3-8 秘密
図書館を訪れるようになってから、レティアには小さな楽しみが増えていた。
王宮の外へ出るには、決められた時間を守り、付き添いを連れてこなければならない。それでも、以前より自由に本を選べるようになったことが嬉しかった。
そして最近は、本を読む以外にも楽しみがある。
「こんにちは、クロードさん」
書架の間に見慣れた姿を見つけ、レティアは声をかけた。
「こんにちは、レティア。今日は少し早いんだね」
「はい。早く来られたので、先に少し本を探していました」
「何かいい本は見つかった?」
「まだです。今日は自分で選んでみようと思って」
クロードは手にしていた本を閉じた。
「それなら、こっちの棚はどうかな。前に読んでいた旅行記に近い本があると思う」
「本当ですか?」
レティアは嬉しそうに彼の隣へ並んだ。
初めて会った時は、何を話せばいいのか少し迷っていた。けれど、何度か図書館で顔を合わせるうちに、そんな緊張も薄れてきた。
クロードはレティアが読んだ本の話をよく覚えていた。どんなところが面白かったのかを聞き、時には自分のおすすめを教えてくれる。
彼女が王女であることを気にする様子もなく、いつも同じように接してくれた。
「そういえば、この前の旅行記はどうだった?」
「とても面白かったです。でも、ひとつ気になることがありまして」
「何だい?」
「出てくる料理がどれも美味しそうなのに、味が分からないんです」
「それは本だから仕方ないね」
「分かっています。でも、あんなに美味しそうに書かれたら、食べてみたくなるじゃないですか」
真剣な顔で訴えるレティアに、クロードは小さく笑った。
「じゃあ、次は料理の作り方が載っている本にしようか」
「それは違います! 私が作りたいわけではありません!」
「食べたいだけ?」
「そうです!」
言い切ってから、レティアは少し恥ずかしくなった。
クロードは笑いながら、一冊の本を書架から引き抜いた。
「これはどうかな。港町を巡った人の旅行記なんだけど」
「港町ですか?」
「うん。海沿いの街をいくつも訪ねていて、景色の描写が綺麗なんだ」
「読んでみたいです!」
レティアが手を伸ばしかけたところで、クロードは本を書架の手前に置いた。
彼女は袖から指先だけを出し、表紙に触れる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
クロードはそれ以上何も言わなかった。
以前から、レティアは人に物を渡す時も、受け取る時も、なるべく手が触れないようにしていた。
クロードがそのことに気づいているのかは分からない。ただ、彼はいつも無理に手渡そうとせず、こうして本を置いてくれる。
理由を尋ねられたことも、一度もなかった。
「ほかにも気になるものがあったら、見てみるといいよ」
「はい!」
レティアは本を抱え、隣の書架へ目を向けた。
しばらく背表紙を眺めていると、見覚えのある題名が目に入った。
「あっ、これ!」
思わず手に取った本を、クロードの方へ差し出す。
「この本、前にお話ししたものです。覚えていますか?」
「ああ、確か途中まで読んでいたって言ってたね」
「そうなんです。続きが気になっていたんですけど、なかなか見つからなくて」
クロードが本を受け取ろうと手を伸ばした。
その指先が、レティアの指に触れた。
「あっ」
レティアは反射的に手を引いた。
抱えていた本が腕の中で傾く。
「大丈夫?」
クロードが本を支えた。
その手は、何事もなかったかのように表紙を押さえている。
「す、すみません」
「いや、僕も急に手を出したから。驚かせたね」
クロードは本を近くの棚へ置いた。
レティアは彼の手を見つめた。
先ほど、確かに触れた。
けれど、クロードはいつもと変わらない様子で、何が起きたのかも分かっていないようだった。
そうだった。
この人は、魔法を使えないのだ。
以前、魔法が使えないことを不便に思わないのか尋ねたことがある。
その時、クロードは生まれた時からないものを不便とは思わないと答えていた。
「あの、クロードさん」
「うん?」
「少し、お話ししてもいいですか?」
「もちろん」
レティアは周囲を見回した。
書架の奥には、ほかの利用者の姿はない。付き添いもいつものように入口付近で待っている。
「前に、私が魔法をあまり好きではないとお話ししたのを覚えていますか?」
「覚えているよ。王宮では内緒にしてほしいって話だったね」
「はい。あれから、誰かに話しましたか?」
「いいや。誰にも話していないよ」
「本当ですか?」
「約束したからね」
クロードは穏やかに答えた。
レティアは胸元で両手を握り合わせた。
何度も図書館で会ううちに、彼とは色々な話をするようになった。
本の好みも、行ってみたい場所も、王宮ではなかなか話せないような他愛のないことも。
それでも、これから話そうとしていることだけは、話せなかった。
この魔法のことは、誰にも話してはいけない。
王宮では、そう言い聞かされてきた。
レティアは一度口を開きかけ、ためらった。
けれど、先ほどのクロードの言葉を思い出し、顔を上げる。
「それなら、ひとつ、秘密を増やしてもいいですか」
クロードは少しだけ目を丸くした。
「僕でよければ」
「ありがとうございます」
