる。とっさに手で口を押さえた。
部屋を出て玄関口まで来ると、奏司は肩を震わせ声もなく泣いた。
里長に会釈し、涙を拭うと深呼吸した。ここから一歩踏み出したら、総代の顔に戻らなければ。
車を運転するのは神守だ。神守の情報網に載せるわけにはいかない。
「落ち着かれましたか」
「うん、あのまますぐ帰らずによかったよ。こういうことなんだね」
里長は珍しく、玄関先で見送った。屋根では白鴉が遠くを見つめていた。
奏司には里にいる間に、どうしても御子姫に話したかったことがあった。母洋巳のことだった。仮釈放の間、洋巳の面倒を自分がみると決めていた。
「戦人の里か……なつかしい。私なんかが住んでも問題ないの?」
「何言ってるの。俺と一緒に暮らそうよ。新しく家を建てるから」
「そうね、家か……剛拳は元気かしら」
「剛拳? 母さん、剛拳のこと知ってるの?」
洋巳は穏やかな表情で、里にいた頃のことをぽつぽつと話した。
剛拳と対だったこともあること。異形の子を生み、その子は取り上げられたこと。剛拳は一緒に育てようとしてくれたこと。
「今思い出すと、剛拳と一緒だった時が一番幸せだった……」
「異形の子を? 剛拳と?」
「剛拳の子ではないんだけど、生まれてきたら、鬼の子だったの」
「鬼……」
奏司は返す言葉を失った。
鬼の子と聞いて、剛拳が父親代わりに育てている豪鬼の顔が浮かんだ。
異形の中でも鬼はそうそう生まれない。生まれれば里へ預けられる。そして、里に鬼は豪鬼しかいない。母
洋巳は、もう奨弥への未練はないと言った。今になって思えば、自分はいいように利用されていたのではないかと、力なく笑った。
「奏司がいてくれたら十分。だいたい狂ってるよね、最初から御子姫に渡すために子供を作るなんて」
最後に洋巳は、剛拳に会いたいと繰り返した。
面会を終え外へ出ると、奏司はようやく大きく息をついた。
──豪鬼が兄弟……?
御子姫は知っていたはずだ。剛拳も。誰も言わずにいたのだろう。
考えても仕方のないことは考えない。そう決めてきたはずなのに、胸の底には鈍い引っかかりだけが残った。
なぜ黙っていたのか。
そればかりが、言葉にならないわだかまりとして沈んでいく。
奏司はその足で響家本家へ寄った。留守を預かる双子が心配そうな顔で出てくる。
「ちょっと必要なものがあるんだ。御子姫の部屋、入っていい?」
「姫様は過労で倒れられたとか……大丈夫ですか」
「うん、しばらく帰らないで、向こうで静養したいって」
双子は顔を見合わせ、それから小さな包みを差し出した。
「実は姫様は毎日飲む薬があるんですが……お届けしていただけますか」
「それは初耳だけど、どこか悪いの?」
「いえ……あの……月のものを止める薬なんです。妊娠しないようにするための」
「え……?どうして……」
「あの、私達、響家の戦人は皆、戦を退く厄年まで、薬を飲んで妊娠しないよう制御するよう申しつかっております」
奏司は絶句した。
若い男女の対が里中にいて、一緒に暮らしている。なのに子供の姿だけが見当たらない。
以前から気づいていたはずなのに、今さらのようにその静けさが気味悪く思えた。
若い者ばかりが行き交う里に、子供の声だけがない。
その不自然さが、今日は妙に胸に沈んだ。
着替えや細々した荷物を受け取ると、奏司はそのまま異形の里へ向かった。
里長の家へ着くと豪鬼が出てくる。ふと、先ほどの話がよみがえる。同じ歳くらいだと思っていたが、兄なのだろうか。
「そうし、だいじょぶ? げんき、ない」
「大丈夫だよ。御子姫にこれ渡してきてくれる?」
豪鬼は風呂敷包みを受け取って素直に頷いた。その顔を見ていると、余計なことを考えたくなかった。
剛拳を探して向こうの家へ行き、話を切り出そうとした時だった。
豪鬼が慌てた様子で奏司を呼びにきた。
「そうし、ひめ、よんでる。おこってる」
嫌な予感がした。
奏司が豪鬼と一緒に戻ると、御子姫が起きてきていた。顔色はまだ悪い。だが、その目だけは妙に冴えていた。
奏司は思わず御子姫を見た。
