1-1 門出
朝を告げる鐘が、街の空に響いた。
一度、二度、そして三度。
高い鐘楼から放たれた音は、石造りの建物が並ぶ街を越え、朝靄の残る空へと溶けていく。
鐘の音に合わせるように、街がゆっくりと目を覚ましていった。
閉ざされていた店の扉が開き、通りには荷車が並び始める。店先では指先に灯した炎で調理器具を温める者がいれば、積み上げられた荷物を風で浮かせ、一度に店内へ運び込む者もいる。
通りの隅では、箒を持った老人が生み出した水で石畳を洗っていた。
そのすぐ横を、制服姿の子どもたちが当たり前のように通り過ぎていく。
誰一人として、その光景を珍しそうに見る者はいない。
魔法。
遥か昔、一人の青年が見つけた力。
かつては奇跡と呼ばれたそれも、今では暮らしの中に当たり前のように存在していた。
そんな街の一角。
大通りから少し離れた場所に、一軒の大きな建物があった。
ところどころ古さは目立つが、壁や窓は綺麗に手入れされている。庭には何人もの子どもたちがいて、朝から元気な声が響いていた。
その二階。
窓際の机に、一振りの剣が置かれている。
ユエルは鞘から刀身を少しだけ抜き、刃を確認すると、音を立てずに戻した。
そのまま腰へ下げる。
続いて短剣。
小さな工具。
包帯。
いくつかの道具を順番に確認し、身体の決まった位置へ収めていく。
最後に鞄の中身を確認する。
筆記具。
学院から届いた書類。
財布。
入学許可証――がない。
ユエルの手が止まった。
鞄の中をもう一度見る。
ない。
机の上にもない。
椅子、ベッド、昨日着ていた服。
順番に視線を巡らせていき、ふと棚の上で止まった。
一枚の紙が置かれている。
「……あった」
ユエルはそれを手に取ると、特に慌てる様子もなく鞄へ入れた。
これで全部だ。
鞄を閉じ、部屋を見渡す。
使い慣れた机。
毎晩眠っていたベッド。
壁際の棚には、持っていかない物がいくつか残っている。
ユエルはしばらく部屋を見ていたが、やがて扉を開けた。
階段を下りるにつれて、食器の触れ合う音や子どもたちの声が大きくなっていく。
一階は朝から騒がしかった。
食堂では小さな子どもたちが朝食を食べ、その間を職員たちが忙しそうに行き来している。
ユエルが食堂の前を通りかかると、一人の少年が椅子の上から身を乗り出した。
「ユエル兄ちゃん!」
「ん?」
「今日から学校?」
「ああ」
「魔法の?」
「魔法だけじゃないけどな」
少年は「魔法だけじゃない」という言葉の意味を考えるように首を傾げる。
すぐに何かを思いついたらしく、その目が輝いた。
「じゃあ剣も?」
「使う」
「銃も?」
「たぶん」
「すげー!」
少年はすぐさま隣の子の肩を叩き、「剣も使うって!」と自分のことのように報告し始めた。
ユエルはその様子に少しだけ口元を緩め、そのまま玄関へ向かう。
途中、廊下の奥から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「動かないで」
「動いてないって!」
「動いてる」
「ちょっとだけじゃん!」
ユエルが足を進めながらそちらを見る。
開いた扉の向こうで、ニーアがアルレアの制服の襟を直していた。
直してもらっている側のアルレアはというと、鏡を覗き込みながら右を向いたり左を向いたりと忙しい。
ニーアの手が止まった。
「だから動かないで」
「だって後ろも気になるんだって!」
「直せない」
「あ、じゃあ先に後ろ見よ!」
「今、襟やってるから」
「えー」
アルレアが不満そうに口を尖らせる。
ニーアは取り合わず、ずれた襟をもう一度整え始めた。
朝から何やらやっている。
ユエルはそのまま玄関へ向かい、靴を履いた。
扉へ手をかけようとしたところで、後ろから小さな足音が近づいてくる。
振り返ると、さっき食堂にいた少年が立っていた。
先ほどまで目を輝かせていた少年は、今度は少し言いづらそうにユエルを見上げている。
「ユエル兄ちゃん」
「ん?」
「今日から、帰ってこないの?」
ユエルは扉にかけた手を下ろした。
学院へ入学すれば、生活の場所は学院の寮へ移る。
ここから通えない距離ではない。それでも毎朝ここで目を覚まし、毎晩ここへ帰ってくる生活は、ひとまず昨日で終わりだった。
「帰ってくる」
「今日?」
「今日は帰ってこない」
「……じゃあ、いつ?」
