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MHISTORYM  作者: しおにまる
第1章 入学編
2/24

1-1 門出


朝を告げる鐘が、街の空に響いた。

一度、二度、そして三度。

高い鐘楼から放たれた音は、石造りの建物が並ぶ街を越え、朝靄の残る空へと溶けていく。

鐘の音に合わせるように、街がゆっくりと目を覚ましていった。

閉ざされていた店の扉が開き、通りには荷車が並び始める。店先では指先に灯した炎で調理器具を温める者がいれば、積み上げられた荷物を風で浮かせ、一度に店内へ運び込む者もいる。

通りの隅では、箒を持った老人が生み出した水で石畳を洗っていた。

そのすぐ横を、制服姿の子どもたちが当たり前のように通り過ぎていく。

誰一人として、その光景を珍しそうに見る者はいない。

魔法。

遥か昔、一人の青年が見つけた力。

かつては奇跡と呼ばれたそれも、今では暮らしの中に当たり前のように存在していた。

そんな街の一角。

大通りから少し離れた場所に、一軒の大きな建物があった。

ところどころ古さは目立つが、壁や窓は綺麗に手入れされている。庭には何人もの子どもたちがいて、朝から元気な声が響いていた。

その二階。

窓際の机に、一振りの剣が置かれている。

ユエルは鞘から刀身を少しだけ抜き、刃を確認すると、音を立てずに戻した。

そのまま腰へ下げる。

続いて短剣。

小さな工具。

包帯。

いくつかの道具を順番に確認し、身体の決まった位置へ収めていく。

最後に鞄の中身を確認する。

筆記具。

学院から届いた書類。

財布。

入学許可証――がない。

ユエルの手が止まった。

鞄の中をもう一度見る。

ない。

机の上にもない。

椅子、ベッド、昨日着ていた服。

順番に視線を巡らせていき、ふと棚の上で止まった。

一枚の紙が置かれている。


「……あった」


ユエルはそれを手に取ると、特に慌てる様子もなく鞄へ入れた。

これで全部だ。

鞄を閉じ、部屋を見渡す。

使い慣れた机。

毎晩眠っていたベッド。

壁際の棚には、持っていかない物がいくつか残っている。

ユエルはしばらく部屋を見ていたが、やがて扉を開けた。

階段を下りるにつれて、食器の触れ合う音や子どもたちの声が大きくなっていく。

一階は朝から騒がしかった。

食堂では小さな子どもたちが朝食を食べ、その間を職員たちが忙しそうに行き来している。

ユエルが食堂の前を通りかかると、一人の少年が椅子の上から身を乗り出した。


「ユエル兄ちゃん!」

「ん?」

「今日から学校?」

「ああ」

「魔法の?」

「魔法だけじゃないけどな」


少年は「魔法だけじゃない」という言葉の意味を考えるように首を傾げる。

すぐに何かを思いついたらしく、その目が輝いた。


「じゃあ剣も?」

「使う」

「銃も?」

「たぶん」

「すげー!」


少年はすぐさま隣の子の肩を叩き、「剣も使うって!」と自分のことのように報告し始めた。

ユエルはその様子に少しだけ口元を緩め、そのまま玄関へ向かう。

途中、廊下の奥から聞き慣れた声が聞こえてきた。


「動かないで」

「動いてないって!」

「動いてる」

「ちょっとだけじゃん!」


ユエルが足を進めながらそちらを見る。

開いた扉の向こうで、ニーアがアルレアの制服の襟を直していた。

直してもらっている側のアルレアはというと、鏡を覗き込みながら右を向いたり左を向いたりと忙しい。

ニーアの手が止まった。


「だから動かないで」

「だって後ろも気になるんだって!」

「直せない」

「あ、じゃあ先に後ろ見よ!」

「今、襟やってるから」

「えー」


アルレアが不満そうに口を尖らせる。

ニーアは取り合わず、ずれた襟をもう一度整え始めた。

朝から何やらやっている。

ユエルはそのまま玄関へ向かい、靴を履いた。

扉へ手をかけようとしたところで、後ろから小さな足音が近づいてくる。

振り返ると、さっき食堂にいた少年が立っていた。

先ほどまで目を輝かせていた少年は、今度は少し言いづらそうにユエルを見上げている。


「ユエル兄ちゃん」

「ん?」

「今日から、帰ってこないの?」


ユエルは扉にかけた手を下ろした。

学院へ入学すれば、生活の場所は学院の寮へ移る。

ここから通えない距離ではない。それでも毎朝ここで目を覚まし、毎晩ここへ帰ってくる生活は、ひとまず昨日で終わりだった。


「帰ってくる」

「今日?」

「今日は帰ってこない」

「……じゃあ、いつ?」

「休みの日とか」


少年は少しだけ俯いた。


「でも、毎日いないじゃん」

「まあな」


ユエルは少し考えてから、少年の頭に手を置いた。

そのまま髪をくしゃっと撫でる。


「また来る」

「……絶対?」