以前の御子姫なら、こういう時ほど先に相手を気遣ってみせただろう。自分の乱れなど見せぬまま、笑って受け流したはずだった。
だが今の御子姫は違った。
それが弱っているからなのか、あるいは弱った姿を隠す余裕すらなくなっているのか、奏司にはわからなかった。
「これはなんじゃ!」
いきなり平手打ちが飛んだ。奏司はよろめいた。
「そんなに子ができたら困るのか!」
御子姫の声は悲鳴に近かった。押し殺したものが刃のように立っている響きだった。
「唱から預かってきただけだから。俺は知らない」
「これじゃ! そなた話したのか! でなけりゃ、どうしてこの薬まで入っておるんじゃ!」
御子姫は、奏司に向かって薬の箱を投げつけた。奏司も思わず投げ返す。
「俺は何も言ってない。急いでたから間違えたんだろ」
御子姫はそこで一瞬、言葉を失ったように黙った。
その沈黙の方が、奏司には平手打ちより重く感じられた。
ふと、御子姫の視線が奏司の手首に落ちた。袖口から覗く捕縛の痕。
それは奏司にとってはまだ残る痛みでしかなかったが、御子姫には違ったものに見えているようだった。
御子姫の表情が、わずかに硬くなる。
あの痕を見るたび、御子姫の胸にはあの夜がよみがえった。
打ち負かされるはずがないと信じていた、根の深いところを無理やり折られた。
誰にも見られたくなかった姿を、よりによって奏司に見られたかもしれない。
その上、奏司は何も言わず自分を気遣い、守るように振る舞う。
やさしくされるほど、自分の崩れた姿を映し返されているようで、御子姫には耐えがたかった。
以前なら、頼もしいと思えたはずだった。
奏司が一族を取り仕切り、外のことまで動かしているのを。
総代は外を、頭領は内を担う。そうあるべきだと願っていたのは、自分のはずなのに。
今はそれさえ、御子姫には失ったものを突きつけられているようで受け入れ難かった。
奏司は考えていた。一晩で大きく変わってしまった御子姫。
泊まっていった夜、縛ってまで奨弥を止めたのは、そうでもしないと自分が眠ることさえできなかったからだ。
その痕が今なお残っていること。それが御子姫にとっては、自分の不甲斐なさを見せつけられるようなものなのかもしれなかった。
そう思い至った瞬間、奏司は急にどう言葉をかければいいのかわからなくなった。
本当なら気を遣うべきなのだろう。
けれど、その気遣いそのものが御子姫をさらに傷つける気がした。
「体は俺でも、あんなヤツの子供なんて考えたくもない」
口にしてから、自分の声が思っていた以上に強張っていることに奏司は気づいた。
御子姫の顔がかすかに歪んだ。
二人の間に落ちた沈黙は、怒鳴り声より互いを傷つけた。重く、苦しいものだった。
里長も豪鬼も、誰も口を挟めなかった。
奏司は御子姫を見た。
そこにいるのは傷ついている御子姫だった。
──誰にも傷つけさせない、誰にも!
そう誓った。契りの夜。
それなのに、今目の前にいる御子姫に、奏司はどうしていいかわからなかった。
傷ついている。だがそれ以上に、誰にも見せたくなかったはずの姿を、見られてしまったという顔をしている。
その誰かとは、他ならない。奏司だった。
気遣えば気遣うほど傷を深くする。
優しくすればするほど、あの夜を思い出させる。
奏司はようやく、自分が御子姫の近くにいることそのものが、今の御子姫には苦痛なのだと気づき始めていた。
──誰でもない、俺が傷つける?
「俺はそんなに信用されてないのか……わかったよ」
思わず口をついた言葉は、心とは裏腹だった。
それだけ言い残し、奏司は踵を返した。
外へ出ると、里はひどく静かに感じた。皆、息を潜めているような静けさだった。
いつもの里とは、もう少し違って見えた。
帰りの車の中で奏司は終始無言だった。
御子姫の変化も、豪鬼のことも、薬のことも、何一つまだ答えにはなっていなかった。
窓の外、景色の中に手をつなぎあう親子の姿が見えては過ぎていった。
奏司は考えないようにした。
だが、考えないようにするほど、違和感だけが胸の底へ沈んでいった。




