離縁状
響美琴が、所用があって久しぶりに近くまで来たのでと、御子姫の元へ挨拶に寄った。奏将隆が急逝した折に、葬儀で少し顔を合わせたきりだった。
「お元気そうで何よりです。五年と区切っておいでとはいえ、大戦中。どうぞお気をつけて」
「そうじゃな、何があるかわからぬからな」
御子姫の頭の中は、穢のことで占められていた。
美琴の表情が一瞬曇ったのを、御子姫は見逃さず話を逸らした。
「此度は破格で屋敷を譲っていただき、双子が喜んでおった。礼を言わねばな」
「いえいえ、病死とはいえ、将隆が亡くなっておりますので。処分できてよかったくらいです」
「帆波は元気か、子がおったろう。もうすぐ元服ではないか」
「再来年でございます」
美琴の不自然なまでの自然さに、御子姫は触れられたくない何かがそこにあることを理解していた。
「万が一、戦人になりたければ、今ではしっかりと預かり体制を整えておるから、相談しておくれ」
「奨弥殿は奏家本家においでなのですね」
「いつまでも街の病院へ置いておくわけには行かぬのでな」
「そうでしたか……そうですわね。世の中、何が起きるかわかりませんものね」
ふいに、美琴の言葉の重みが変わった。さらりとかわしていたものが引っかかりを作る。
「奨弥殿のお加減は、いかがですか」
「そうじゃの、相変わらずぼーっとしておるわ。どうかしたか」
「いえ、姫様が奨弥殿をどうなさるのか案じておりました」
美琴は一言断ると、御子姫の方へ近寄り座り直した。
「どうしたのじゃ」
「どうも、癖が抜けずに申し訳ございません。折り入ってお耳にお入れしたいことがございまして……」
美琴は、さらに一段と声を落とした。
「実は、以前あの者は奨弥殿から何かを聞き出そうとしておりました。その様子があまりに度を超えておりましたので、一度調べたことがございました」
御子姫は話を聞くうち、何日も来ない日があったり、来たかと思えば全身痣だらけで介抱した記憶が蘇ってきた。
「それは、奨弥がいなくなる前のことじゃろうな」
「はい。ちょうど失踪される直前だったかと思います」
「直前……」
御子姫の息遣いが止まる。美琴は静かに御子姫の様子をうかがった。
「今さら申すようなことではございませんが。あの者は、奏家本家本筋を継ぐことができませんでした」
「それで?」
「一子相伝」
美琴は、その言葉だけを置いた。御子姫には、それだけで十分だった。
これですべてが繋がった。
「そうじゃったか。美琴殿、恩に着ますぞ」
「もったいのうございます。以前より、いずれお返しせねばと思うていたことにございます」
御子姫は何も言わず、目と目を見合わせ頷いた。
当たり障りのない世間話の端々から、お互いはっきりと口にはしないが、世の中には決して出ることのない話があることをわかっていた。
墓場まで持って行かねばならない類など、ごまんとあった。その一つに過ぎないのだ。あれもこれも。
「では、御子姫殿。これにて下がらせていただきます」
深々と頭を下げると、美琴は幾度か振り返り、御子姫と目を合わせては廊下を歩いていった。
こうして美琴は、永の暇を出し里から去っていった。
思い起こせば、奨弥が変わり始めたのは、痣を作って訪れるようになってからだった。何度尋ねても、関わらなくてよいと繰り返すばかりだった。
御子姫は、てっきり己に関することで何かあるのかと思っていた。あの当時、御子姫はまだ十五だった。
ただ、ある日を境に奨弥は雰囲気が変わった。
まるで何もかもを悟ったようでいて、いや、そうではなかった。何を招くかよりも、己の欲が勝ったのだ。
執拗に問い詰められるうちに、芽が出なくてよかったものが芽吹いてしまったのだろう。
