最後の団欒(裏)
9月13日(金)14時
パパを怒らせてしまった。
わたしと美鈴のために薬を用意してくれたから、きっといいものだと思って鏡花さんに進めた。でも、どうやらそれがいけなかったみたい。
「あの……パパ、せっかくくれたお薬を勝手に鏡花さんにあげてしまってごめんなさいね」
鏡花さんが部屋に行ってから、またパパは考え出してしまった。嬉しそうなような、怒っているような。まるでパパは趣味に没頭している時のような、そんな表情をしている。でもだめ、この表情をしている時がパパは一番わからない。確実に怒っているだろうから、このままでは何をされるのかわからない。
パパはわたしの言葉も全く耳に入っていないようで、紅茶の入っていないティーカップの持ち手に触れたまま、固まってしまって全く動かなくなってしまった。
とにかく、もう一度謝っておこう。
「あの、パパ、あのね」
ガタッ
「ヒッ」
わたしが話し始めた途端に、パパは急に立ち上がり、わたしの方に近づいてきた。
わたしは固まっていたパパが急に動き出したことに驚いてしまい、思わず変な声を出してしまった。
やっぱり遅かったんだわ。
パパは昔からわたしにすごく優しい。けれど、前に1度だけパパを怒らせてしまった時、とっても怖くて、怖くて涙が止まらなくなってしまったことがある。その時は結婚前だったけれど、わたしが反省するまで懇々と怒られたのを覚えいる。
その時も表情は怒っていなかったけれど、独特の雰囲気が、それはもう怖くて、何か間違えたら何かされるんじゃないかと思って怖くて怖くて仕方がなかった。
今回もきっとわたしの声が届かないくらい怒っているに違いない。わたしにはどうしたらいいのかわからないけど、それでも謝らなくちゃ。
「ごめんなさい、あの、わたし…きゃっ」
そんな風に身構えて、パパに恐怖していたわたしの覚悟は、予想外な展開に裏切られることになった。
わたしのところまで近づいてきたパパは、唐突に両方の肩をガシッとつかみ、わたしの顔をうっとりするほど優しい表情で覗き込んだ。
あれ?怒っていないのかしら。
だとしたら、わたしはなぜ今、肩を掴まれているのかしら。
わたしは、パパのあまりに突然な行動にきょとんと固まってしまっていた。
そしてわたしが固まっていると、パパはものすごい勢いで、椅子に座ったわたしの上からガバッと覆いかぶさるように抱きしめた。
「えぇえ?パパ?おこっていたんじゃないの?」
「ああ、初めはね。すごく怒っていたさ。でもね今は君への感謝でいっぱいだよ。ありがとう、愛してるよ琴音」
よかった。
昔みたいに怒られたらどうしようと思っていたけど、勘違いだったんだわ。そうよね、1度だけしか経験してないんだもの、そんなことがもう1度起こるはずないわよね。
パパが怒っていないということがわかり、一気に気が抜けて、体から力が抜けてしまってせっかく抱きしめてくれたパパを抱き返せない。
こんな時だけど、久しぶりに名前を呼ばれて、抱きしめられて。
恐怖から解放されてほっとしたのと、嬉しさでパパに腕を回すことができないまま、思わず泣き出してしまう。
あとからあとから涙が溢れて止まらない。
嬉しいのに、どうしてかしら。
わたしが泣いている様子を見てパパは我に帰ったのか、急いで離れてしまった。
「すまない」
「いいのよ。嫌じゃなかったから」
パパは顔を赤らめながら、目を合わせないように、やや右を向いてしまった。明らかに自分が起こした突然の行動に動揺している。
わたしが嫌だと思って離れてしまっただろうか。そうだとしたら、悲しい。それにもう少し抱きしめたままでいて欲しかった。
けれどパパが動揺している姿なんて滅多に見られないし、そんな可愛いパパの姿が見れるのは素直に嬉しい。
パパはわたしの方を恥ずかしそうにちらちらみながら鼻の頭を掻いている。そして咳払いを1つすると、椅子に戻ってしまった。
それから気持ちを落ち付けようと、ティーカップを手に取り中身に口をつけようとして、
「あ、」
中身は入っていなかった。
「ふふっ、ふふふ、ふふふふ、パパったらどうしちゃったの?変な幸之助さん」
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
そんな珍しいパパの様子を見ていたら、さっきまで流れていた涙は何処かに行ってしまった。
それに合わせてさっきまでの剣呑な空気もどこかに行ってしまって、その代わりに2人の間には笑いが溢れた。
それからパパは、ティーポットから紅茶をカップに注ぐと、ひとくちだけ口にした。そして、ようやく冷静さを取り戻したのか、改めてわたしの方のカップにも紅茶を注いでくれた。
そして、もう2口だけ紅茶を口にしたあと、パパは静かに語り出した。
「鏡花の成長には、まったく驚かされてしまうね」
「あら、あなたも同じことを思っていたのね。あの子は私たちが思っていたよりずっと大人になっていたわ」
「ああ。わたしはまだ鏡花は、小さい子供とばかり思っていたが、あれだけ好きかってやっていても、心は成長するものなんだな。受け答えや、考え方まで、もう君やわたしと変わらなかったよ」
