父、奨弥(二)
「ケガレ、ケガレ、いるっ!!」
結界の外では、豪鬼が狂ったように御子姫を呼び続けていた。
剛拳が止めても、豪鬼はやめなかった。結界の向こうにある異変を、豪鬼だけははっきりと感じ取っていた。
「何をする気だ、豪鬼!」
豪鬼は輪紋を繰り出した。剛拳が止める間もなく、幾重にも放たれた輪紋が結界の表面へ重なっていく。
「ケガレ、はらうっ!!」
輪紋に共鳴させるよう、柏手を打つと高らかに唱えた。
「ト、ホ、カ、ミ、エ、ミ、タ、メ、ッッ!!」
パーンッッ!!
乾いた破裂音が山へと響いていく。
もう一度。
さらにもう一度。
結界に阻まれ、豪鬼の力は中へ届き切らない。それでも柏手の音だけは、深い水底へ落ちる石のように、どこまでも響いていった。
奏司は暗い場所にいた。
何も見えない。
ただ、ぬめりと生臭さを帯びた嫌な臭いだけが満ちている。
耳の奥で、乾いた音だけが何度も弾けていた。
──なんだ、これ
パーンッ、とまた音が響く。
柏手だ。
そう思った瞬間、奏司はゾッとした。あの臭いは知っている。
常世の穢がまとわりつかせる、あの独特の臭いだった。
──まさか
その時、どこか遠くから、かすれた声が漏れ聞こえた。
「……ぁぁぁぁぁぁぁ……」
御子姫の声だった。
奏司の意識が一気に浮上した。
自分は何をしている。何が起きている。考えるより先に、拒絶だけがこみ上げる。
──頼む、戻れ、戻れ!
焦るほど、闇のような影はまとわりついた。奏司はがむしゃらに輪紋を繰り出し、大祓詞を唱えようとした。
その時、ふと昔の記憶がよみがえった。
「……奏司、この詞だけ憶えておけ。おまえはまだ小さいからこれで良い」
奏司は、輪紋を二つ繰り出し二つ向かい合わせにした。その中心に向かって柏手を打つ。
「吐普加美依身多女」
闇が、ざあっと引いた。
どこかで舌打ちがした。
奏司が我に返った時、目の前には御子姫がいた。
裸同然の姿で、手首を縛られ、怯えきった顔でこちらを見ていた。
やったのは自分だった。
たとえ自分の意思でなくとも、その事実は変わらない。
「御子姫……」
近寄ろうとした途端、御子姫が後ずさった。その怯えに、奏司は息が止まった。
「いやじゃ、いや……いやあああ……」
「しっかりして、奏司だから」
「嘘じゃ、また、いやじゃ……あっちへ……」
奏司はそれ以上言わず、御子姫を抱え上げた。井戸端へ連れて行き、手押し井戸のハンドルを力いっぱい動かす。冷たい清水が二人に降り注いだ。
何度も何度も水をかけた。
自分にも、御子姫にも。
洗えば消えるようなものではないとわかっていた。それでも、そうせずにはいられなかった。
御子姫はしゃくり上げながら震えていた。奏司は黙ったまま御子姫を風呂場へ連れて行き、乾いた布で体を拭き、髪を拭いた。手首に食い込んだ腰紐は水を含んでさらに固くなっていた。
御子姫には豪鬼のスウェットの上下を着せ、毛布でくるんだ。
「御子姫、落ち着いた? 奏司だよ。わかる?」
顔を覗き込むと、御子姫の体は反射的に引いた。
その動きが、奏司には何よりこたえた。
遠くから、なお柏手の音が聞こえてくる。
豪鬼だ。
「御子姫、結界解ける? もう、祓い清めたから」
奏司はそう言い残すと、先に家を出て結界の際まで歩いて行った。
「豪鬼、わかるか」
柏手の音が止んだ。
「そうし、きた。そうし、わかる。ケガレ、いなくなった。ひめ? だいじょぶ?」
「大丈夫だ。剛拳、いる?」
「奏司殿、おりますぞ」
「御子姫がちょっと……あいつが出てきて……」
そこまで言って、奏司は言葉を切った。
口にした瞬間、現実になる気がした。
「まさか……御子姫ひとりで、ずっとこの中に? ねえ、誰もこの結界解けないの?」
「無理だそうです」
「そう、わかった。剛拳、あとは頼むよ」
「奏司殿?……奏司殿っ!」
奏司は踵を返した。
御子姫のところへ戻る。
「御子姫、結界を解いて。もう、きれいにしたから。祓い清めたから」
御子姫は首を振った。まだ奏司を見ても、奨弥の影が重なって見えているのだろう。
その時、奏司は悟った。このままでは、また同じことが起きるかもしれない。
「このまま結界解かないと、俺、また乗っ取られたら同じことしてしまう。それは二度としたくない」
奏司は家の裏へ回り、鉈を持って戻ってきた。
「御子姫、ごめんね。これしか思いつく方法がないんだ。もっと早く、こうしていたら、こんなに傷つけずに済んだのに」
鉈を見た御子姫の顔が強張った。
だが奏司の目は本気だった。
その時、内側で奏司に話しかける声がした。
(死ぬのか。ようやくその気になったか)
奏司の鉈を持つ手が止まる。
(おまえが死ねば、俺は自分の体へ戻る。そうしたら姫はまた俺のものだ)
──どういうことだ
(おまえはバカか、言葉通りだ。おまえがいなくなれば総代に戻って好きにさせてもらう。ちょうどいい具合に将隆は死んだしな。俺は自由だ)
──そんなことができるものか
(忘れたのか、おまえは俺の体の俺とも会い、おまえの中の俺とも話をしているだろう)
──ウソだ!!