「休みの日とか」
少年は少しだけ俯いた。
「でも、毎日いないじゃん」
「まあな」
ユエルは少し考えてから、少年の頭に手を置いた。
そのまま髪をくしゃっと撫でる。
「また来る」
「……絶対?」
「ああ」
少年はようやく少しだけ笑った。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
ユエルは軽く手を上げ、扉を開ける。
朝の少し冷たい空気が入り込んできた。
門を抜けたところで、ユエルは一度だけ足を止めた。
見上げた二階の窓は、朝の光を受けて白く光っている。
ユエルは再び歩き出した。
朝の通りには、同じように学院へ向かう制服姿がちらほら見えている。
ユエルもその中に混ざり、学院へ続く道を歩いていった。
「できた」
ニーアがアルレアの襟から手を離した。
待ってましたと言わんばかりに、アルレアはすぐさま鏡へ向き直る。
正面から確認して、右を向く。
今度は左。
最後に一歩下がって全体を眺めると、満足そうに何度か頷いた。
「いいね~」
「最初からほとんど変わってない」
「えー? ほら! 全然違うじゃん!」
「どこが?」
アルレアは待ってましたとばかりに自分の襟元を指差す。
「ここだよ!」
「そこを直した」
「だ~か~ら、違うってば!」
「……そう」
身を乗り出して力説するアルレアを前に、ニーアは一度だけ瞬きをした。
それ以上言い返す気はないらしい。
アルレアはそんなニーアを気にすることもなく、もう一度鏡へ向き直った。
新品の制服。
胸元には、今日から通う学院の紋章がついている。
昨日も何度か袖を通している。それでも、実際にこれを着て学院へ行くとなると、やはり気分が違うらしい。
鏡に映る自分を眺めていたアルレアが、ふとニーアへ振り返った。
「ねえ、ニーア」
「何?」
「似合ってる?」
「さっき言った」
「もう一回!」
「似合ってる」
「ほんと?」
「ほんと」
念を押すように尋ねていたアルレアの表情が、ぱっと明るくなった。
「だよね! ニーアも似合ってるよ!」
「ありがとう」
「でもさ、ニーアももうちょっと髪――」
「いい」
「まだ何も言ってないじゃん!」
ニーアは先回りするように首を横へ振った。
「言わなくても分かる」
「えー、ちょっと可愛くしようよ」
「いい」
「ちょっとだけ!」
「いい」
「前髪だけでもさー」
「アルレア」
「ん?」
「時間」
ニーアが部屋の時計を指差す。
つられてそちらを見たアルレアの動きが、ぴたりと止まった。
「……まだいける!」
「あとで慌てるやつ」
「……それはまずいね」
さっきまで髪型にこだわっていたのが嘘のように、アルレアは急いで鞄を持ち上げる。
その勢いのまま部屋を飛び出そうとしたところで、ニーアに腕を掴まれた。
「ん?」
アルレアが振り返る。
ニーアは何も言わない。
ただ、机の上へ視線を向けた。
アルレアもその視線を追う。
学院から届いた書類が、机の上に綺麗に置かれている。
アルレアの目が書類と鞄を往復した。
数秒の沈黙。
何事もなかったかのように机へ戻り、書類を手に取る。
「危なかった~」
「昨日、玄関に置いておくって言ってた」
「うん」
「置いてない」
「……予定変更!」
「忘れてた?」
「忘れてないよ」
ニーアがじっとアルレアを見る。
アルレアも負けじと見つめ返した。
「ほんとだって!」
「そう」
「その顔絶対信じてないじゃん!」
ニーアは答えず、先に部屋を出ていく。
アルレアは慌てて鞄を肩にかけ、その後を追った。
二人が一階へ下り、食堂の前を通りかかると、先ほどユエルと話していた少年がすぐに気づいた。
「アルレア姉ちゃん! ニーア姉ちゃん!」
「おはよー!」
アルレアが大きく手を振る。
少年は待ちきれない様子で椅子から身を乗り出した。
「ユエル兄ちゃん、学校で剣使うんだって!」
「ユエルいっつも持ってるじゃん」
「学校でも!」
「そりゃ使うんじゃない?」
「アルレア姉ちゃんも剣使う?」
「私は銃!」
アルレアは両手を前へ突き出し、二丁の拳銃を構えるような格好をしてみせる。
「しかも二丁!」
「おおー!」
少年が歓声を上げる。
満更でもなさそうなアルレアの横で、ニーアがぽつりと言った。
「まだ当たらないけど」
「ニーア!」
「本当」
「これから当たるようになるの!」
「頑張って」