「ああ」


少年はようやく少しだけ笑った。


「いってらっしゃい」

「行ってきます」


ユエルは軽く手を上げ、扉を開ける。

朝の少し冷たい空気が入り込んできた。

門を抜けたところで、ユエルは一度だけ足を止めた。

見上げた二階の窓は、朝の光を受けて白く光っている。

ユエルは再び歩き出した。

朝の通りには、同じように学院へ向かう制服姿がちらほら見えている。

ユエルもその中に混ざり、学院へ続く道を歩いていった。



「できた」


ニーアがアルレアの襟から手を離した。

待ってましたと言わんばかりに、アルレアはすぐさま鏡へ向き直る。

正面から確認して、右を向く。

今度は左。

最後に一歩下がって全体を眺めると、満足そうに何度か頷いた。


「いいね~」

「最初からほとんど変わってない」

「えー? ほら! 全然違うじゃん!」

「どこが?」


アルレアは待ってましたとばかりに自分の襟元を指差す。


「ここだよ!」

「そこを直した」

「だ~か~ら、違うってば!」

「……そう」


身を乗り出して力説するアルレアを前に、ニーアは一度だけ瞬きをした。

それ以上言い返す気はないらしい。

アルレアはそんなニーアを気にすることもなく、もう一度鏡へ向き直った。

新品の制服。

胸元には、今日から通う学院の紋章がついている。

昨日も何度か袖を通している。それでも、実際にこれを着て学院へ行くとなると、やはり気分が違うらしい。

鏡に映る自分を眺めていたアルレアが、ふとニーアへ振り返った。


「ねえ、ニーア」

「何?」

「似合ってる?」

「さっき言った」

「もう一回!」

「似合ってる」

「ほんと?」

「ほんと」


念を押すように尋ねていたアルレアの表情が、ぱっと明るくなった。


「だよね! ニーアも似合ってるよ!」

「ありがとう」

「でもさ、ニーアももうちょっと髪――」

「いい」

「まだ何も言ってないじゃん!」


ニーアは先回りするように首を横へ振った。


「言わなくても分かる」

「えー、ちょっと可愛くしようよ」

「いい」

「ちょっとだけ!」

「いい」

「前髪だけでもさー」

「アルレア」

「ん?」

「時間」


ニーアが部屋の時計を指差す。

つられてそちらを見たアルレアの動きが、ぴたりと止まった。


「……まだいける!」

「あとで慌てるやつ」

「……それはまずいね」


さっきまで髪型にこだわっていたのが嘘のように、アルレアは急いで鞄を持ち上げる。

その勢いのまま部屋を飛び出そうとしたところで、ニーアに腕を掴まれた。


「ん?」


アルレアが振り返る。

ニーアは何も言わない。

ただ、机の上へ視線を向けた。

アルレアもその視線を追う。

学院から届いた書類が、机の上に綺麗に置かれている。

アルレアの目が書類と鞄を往復した。

数秒の沈黙。

何事もなかったかのように机へ戻り、書類を手に取る。


「危なかった~」

「昨日、玄関に置いておくって言ってた」

「うん」

「置いてない」

「……予定変更!」

「忘れてた?」

「忘れてないよ」


ニーアがじっとアルレアを見る。

アルレアも負けじと見つめ返した。


「ほんとだって!」

「そう」

「その顔絶対信じてないじゃん!」


ニーアは答えず、先に部屋を出ていく。

アルレアは慌てて鞄を肩にかけ、その後を追った。

二人が一階へ下り、食堂の前を通りかかると、先ほどユエルと話していた少年がすぐに気づいた。


「アルレア姉ちゃん! ニーア姉ちゃん!」

「おはよー!」


アルレアが大きく手を振る。

少年は待ちきれない様子で椅子から身を乗り出した。


「ユエル兄ちゃん、学校で剣使うんだって!」

「ユエルいっつも持ってるじゃん」

「学校でも!」

「そりゃ使うんじゃない?」

「アルレア姉ちゃんも剣使う?」

「私は銃!」


アルレアは両手を前へ突き出し、二丁の拳銃を構えるような格好をしてみせる。


「しかも二丁!」

「おおー!」


少年が歓声を上げる。

満更でもなさそうなアルレアの横で、ニーアがぽつりと言った。


「まだ当たらないけど」

「ニーア!」

「本当」

「これから当たるようになるの!」

「頑張って」


あまりにも平坦な声だった。

アルレアがじとっとニーアを見る。


「なんか軽くない!?」


食堂から笑い声が上がった。

アルレアは頬を膨らませながら玄関へ向かう。ニーアは何事もなかったような顔でその隣を歩いていた。

二人が玄関へ着く頃には、何人かの子どもたちが後ろについてきていた。

アルレアが靴を履き終えて振り返ると、いつもなら騒がしい子どもたちが、今日は妙に大人しい。

一番小さな女の子が、アルレアの服の裾をきゅっと掴んだ。

何も言わない。

アルレアはしゃがみ込み、女の子と目線を合わせた。