レティアは小さく息を吸った。
「私の魔法は、ほかの人の魔法を消してしまうんです」
クロードの手が止まった。
彼は手を止めたまま、レティアへ目を向ける。
「魔法を?」
「はい」
クロードはすぐには言葉を返さなかった。
「それは、僕が聞いていい話だったのかな」
レティアは彼の顔を見つめた。
「聞いてほしいんです。クロードさんには」
クロードは一度視線を落とした。
それから、静かに頷いた。
レティアは自分の手元に目を向けた。
「だから、ほかの人に触れるのが怖いんです。知らないうちに、その人の大切なものを奪ってしまうかもしれませんから」
握り合わせた指先に、少し力がこもる。
「王族なのに、私は魔法を消すことしかできなくて。みんなのように、誰かの役に立つこともできません」
言葉にすると、思っていた以上に胸が苦しくなった。
レティアは顔を上げられずにいた。
「それで、いつも手を隠していたんだね」
クロードの声に、レティアは驚いて顔を上げた。
「気づいていたんですか?」
「うん。本を受け取る時も、なるべく指が触れないようにしていたから」
「どうして、聞かなかったんですか?」
「何か理由があるんだろうとは思ったけど、無理に聞くことじゃないからね」
レティアは彼を見つめた。
「クロードさんは、怖くないんですか?」
「僕が?」
「はい。そんな魔法を持っている人が近くにいたら、嫌ではありませんか?」
クロードは少し考えるように視線を落とした。
そして、先ほど棚に置いた本へ手を伸ばす。
「少なくとも、僕には消される魔法がないからね」
そう言って、本をレティアの前へ差し出した。
レティアは思わず彼の顔を見る。
「それに、誰かを傷つけたくて、その魔法を使っているわけじゃないんだろう?」
「それは、もちろんです」
「なら、僕は怖くないよ」
あまりにも自然な返事だった。
レティアはしばらく何も言えなかったが、やがて小さく笑った。
「クロードさんは、不思議な人ですね」
「そうかな?」
「はい。私がずっと悩んでいたことなのに、そんなに簡単に答えてしまうんですから」
「簡単なことだとは思っていないよ」
クロードはそう言って、本を書架に戻した。
「でも、話してくれてありがとう」
レティアは目を瞬かせた。
「ありがとうございます、は私の台詞です」
「そう?」
「はい。こんなお話を聞いてくださったんですから」
クロードは小さく笑った。
「じゃあ、お互い様だね」
レティアもつられて微笑んだ。
彼の言葉を聞いていると、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
「クロードさん」
「何だい?」
「このことも、秘密にしてくれますか?」
「もちろん」
クロードはいつもと変わらない調子で答えた。
「ありがとうございます」
レティアは微笑んだ。
その手は、いつの間にか袖の外へ出ていた。
やがて、帰る時間が近づいた。
レティアは選んだ本を借りる手続きを済ませ、クロードと並んで入口へ向かう。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。いい本が見つかってよかったね」
「はい。今度は感想をお話ししますね」
「楽しみにしているよ」
二人が入口へ近づいたところで、聞き慣れない声がした。
「あれ、クロード?」
振り向くと、一人の少年がこちらへ歩いてきた。
手には返却するらしい本を持っている。
「カイル。図書館に来ていたんだね」
「うん。本を返しに来たんだ。クロードがいるとは思わなかったけど」
カイルはクロードの隣にいるレティアへ視線を向けた。
「あ、ごめん。お話し中だった?」
「いや、ちょうど帰るところだったんだ。レティア、彼はカイル。同じ小隊の仲間だよ」
「そうなんですね」
レティアは丁寧に頭を下げた。
「初めまして。レティア・アークレインと申します」
「アークレイン……もしかして、アーサーの妹さん?」
「はい。兄がお世話になっています」
「そうだったんだ。俺はカイル。こちらこそ、いつもアーサーには助けられてるよ」
カイルは人懐っこい笑みを浮かべた。
「よろしくね」
そう言って、右手を差し出す。
レティアの肩が小さく揺れた。
差し出された手を見つめ、彼女はそっと自分の両手を袖の中へ引き込む。
「ごめんなさい。私、人と握手するのは控えているんです」
カイルは一瞬きょとんとした顔になった。
それから、慌てて手を引っ込める。
「あっ、そうなんだ。こっちこそ、急にごめんね」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
「いやいや、気にしないで。挨拶したかっただけだから」
カイルは笑ってみせたが、少し困ったように頬をかいた。
クロードはその様子を見ていたものの、何も言わなかった。
「あの、私はそろそろ失礼しますね」
「うん。また図書館で」
「はい。また」
レティアは二人に頭を下げ、入口で待っていた付き添いのもとへ向かった。
扉を出る前に、ふと振り返る。
クロードがこちらに気づき、小さく手を上げた。
レティアは少し迷ってから、袖の中に隠していた手を出した。
そして、彼に向かって小さく手を振った。