奏司は歯を食いしばった。
鉈を握る手に力がこもる。
(嘘だと思うのなら、死ねばいい。姫は俺のものにする。双子に戦をやらせ、姫が壊れたならなおさら都合がいい)
奏司は、初めて明確な憎悪の念を持った。
──それなら、父さんの体を始末してから死ぬよ
奨弥の声が止まる。
──常世の穢の中に突き落としてやる
沈黙だけが残った。
──今度出てきたら、本当にやる。覚えとけ!
奏司はそこで悟った。
奨弥にとっても、向こうの体は必要なのだろう。そうでなければ、あそこで黙るはずがなかった。
鉈を持ったまま立ち尽くしていた奏司へ、御子姫がようやくかすれた声を投げた。
「そんな物を持って、どうする気じゃ……」
「御子姫?」
奏司は駆け寄った。
「もう大丈夫?」
御子姫は小さく頷いた。
だが手を伸ばすと、やはり体は避けるように引いた。
奏司は鉈を縁側に置いた。
「結界を解いてほしいんだ」
御子姫はしばらく奏司を見つめ、それからようやく結界を解いた。
豪鬼と剛拳が駆け込んでくる。里長もほどなく姿を見せた。
「御子姫殿、家へ戻ってお休みください。いかがですか、戻れますか」
御子姫は頷いた。
奏司は剛拳に目を向ける。
「俺はいいから、御子姫を頼むよ」
豪鬼がそばへ寄っても、御子姫の体は一瞬ぴくりとした。
その傷がどれほど深いか、奏司にはそれだけでわかった。
養い親たちが淡々と後片付けを始めていた。汚してしまった畳も建具も、部屋中一式取り替えられるよう奏司は手配した。
「奏司さんは大丈夫ですか」
「え? 俺は……そんなことより、本当にごめんなさい。大切な家なのに」
そう答えながらも、奏司の体には感触だけが生々しく残っていた。
自分の意思ではなくとも、自分の体でやったことだ。
それがたまらなく気持ち悪かった。
奏司は頃合いを見計らって里長の家へ向かった。
里長に上がるよう勧められたが、奏司は丁寧に断った。
「何があったのか、お聞きしても構いませんか。散歩しながらでも」
「そうだね、里長に相談した方がいいかもしれない」
二人は連れ立って里山の方へ向かった。
「当分、御子姫を里で預かってほしいんだ。心が元気になるまで」
里長は頷いた。奏司は少しだけ救われた気がした。
それから奏司は、自分の中にいる父奨弥のことを、知っている限りすべて話した。
御子姫への異様な執着。
そして今日、自分がケガレのようなものの中にいたとしか思えないことまで。
「俺、気がついたらケガレの中にいるような気がしたんだ。あの、ぬめっとした、生臭いような臭い。で、ここへ来た頃に教えてもらった詞で祓えた」
「ケガレですか。豪鬼が結界の向こうに穢がいると言って、祓おうとしておりましたが、結界に阻まれて思うようにいかなかったようでした」
「そうだったんだ。豪鬼がやってくれなかったら、俺、気づけなかったと思う」
珍しく、里長は深くため息をついた。
「なんと、奨弥殿がそのようなことを……」
「信じられないかも知れないけど、あいつは俺に自分のために、御子姫と結婚させるために作った、そう言ってた。小さい頃、何回も聞かされたよ」
「なんと仰られましたか、自分のために作ったと?」
「うん、ハッキリ言ってたよ。だから、こういうことだったんだってわかって、怖いなって思ってる」
「奨弥殿は奏家本家本元のみが受け継ぐ禁術を、ご自分の欲のためだけに使われたのか。なんということをされたのか」
奏司は、里長の驚きと落胆に、背筋が凍る思いだった。
「奏家の禁術って何? 聞いても大丈夫?」
「奏司殿は、奏家の本家本元だと、奨弥殿の書状があって総代の座に着かれました。それなら、奨弥殿の御祖父上に会われてお話しされてはいかがでしょうか」
「いるの? 俺、なんにも知らないんだけど」
「奏将大という方です。ご存命です。少し遠方ですが東の山間にこもっておいでです。私から連絡しておきましょう」
「マジで! 里長、ありがとう!」
奏司は思わず里長に抱きついた。
里長は少し笑った。
「グッジョブですな」
これでようやく、奏司の顔に表情が戻った。
里長の家へ戻ると、奏司は帰る支度を始めた。
「俺がいると、御子姫は落ち着かないと思うから、今日帰ることにするよ」
「そうですか、今夜ぐらいは泊まられては。御子姫殿がもし気がつかれて、いらっしゃらないと知ったら、どう思われるか」
奏司は迷った末、頷いた。
「そうかな、里長がそう言うなら、車は明日朝イチで手配し直すよ」
その夜、御子姫は一番奥の間に、豪鬼と剛拳は中の間に、奏司は手前の間に休むことになった。奏司はあちこち電話をかけたあと、麻縄を取り出した。
奏司は眠るのが怖かった。
眠った隙にまた奨弥が出てくるかもしれない。
だが眠らなければ、それ自体が仕掛けられた罠のようにも思えた。
奏司は自分の手首に縄をかけ、それを柱へ結びつけた。
「そこまでしなくとも……」
誰かがそう言ったが、奏司は首を振った。
「そうじゃないと、眠れないんだ」
そのまま横になる。
闇が来るのが怖かった。
それでも瞼は重くなる。
奏司は、柱に結ばれたまま眠りへ落ちていった。