パパがなにを見てそう思ったのかはわからない。けれどわたしも、さっき鏡花さんと改めて話してみて、パパと同じように大人になったんだなと思った。
美鈴ちゃんはどんどん口達者になって、わたしの子供とは思えないくらい、気が強くなった。それに、剛は生徒会でも部活でも結果を残してみんなに慕われている。そんな2人ばかりを見ていたから、鏡花さんよりも、2人の方が大人だなんて思っていたけれど、わたしがあの子のことをちゃんとみてあげてないだけだったみたい。
あの子はあの子なりに、わたしや美鈴ちゃんが歩んでいるのとは違う道を行こうとしているけど、それでも悩んで苦しんで、それでも進もうとしているんだわ。
子供達の成長を感じられたことは素直にすごく嬉しかった。けれど同時に反省しなきゃいけないなと思い知らされた。わたしももっとちゃんとしなくちゃ。
「もっと鏡花さんのことを見てあげないとダメね。反省しなくっちゃ」
「いや、君は頑張ってくれているよ」
パパは軽く首を振り、わたしの言葉を優しく否定してくれた。そして、手に持っていたカップをそっと受け皿に戻し、優しい表情でわたしの目を覗き込んだ。
「わたしと君は政略結婚だったね」
「ええ」
幸之助さんとわたしの結婚は家柄を結ぶために両親が決めたことだった。
けれど、わたしは優しい幸之助さんのことをすぐに好きになったし、それに今だって幸せを感じている。
でも、幸之助さんがわたしを本当の意味で好きではないということはなんとなく感じてはいた。きっと跡取りが欲しいだけだろうと。わたしは悲しかったけれど、それでも良かった。
「けれど実は、僕は君には人として惹かれるところがあったんだ」
「え?ほんとに?」
だから、こんなことを言われることは想定外だった。
「わたしが君望んだのは、いい母であることだった。けれど、一緒にいて、君ほど淑やかで、優しくて、その上美しい人は他にいないと思ったよ。わたしには勿体無いくらいだ」
「そんなこと……」
そんなふうに少しでも思ってくれていることを、20年間一緒にいてまったく知らなかった。わたしには生物学上の女しか求められていないものだと思っていた。
嬉しい気持ちの反面、幸之助さんに申し訳ない気持ちが溢れてきた。
「その上、鏡花まで産んでくれたんだから、わたしは君に感謝してもしきれないよ」
「とっても嬉しいわ。でも、ごめんなさい。わたし、幸之助さんに愛されていないと思っていたの、それでね……」
言葉がうまく出てこない。
けれど幸之助さんは、何もかもわかっているかのような表情で頷きながら聞いてくれている。
そして、それでも言葉が出てこないわたしを庇うように話し始めた。
「わたしは君に優しくしてあげていなかったよ。だからそう思われても仕方がない。けれどわたしは、いや、僕はね、君よりも愛せる人はこの人生で出会えない。ちょっとくさいけど、これは本当だよ。本当に本心なんだ」
まっすぐにわたしの瞳を見つめ、優しい顔で気持ちをぶつけてくれる。わたしの中のわだかまりも全部許して、包み込まれているような感じがして、幸せな気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう。わたしも、愛しているわ」
こんなに嬉しい気持ちになったのはいつ以来だろう。嬉しさのあまり、とろけてしまいそうになる。もしかしたらもう溶けているのかもしれない。
わたしは紅茶を一口飲んでからカップを受け皿に戻し、パパの方に向き直る。なんだか眠くなってきてしまった。
けれど、結局さっきの薬のことを話せていない。怒ってはいないみたいだけど、それでも、パパに謝りたい。
「さっきの薬の件なんだけど……」
「ああ、そのことなら謝らなくていいよ」
「え?どうして?」
「君は鏡花を思って薬をあげたんだろう?それで、効かないにしても、副作用も何もなかったんだからいいじゃないか」
パパはわたしが言おうとしたことを全部わかっているように、わたしの言葉に、言葉を被せた。
わたしが勝手にあげたことを怒っていたけれど、何も起きなかったから許してくれたのね。それなら良かった。
思い残しなく、パパと話せた。その安心感からか、今度ははさっきとは比べものにならないくらいの睡魔が襲ってくる。体を起こしていることすらできず、卓に突っ伏すような体勢になってしまった。
「大丈夫かい?」
「えれぇ、だぁいじょぉぶよぉ」
何か、ろれつが回らない気がする。けれどきっと眠いせいだろう。
パパはわたしの脇から手を回して、わたしを抱き起こし、ゆっくりとソファに寝かせてくれた。そして、ソファに置いてあったブランケットをわたしに掛けてくれた。
「疲れが回ったんだろう。僕も、もう少しいるから安心して眠りなさい」
ありがとう
きっと声にはならなかったと思う。でも、なんとなく、パパには伝わった気がした。薄れゆく世界の中で、パパの優しい顔だけを見ながらゆっくりと意識が遠のき、そしてそのまま眠りに落ちた。




