奏司の中の奨弥
御子姫は、約束通り、赤丸を付けた日は、豪鬼の元へ行くように頑張った。
御子姫の仕事は戦以外が多かった。それゆえ優秀な神守衆を集めて高給で雇っていた。
やっとの思いで夕方、御子姫は異形の里へ着くと、嬉しそうに豪鬼が出迎えた。
奏司は疲れ切った顔の御子姫を案じた。
家に到着するなり、倒れこんだ御子姫の体からは嫌な穢が祓いきれていない臭いがした。禊が不十分なまま、忙しかったのだろう。
奏司は、養い親になるべく清い水と榊が欲しいとお願いした。
里長の家に榊を取りに走ると、井戸の清水をもらった。
榊に水をふりかけ、それを御子姫に降り注いだ。どこで覚えたのか、祓詞を唱え始めた。
高天原に神留まり坐す皇親神漏岐神漏美
かの命以て八百萬の神等を神集へに集へ賜ひ
神議りに議り賜ひて…
高山の未、低山の末より、
さくなだりに落ち多岐つ速川の
瀬に坐す瀬織津比売といふ神、
大海原に持ち出でなむ…
かく持ち出でいなば、
大海原に坐す速開都比売といふ神、
持ち加加吞みてむ…
かく加加呑みてば、
気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、
根国 底国に
気吹放ちてむ…
かく気吹放ちてば、
根国 底国に坐す速佐須良比売といふ神、
持ち佐須良比てむ…
罪と云ふ罪は在らじと祓へ賜ひ清め賜ふ事を
天津神國津神八百萬の神等共に聞こし食せと白す
それを何度も何度も、御子姫の様子を見ながら繰り返した。豪鬼も一緒になって手を合わせて拝んでいた。
──俺に穢を祓う力があったら!!
豪鬼がいきなり、大きく腕を振り上げ柏手を打った。
パァァンッ!!
奏司は閃いた。
奏司が輪紋を繰り出す。それを見て、豪鬼も輪紋を繰り出す。
二人の輪紋が御子姫を囲う。柏手と祓詞が輪紋で反響し、御子姫を包み込む。
その様子を見ていた剛拳は、二人の見事な輪紋に驚いた。
何より、見よう見まねで輪紋を繰り出した、豪鬼の隠れた才に驚きを隠せなかった。
しばらくすると、御子姫は気がついた。
真っ白な髪と紅い眼、身体中から経紋が光り輝いて現れた。輪紋に包まれ経紋が共鳴し、瞬時に穢は祓われた。
御子姫は濡れた着物からすぐ寝間着の浴衣に着替えると、布団に横になった。養い親が衣桁に着物をかけながら、濡れたのを拭いていた。
「高そうな着物、ごめんなさい」
謝る奏司に、横に豪鬼まで一緒に座って頭を下げている。微笑ましい姿に御子姫はにっこり笑った。
その晩、奏司と豪鬼は御子姫をはさんで眠った。
奏司は眠る御子姫の横顔を見つめながら、白い髪紅い眼、光る体になった姿を思い出していた。
なぜか、あの姿を見たことがある気がしていた。
船着場で初めて会った時も、懐かしい感じがした。
だが、今日のあの姿には、見覚えがあった。
父は意識がはっきりしている時、母がいないのを見計らって、御子姫の話をしてくれたことがあった。
母は御子姫の話になると、すぐに機嫌が悪くなった。母のことを思い出す時、夜中に仕事から帰ってくると、父を無理やり起こしていた声が怖かった。
何をしていたのかは、自分の体の変化で容易に想像はできた。
そして奏司がいちばん困るのは、御子姫のことを考えると、自分の記憶ではないはずの懐かしさが胸の奥から湧いてくることだった。
触れたこともないのに、知っているような気がしてしまう。
その感覚が気味悪く、苦しかった。
今でも、寝息が聞こえてくるだけで胸の奥がざわついた。
懐かしいはずのないものが、自分の中で目を覚ましそうで怖かった。
奏司は起き上がると、横ですやすやと眠る御子姫を見た。
「どうしたのじゃ」
奏司は見られたと思い、立ち上がろうとした。
御子姫は布団をめくると、奏司の手を引いた。
「おいで」
奏司は抗えなかった。吸い寄せられるように、御子姫のそばへ寄ってしまう。
『……なつかしい』
それが自分の声なのかどうか、奏司にはわからなかった。
