父、奨弥(一)
御子姫は、奨弥に入れ替わられた奏司の待つ家へ向かった。
御子姫には、呼ばれた時から嫌な予感しかなかった。
それでも行かなければ、奏司の体である以上、放っておけば何が起きるかわからない。
異変を察知した養い親たちが外まで出てきていたが、御子姫は奏司と二人きりにしてほしいと頼んだ。
御子姫は、誰も入れないよう結界を張った。
『用心深いな……まあその方がいい』
「どういうわけじゃ」
奏司の姿をした奨弥は、懐かしむような目で御子姫を見つめていた。
その眼差しに、御子姫はかつての奨弥の面影を認めた。
次の瞬間、その体は強く引き寄せられていた。
息が詰まりそうなほどの抱擁。
逃げ場を奪うような口づけ。
御子姫はその腕の強さで思い知らされた。
これは奏司ではない。奏司の姿をしていても、そこにいるのは奨弥なのだと。
『会いたかった。話したかったんだ』
「本当にそれだけか」
御子姫が問い返すと、奨弥はようやく腕を緩めた。
二人は少し離れて座したが、張りつめた空気は少しもほどけなかった。
『このまま、奏司が目覚めなかったら、姫はどうする。俺とまた共に生きてくれるか』
「そんな……」
──奏司が目覚めない……
『もう、俺を愛してはいないのか。俺は約束通り戻ってきたのに』
戻ってきた。
たしかに、その言葉に嘘はないのかもしれなかった。奨弥は帰ってきたのだろう。あまりにも遅く、あまりにも歪んだ形ではあったが。
奨弥が再び手を伸ばすと、御子姫は逃げようと中腰になった。
『わかったよ、触れられるのも嫌なくらい、もう愛してはいないんだな』
奨弥の声が低く響く。それは絶望というより、違う色を滲ませ始めていた。
「なぜじゃ、なぜ話してくれなかったのじゃ。黙っていなくなって、こんな恐ろしいことまでして」
『恐ろしい? 奏家ではよくあることだ。俺は力が欲しかった。姫と釣り合い、姫を守れるだけの』
「だからといって、話してくれれば、二人でどうとでもなったはずじゃ」
御子姫の声には責める響きだけではなく、想いが届かなかったことへの痛みが混ざっていた。
奨弥はそれを聞くと、かすかに笑った。
笑ったように見えただけかもしれない。
その表情は、奏司の顔からはついぞ見えたことのない、老いた男のものだった。
『叔父貴が、よこせと言ってもか』
声と表情が、嫌な男を思い出させる。
「どういうことじゃ」
『叔父貴の趣味は年端もいかない娘を手篭めにすることだ』
御子姫は息を呑んだ。
御子姫は知っていた。最初から、あの男、奏将隆がどういう目で自分を見ていたか。
「それくらい、どうということはないわ」
『姫はまだ十三だった』
「そうか。それがどうした。よくあることじゃ。意にかなった娘を配下に嫁がせ、よこせと言うだけのこと」
奨弥は顔を歪めた。
『それはどういうことだ』
御子姫は里長から聞いて知っていた。将隆のこと、特に奏家のこと。
奨弥の声は、絞り出すような呻めきに近かった。
『……渡せるわけないだろう。俺は殺そうとも思ったんだ、美琴殿に頼んで。毒まで渡した』
「毒じゃと? よくも響家の者に危ない橋を渡らせるようなことまで!」
御子姫の胸に、嫌悪にも似た怒りが走った。
奨弥もまた奏家の男だったのかと。守ると言いながら、結局はまた誰かを巻き込むのだ。
『すまなかった。俺はこんなことになるとは思っていなかったんだ。姫が一緒に帰ろうと泣いてすがった時に、無理して帰ればよかった。たとえ意識を失うことがあっても、それならなおさらどれだけ痛めつけられても、姫を守ってやれた』
「奨弥殿」
名が口をついて出た。ただ、それだけだった。言葉は継がれなかった。
奨弥は間違ったのだ。
愚かで、歪で、取り返しのつかないことまでしている。
それでも、守りたかったのだというその一点だけは、あまりにも生々しく真実めいていた。しかし、その果てがこれなら同じことだった。
──だからといって
御子姫は唇を結んだ。
忘れたわけではない。
ただ、もう戻れはしない。
離縁状を叩きつけたあの日、御子姫はすでに奨弥を切っていた。
涙はもうとうに枯れ果てていた。同時に、未練などというものもついえていた。