──なんと、愚かな
御子姫は、奏家本家の奨弥の元を久しぶりに訪れた。
奨弥は十六で総代となり、それからずっと本家にいた。
今も、元々使っていた部屋で車椅子に座り、庭の方を見ていた。
奨弥を引き取ってどれくらい経っただろうか。
「奨弥殿、お加減はいかがですか」
御子姫が近寄って声をかけても、奨弥は相変わらず無反応だった。
御子姫は傍に座ると、美琴の話をした。美琴の名を聞いた時、一瞬指がぴくりと小さく動いた。
御子姫は何食わぬ顔をして、今度はアカメの話をし始めた。
アカメはちょっとやそっとでは祓えない代物で、御子姫自身も対について考えなければならないことを話した。
「今、異形の里で、まるで兄弟のように育つ者たちがおります。もうじき元服です。私は、その類稀な才を持つ二人と対を成し、二つの大砲を以って戦に赴く所存です」
御子姫は、奨弥を洋巳の元から病院へ移し、さらに引き取ってからも、一切言葉を交わそうとはしなかった。
それが、この日は違った。
しばらく沈黙が流れた。御子姫は、奨弥の横顔を見つめ続けた。
部屋には夕陽が長い影を作っていた。その境目がやがて闇へと溶けていく。夕闇が迫り、出陣の準備を始めなければならない時が迫っていた。
「二人と契るのじゃ」
御子姫は、重い口を開いた。
次に口をついて出たのは、いたわりでも慈しみでもない、決別に代わる言葉だった。
部屋は薄闇の中、堤に用意され始めた篝火の灯りが揺れていた。
御子姫は息を深く吸った。そしてそれを一気に吐き出しでもするかのようにまくし立てた。
「こんなところで廃人のようになって!
どうして勝手にこんなことをしたんじゃ!
そんなに私は信用ならんかったのか!
私の気持ちがそなたの他に向くとでも思うたのか!
力量の差などで、そう簡単に頭領と総代の対が解消されることなど、聞いたことがないわ!
誰の言葉に踊らされたのじゃ!
……いや、違う。
結局、そなたは己のことしか考えとらなんだのじゃ!
今もそうじゃろ!!」
御子姫は肩で息をした。これほどまでに激しく、心の底をぶつけたことはなかった。
「そなたは私を本当に愛してなどおらぬ」
御子姫は、奨弥の前に立つと、どこを見ているのかさえわからぬ目を見据えた。しばらく、暗闇に浮かぶ顔を睨め付けていた。
その瞳はまるで穢を見るそれであった。
「私ももう、そなたを愛してはおらぬ」
奨弥は、何の反応も示さなかった。ただぼんやりと遠くに揺れる篝火を、その瞳に映しているだけだった。
「そなたが私の元を去って、もうすぐ十八年じゃ。
私はその間も、連日のように常世へ向かい戦を続けておる。
どういうことかわかるか。
もう、そなたとは同じ時を生きられぬということじゃ。
そなたが突然来ぬようになったのは十五の時、私はもうすぐ十八になる。
そうじゃ、まだたったの十八じゃ。
これが常世と現世の時の差じゃ。
この三年間、一人残された私がどういう思いで、何を乗り越えてきたかなど、想像もつくまい。その重責を私一人に背負わせて逃げたのじゃ」
御子姫の声は、重く闇に沈んでいった。
「そなたは……」
──まるで、魑魅じゃ
「おまえは、私を守れなんだ。
おまえは、その手で私を!
おまえが最も忌んだ亡者の群れに、突き落としたのじゃ」
魑魅が、穢が、奨弥を覆っていくようだった。
「もう、遅い。情けで面倒は看てやる、それだけじゃ」
御子姫は、堰を切ったように、今まで胸につかえていたものを吐き出した。
そうまでしてでも、守るべきものができたのだった。
御子姫は奨弥との縁を、ここで切った。
御子姫は何事もなかったように、奨弥の部屋を後にした。
そして今夜も戦へと、ひとり向かっていった。