「休みになったら帰ってくるよ」

「……すぐ?」

「すぐ!」


アルレアが笑うと、女の子も小さく頷いた。

その隣では、別の子がニーアの服を握っていた。

ニーアは何も言わず、その子の頭を静かに撫でる。

すると今度は、後ろにいた少年が口を開いた。


「お土産は?」

「え?」


アルレアが顔を上げる。


「帰ってくる時、お土産!」


アルレアが立ち上がり、腰に手を当てる。


「もちろん! なんかすごいの持って帰ってくるよ!」

「すごいのって何?」

「それは……」


アルレアの勢いが止まる。

ニーアが横を見る。


「何?」

「今考えてる!」

「決めてから言えばいいのに」

「いいの! なんかあるって!」


子どもたちから笑い声が上がる。

アルレアもつられて笑った。

やがて職員の一人が、少し離れたところから声をかける。


「二人とも、そろそろ行かないと遅れるわよ」


アルレアとニーアが同時に時計を見る。

アルレアの顔が固まった。


「……ほんとだ」

「だから言った」

「まだ間に合うから!」


アルレアは慌てて鞄を背負い直す。

ニーアはそんなアルレアを横目に、玄関の扉を開けた。

二人が外へ出ると、子どもたちも庭までついてくる。

門へ向かう二人の背中に、いくつもの声が飛んだ。


「アルレア姉ちゃん!」

「ニーア姉ちゃん!」

「またねー!」

「絶対帰ってきてね!」


アルレアが振り返る。


「帰ってくるってー!」


大きく手を振る。

ニーアも隣で小さく手を上げた。

二人が門を抜けても、子どもたちはまだそこに立っていた。

アルレアは歩きながら何度か振り返り、そのたびに手を振る。

角を曲がる直前、最後にもう一度だけ振り返った。

小さくなった子どもたちの姿が見える。

アルレアはしばらくそちらを見ていたが、やがて前へ向き直った。

隣にはニーアがいる。

大通りへ向かって歩き始めると、アルレアはまた自分の制服へ視線を落とした。

三度目あたりで、ニーアが横目を向ける。


「そんなに気になる?」

「そりゃ気になるよ。今日が初めてなんだから」

「昨日も着てた」

「あれは試着! 今日は本番!」

「同じ制服だけど」

「気持ちが違うの!」

「そう」


ニーアの返事は相変わらず淡々としている。

アルレアは少しだけ歩幅を広げ、隣からその顔を覗き込んだ。


「ニーアももうちょっと楽しみにしようよ」

「楽しみにしてる」

「ほんとに?」

「うん」


アルレアはさらに顔を近づける。

ニーアの表情はいつもとほとんど変わらない。


「全然そう見えない」

「アルレアが楽しみにしすぎ」

「いいじゃん、入学式だよ?」

「そうだね」

「新しい教室に、新しい授業に、新しい人もいっぱいいるし……」


話しているうちに、アルレアの足取りが少しずつ軽くなっていく。

そんなアルレアの話を、ニーアは隣で静かに聞いていた。

しばらく歩くと、建物の間から遠くにいくつもの塔が見えてくる。

その中心に建つ、ひときわ大きな建物。

今日から二人が通うことになる学院だった。

それまで軽かったアルレアの足が、わずかに遅くなる。

ニーアがすぐに気づいた。


「どうしたの?」

「……ニーア」

「何?」

「なんか急に緊張してきた」

「今さら?」

「だって見えたら急に来たんだって!」


アルレアは遠くの学院を見つめる。

街から何度も見たことのある建物だった。

けれど今日だけは、いつもよりずっと大きく見えた。

しばらく眺めていたアルレアが、隣へ視線を向ける。


「ニーアは?」

「何が?」

「緊張してないの?」

「してない」

「ほんと?」

「うん」


即答だった。

アルレアはニーアの横顔をじっと見る。

そこから視線がゆっくりと下へ移った。

ニーアの手。

鞄の持ち手を、いつもより少し強く握っている。

アルレアの口元が、にやりと上がった。


「……ニーア」

「何?」

「その手なに?」


ニーアが自分の手を見る。

そして、ほんの少しだけ力を抜いた。


「普通」

「あっ! 今緩めた!」

「緩めてない」

「緩めたって!」

「気のせい」

「絶対緊張してるじゃん!」

「してない」

「してるって!」


アルレアの声が朝の通りに響く。

ニーアは否定したまま、ほんの少しだけ歩く速度を上げた。


「あ、待ってよ!」

「遅い」


アルレアが小走りで追いつき、再びニーアの隣に並ぶ。

さっきまで感じていた緊張は、いつの間にかどこかへ消えていた。

二人の向かう先には、朝の光を受けた学院の塔が見えている。


「よーし!」


アルレアは鞄の紐を握り直し、笑った。


「行こ、ニーア!」

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