頭領として前へ進むと決め、一族を守り生き延びるため、すべてを過去へと追いやったのだ。
そうしてしまった女は、もう元の場所へは戻れない。
奨弥は立ち上がり、御子姫を抱き寄せようとした。だが、御子姫は体を翻し拒んだ。
「もう無理じゃ。戻れぬ」
その拒絶は静かだった。
だが、容赦の欠片もなかった。
奨弥の目の色が変わる。
『戻れぬ……?』
その声には、怒りより先に、信じがたいものを前にした空白があった。
まるでそこで初めて、自分だけがあの時の続きを生きていたのだと知らされたように。
御子姫は奨弥を見た。
奏司の若い体を得て、釣り合うだけの形をようやく手に入れたのだと、この男は思っていたのだろう。
帰ってこれば、また始められると。
失った時間も、切れた縁も、同じ場所へ戻せると。
だが、そうではない。
奨弥が取り戻したと思っているあいだに、御子姫はもう、奨弥のいない時を生きてしまっていた。
『俺は……帰ってきたんだぞ』
かすれた声だった。
泣き言じみていて、それでいて子供のように真っ直ぐでもあった。
『あの時のままでは駄目だったんだ。釣り合わなかったんだ。嫌ほどわからせられた。だから、待った。耐えた。力も体も、戻るための形も揃えた。なのに……』
奨弥の声はそこで途切れた。
何かをのみ込むように、喉が動く。
『なのに、おまえはもう、俺の知らないところまで行ってしまったのか』
御子姫は答えなかった。
答えれば、取り返しがつかないものをなおさらはっきり形にしてしまう気がした。
その沈黙の中で、奨弥の顔がわずかに歪んだ。
あれは、総代に据えられる前のことだった。里長に連れられ、ひそかに響家を訪れたことがあった。明るい髪の女が、大きくなってきた腹を撫でながら静かに笑っていた光景が、奨弥の脳裏をよぎる。
腹の中にいるその子が未来の頭領だと聞いた。自分はなぜだか誰にも渡したくないと思った。
それが、初めて自らが欲したものだった。その後も、何一つ、自分から望んだことはない。
裳着を終え、祝言の席に座る御子姫を見た時、あまりの幼さに戸惑った。
だが、その想いはすぐに別の、もっと確かな形を持った。
与えられた人形でも、対でもなく。奨弥にとって御子姫は、すでに「自分のものになってほしい」と初めて願ったものだった。
だから、奨弥には御子姫の言葉の意味が理解できなかった。
欲したものは、手を伸ばし、取り戻せばよい。
釣り合う形さえ整えば、再び隣に立てるはずだった。
どれだけ時が過ぎようと、再び。
そうではなかったのか。
『愛しているんだ、おまえじゃなきゃだめなんだ。おまえじゃないと』
奏司の顔をした奨弥が、切なそうな眼差しで御子姫を見つめていた。涙がぽたっと頬をつたって落ちた。
『愛してる……一度だけでいい。昔のように抱かせてくれないか』
「もう、無理じゃ!」
御子姫は必死に拒んだ。
だが奨弥は、昔のようにと願う言葉の裏で、いま目の前にいる御子姫の意思を踏みにじろうとしていた。
かつて愛した男は、守れなかった悔いを抱えたまま、そこから一歩も先へ進めずにいた。
いや、進めなかったからこそ、こうして戻ってきたのだ。
その瞬間、御子姫は悟った。
奨弥はただ戻ってきたのではない。
遅れて来てしまっただけなのだ。
しかもその遅れを、自らの執着で埋めようとしている。
その執着を宿したままの体の中では、すでに別の魂が育っていた。
奏司、という。
奨弥が自分のために作ったはずの体の中で、他の誰かが息づき、御子姫の隣に立とうとしていた。
それは奨弥にとって、最も残酷な計算外だったに違いない。
その後のことを、御子姫はうまく思い出せなかった。
結界の内側で、時だけがどろりと澱んでいった。
とうとう、一晩、結界は解かれることはなかった。
業を煮やした豪鬼が、結界の向こうから叫んでいるのが聞こえてくる。
「だめじゃ……豪鬼、よすんじゃ……」
「ひめーっっ!!」
かすかに叫び声を聞いた剛拳は、豪鬼が結界に体当たりするのを止めた。
「なんでっ!! ひめ、たすけてっ!!」
「だめだ、今はだめだ」
それでも豪鬼は食い下がった。
結界を指差し、今度はもっと強く言った。
「ケガレ、いるっ!!」