「御子姫、俺……」
御子姫は黙って奏司を抱きしめた。子をあやすように背を撫で、胸に顔を寄せた奏司の髪をゆっくり撫でた。
「奏司……」
その呼び声は、もう一人の誰かへではなく、確かに奏司へ向けられていた。
奏司はそのぬくもりの中で、ようやく震えが収まっていくのを感じた。
それでもなお、胸の奥には異質な何がが静かに残っていた。
──懐かしい香りだ。
『姫……愛してる……』
はっと、奏司が御子姫を見上げる。
御子姫はそのまま奏司の頭を胸元に抱き寄せた。鼓動がゆっくりと伝わってくる。
「奏司……」
やさしい呼びかけに、奏司はそのまま目を閉じる。
自分の中で音もなく蠢く何かが、少しずつ静まっていくのがわかった。
しばらく御子姫の腕の中にいた奏司は、落ち着くと自分の布団へ戻った。
御子姫は豪鬼が寝返りを打つのを見守り、口に人差し指をあて、しぃっと静かに笑った。
奏司は不思議な感覚がした。自分の思いより先に体が動いていた。
なつかしいのに、自分の記憶ではない。
安心するはずなのに、どこか底の方が冷えていくようでもあった。
──俺、知っている気がする、この感じ
翌朝、御子姫は昨日里についた時からは見違えるほど元気になっていた。
朝から奏司は釣りの用意をして、豪鬼も行くというので連れ立って出かけた。
「御子姫! うまい魚獲っくる、待ってて!」
川の瀬で、石の裏側にいる川虫を餌にして、奏司は手製の短い竹竿で器用にまた一匹とゴリを釣っていく。
豪鬼は近くのトロ場で竹ヤスを上手に使って魚を突いていた。
小一時間ほどで氷を入れたクーラーいっぱいになった。
養い親はゴリに葛粉をまぶし揚げてくれた。奏司は七輪でヤマメを塩焼きにした。
「美味いでしょ。ヤマメは豪鬼がヤスで突いて獲ったんだ。スゴイでしょ」
「ほう、豪鬼が獲ったのか、大したものじゃ」
豪鬼は得意げに笑った。
奏司と豪鬼は、もう何度も連れ立って川へ魚を獲りに行っていた。
御子姫に里の幸で少しでも精をつけてほしかった。
奏司と豪鬼は二人でわいわい騒ぎながら風呂に入ると、二人揃ってごろんと大の字になって昼寝をした。
その様子を見つめながら、奏司と一緒なら、豪鬼も戦に……いや、対はどうする。私が二人を従えるか、うまくいけば大砲の連打ができる。
もしも豪鬼が、奏司についていこうとしたら、その時考えればいいか。ふと、御子姫は、戦中心に考えてしまう己に呆れた。
豪鬼がすぐそばで眠っているというのに、奏司は夜になると御子姫のそばへ引き寄せられてしまっていた。
夜になり布団を敷いて寝ると、隣の布団で御子姫が寝ていると思うだけで眠れなかった。
明日は御子姫が帰ってしまう。そういう晩は豪鬼は御子姫から離れない。布団をくっつけて、背中にくっついて寝ていた。
「奏司も、おいで」
奏司はためらいがちに、御子姫の方へ向くと話し始めた。
「俺さ……気がつくと、いつもそこにいてさ……おかしいのかな」
「どうしてじゃ」
「なんか、操られてるみたいでさ。記憶がないんだ。俺、父さんみたいな病気かな」
御子姫は、奏司の中に奨弥がいることを感じ取っていた。
きっと奏司が気づかないところで奨弥が出てくるのだろう。
それを奏司は、己と異なる何かと認めた。
奏司の戸惑いも、わかる気がする。
それだけではない。
確か以前、奏司から、洋巳の奨弥に対する激しい固執ぶりも聞いている。幼い頃から、異常なまでの母親の姿を見てきた奏司にとって、気がつけば御子姫のそばに寄ってしまうことは、大問題だった。
「そんなことはない。奏司は私のことをどう思うとる」
『愛して……る』
──誰?
「大好きだよ、けどね、もう一人の俺は、愛してるって言うんだ。俺の気持ちなんかお構いなしで、出てこようとするんだ」
奏司は握り拳を作ると、こらえきれず畳を叩いた。
「俺は自分の、御子姫を好きだっていう気持ちを大事にしたいのに!!」




