闇の片鱗
将隆は、先日仕事で出かけた折、外泊して帰ってきた。
その時に香っていた匂いは、どこかで覚えのあるものであった。いつもの贔屓の芸妓のものではなかった。
それを美琴が見逃すわけがなかった。
将吾と帆波は第一子誕生を機に、屋敷を別に構えていた。
美琴が家に手伝いの娘を置くことを渋々認めて、やっと独立させることができた。手伝いの娘は輪紋の者で、将隆が連れてきた。
美琴は出かける時はなるべくお供として連れて出ていた。
ある日、将隆は仕事の予定を早め帰ってきた。思った通り、手伝いの娘は家に残っていた。玄関に出迎えたのは、娘だった。
娘は部屋へ茶を持ってくるよう言われ、将隆の自室へと向かった。執務机に茶を置くと、言われるがまま脱ぎかけの背広を片付けていた。
ぎいっと、背後で椅子が軋んだ。娘の肩が強張る。
するとしばらくして、階段を上ってくる足音がした。出かけているとばかり思っていた美琴が、娘の名を呼びながら廊下を歩いてきた。
将隆は、振り返って己を見る娘に、出ていけと手で追い払った。娘はテーブルに置いた盆を震える手でとり、落とさぬよう抱きかかえた。
先日雇った娘が静かに将隆の部屋から出てくるのを、美琴は黙って見ていた。
娘は美琴と顔を合わせようとしなかった。ぺこりと頭を下げると、美琴の脇をすり抜けるよう下へと降りて行こうとする。
「手伝ってほしいことがあるの、探してたのよ」
娘はまたぺこりと頭を下げる。美琴はやさしく肩を撫でると、娘と一緒に下へと降りていった。娘の肩は震えたままだった。
美琴は振り返らなかった。
ある日の会合のあと、御子姫にいいように逃げられた将隆は、腹を立てながら屋敷に帰っていった。
途中思い立ち、息子の将吾宅へ寄ることにした。
帆波は二歳の息子と居間にいた。インターフォン越しに義父将隆が映った。
ふと、以前のことが思い出される。
一人目の将真が三歳の頃、まだ義父母と同居していた時のことだった。ちょうど同じように、誰もが出かけていて子供と二人きりで屋敷にいた。
思い出したくもないことだった。
将真を寝かせていた部屋へ、将隆が入ってきた。
子供を起こすぞ、と低く言われた声だけは、今も耳に残っていた。
帆波の変化を、義母美琴は見逃さなかった。将隆の名が出た瞬間、察した美琴は泣いて謝った。
気鬱となった帆波は、将真と一緒にしばらく里の両親の元で養生した。
時刻を見れば、もうすぐ将真が学校から帰ってくる。あの男なら、将真がいても子供を盾に取りかねない。帆波は美琴に静かに連絡をした。
帆波の様子から、美琴はすぐさま駆けつけた。しばらくおとなしかったのに、またどうして。
そういえば今日は会合があるといって出かけた。また会合先で気に食わないことでもあったのだろうか。
将隆は何度かチャイムを押したが出ないので、留守だとあきらめて帰っていった。そこへちょうど入れ違いに、息子の将真が学校から帰ってきた。
将真はチャイムを鳴らしたが応答がないので、鍵を開けて入った。おかしいなと思いつつ居間へ行くと、母帆波が昼寝から目覚めた弟を抱きかかえて震えていた。
将隆が屋敷に戻り美琴の出迎えがないので尋ねると、急用ができ出かけたと娘は答えた。その時娘はもう、あきらめていた。
美琴は帆波が落ち着いてきたので、一緒に夕飯を作ると帰っていった。母を心配する将真には、時々昔怖かったことを思い出すからだと話した。
別居したからといっても、同じ里の中で暮らしていたのでは、やはり今日のようなことはまた起きるだろう。やはりもっと思い切らねば、と美琴は考えつつ帰宅した。
そっと玄関を開けると、将隆の靴が脱いであった。
廊下や階段は電気が点いているのに、どうも様子がおかしい。音を立てないよう途中まで階段を上っていくと、一番奥の将隆の部屋から声が聞こえてくる。
すぐに勘付いた美琴は、玄関へ戻りわざわざ扉を閉める音を立てた。そして、大きな声で娘の名を呼んだ。
翌日、美琴は素知らぬ顔で、将隆が出かける支度を手伝っていた。
洋服箪笥を開けると、かかっている背広から微かに覚えのある香の匂いがした。将隆が出かけた後、再度確認すると匂いのした背広に長い白髪が付いていた。
急いで片付けたのだろう、気がつかずそのままだったようだ。その白髪を取ると、美琴は懐紙に挟んで部屋へ持って帰り大切に保管した。
同じ頃、別の場所でもまた、別の闇が覆い始めていた。
洋巳はいつもより飲んで帰ってきた。
奏司の話をして、結局自分の思うような答えは返ってこなかった。そこで、客と一緒に少々ヤケになって飲んでいた。
客の男からは、まだ若いんだから二人目を作ればいいと散々言われた。
奨弥は出産してから、少しずつ精神的におかしくなっているように思えた。気性は荒れ、洋巳の望むようには、夫婦として成り立たないことが多かった。
無理に奨弥を連れ出して、何度か相談にも行った。だが、話を聞かれるほど、洋巳の方に問題があるように見えていった。
それでも洋巳は、奨弥が自分の元にいてくれさえすればよかった。
洋巳は奨弥に近寄ると、石鹸の匂いがした。
久しぶりに風呂に入ったことがわかると、ふと店の客が言っていた、子供を作ればいいという言葉が蘇ってきた。
「奨弥、私、子供がほしいの。お願い。奏司がいなくなったら、私、寂しいのよ」
奨弥は無反応だった。
もうこれ以上洋巳にいいようにされるのは、本当にうんざりだった。
洋巳は奨弥の気持ちなど、もうどうでもよくなっていた。奨弥を愛しているというより、御子姫から奪ってやったという優越感がすべてだった。
奏司は奨弥の寝ている近くで、布団を敷いて寝ていた。
夜中に目を覚ますと、同じ部屋の向こうで、母、洋巳の執着だけが蠢いていた。
思い起こせば、父、奨弥はいつも母にいいようにされていた。
近くで寝ていても知らないふりをしていた。
そうしなければ、もう二度と母の顔を見ることはできない気がした。
こういう時の母、洋巳の姿は本当に怖かった。
鬼気迫る顔で、笑っていた。
もう残された道がそれしかない時の、切羽詰まった、やり遂げようとする──鬼の形相だった。
奏司は、父があんな風になったのもわかる気がした。
船着場で見た母もまた、鬼のようだった。
いつのまにか洋巳は、思う通りにいかないと必要以上に苛立つようになっていた。
奨弥だけでなく奏司まで、洋巳を避け関わろうとしない。
洋巳がイライラしているところへ、客として将隆がやってきた。
「いらっしゃぁい! あらぁ、珍しいわね。その節は、どぉも。なに飲まれます?」
「いつものでかまわん」
洋巳はキープボトルを取ると、セットを一式用意した。
「私もいただいていいかしら、なんかイライラすることがあってぇ」
将隆は鼻で笑うと、薬の入った袋を洋巳にちらっと見せた。
「あ……まさか。ソレって」
「イライラしてるのは、コレのせいじゃないのか」
洋巳は素知らぬ顔をして、水割りを二杯作ると将隆と乾杯した。
「やぁね……そんなわけないじゃない」
「それより、薬はやるから、ちょっと頼まれてくれないか」
「えぇー、タダより怖いものって、ないじゃない」
「おまえ、もう奏司はいらないってよく言ってるだろ。御子姫に渡す前に、すっきりさせてくれると助かるんだがな」
将隆はカプセルが何粒も入った袋をカウンターに置いた。
「コレはやるよ。その気になったらやればいい」
洋巳はたまらず、袋からカプセルを出すと水割りで一粒飲んだ。
「コイツは新薬らしい。バツグンに効いて気持ちいいらしいぞ」
将隆はポケットから小瓶を出すと、数錠カウンターに出して洋巳に勧めた。
「どっちも、まだ大丈夫なやつなんでしょ」
将隆は頷いた。今のところはな、と付け加えた。
御子姫の祝言の夜から、洋巳の内で何かが狂ってしまった。執着し、貪欲になっていくほど、別の刺激を求めた。