あまりにも平坦な声だった。
アルレアがじとっとニーアを見る。
「なんか軽くない!?」
食堂から笑い声が上がった。
アルレアは頬を膨らませながら玄関へ向かう。ニーアは何事もなかったような顔でその隣を歩いていた。
二人が玄関へ着く頃には、何人かの子どもたちが後ろについてきていた。
アルレアが靴を履き終えて振り返ると、いつもなら騒がしい子どもたちが、今日は妙に大人しい。
一番小さな女の子が、アルレアの服の裾をきゅっと掴んだ。
何も言わない。
アルレアはしゃがみ込み、女の子と目線を合わせた。
「休みになったら帰ってくるよ」
「……すぐ?」
「すぐ!」
アルレアが笑うと、女の子も小さく頷いた。
その隣では、別の子がニーアの服を握っていた。
ニーアは何も言わず、その子の頭を静かに撫でる。
すると今度は、後ろにいた少年が口を開いた。
「お土産は?」
「え?」
アルレアが顔を上げる。
「帰ってくる時、お土産!」
アルレアが立ち上がり、腰に手を当てる。
「もちろん! なんかすごいの持って帰ってくるよ!」
「すごいのって何?」
「それは……」
アルレアの勢いが止まる。
ニーアが横を見る。
「何?」
「今考えてる!」
「決めてから言えばいいのに」
「いいの! なんかあるって!」
子どもたちから笑い声が上がる。
アルレアもつられて笑った。
やがて職員の一人が、少し離れたところから声をかける。
「二人とも、そろそろ行かないと遅れるわよ」
アルレアとニーアが同時に時計を見る。
アルレアの顔が固まった。
「……ほんとだ」
「だから言った」
「まだ間に合うから!」
アルレアは慌てて鞄を背負い直す。
ニーアはそんなアルレアを横目に、玄関の扉を開けた。
二人が外へ出ると、子どもたちも庭までついてくる。
門へ向かう二人の背中に、いくつもの声が飛んだ。
「アルレア姉ちゃん!」
「ニーア姉ちゃん!」
「またねー!」
「絶対帰ってきてね!」
アルレアが振り返る。
「帰ってくるってー!」
大きく手を振る。
ニーアも隣で小さく手を上げた。
二人が門を抜けても、子どもたちはまだそこに立っていた。
アルレアは歩きながら何度か振り返り、そのたびに手を振る。
角を曲がる直前、最後にもう一度だけ振り返った。
小さくなった子どもたちの姿が見える。
アルレアはしばらくそちらを見ていたが、やがて前へ向き直った。
隣にはニーアがいる。
大通りへ向かって歩き始めると、アルレアはまた自分の制服へ視線を落とした。
三度目あたりで、ニーアが横目を向ける。
「そんなに気になる?」
「そりゃ気になるよ。今日が初めてなんだから」
「昨日も着てた」
「あれは試着! 今日は本番!」
「同じ制服だけど」
「気持ちが違うの!」
「そう」
ニーアの返事は相変わらず淡々としている。
アルレアは少しだけ歩幅を広げ、隣からその顔を覗き込んだ。
「ニーアももうちょっと楽しみにしようよ」
「楽しみにしてる」
「ほんとに?」
「うん」
アルレアはさらに顔を近づける。
ニーアの表情はいつもとほとんど変わらない。
「全然そう見えない」
「アルレアが楽しみにしすぎ」
「いいじゃん、入学式だよ?」
「そうだね」
「新しい教室に、新しい授業に、新しい人もいっぱいいるし……」
話しているうちに、アルレアの足取りが少しずつ軽くなっていく。
そんなアルレアの話を、ニーアは隣で静かに聞いていた。
しばらく歩くと、建物の間から遠くにいくつもの塔が見えてくる。
その中心に建つ、ひときわ大きな建物。
今日から二人が通うことになる学院だった。
それまで軽かったアルレアの足が、わずかに遅くなる。
ニーアがすぐに気づいた。
「どうしたの?」
「……ニーア」
「何?」
「なんか急に緊張してきた」
「今さら?」
「だって見えたら急に来たんだって!」
アルレアは遠くの学院を見つめる。
街から何度も見たことのある建物だった。
けれど今日だけは、いつもよりずっと大きく見えた。
しばらく眺めていたアルレアが、隣へ視線を向ける。
「ニーアは?」
「何が?」
「緊張してないの?」
「してない」
「ほんと?」
「うん」
即答だった。
アルレアはニーアの横顔をじっと見る。
そこから視線がゆっくりと下へ移った。
ニーアの手。
鞄の持ち手を、いつもより少し強く握っている。
アルレアの口元が、にやりと上がった。
「……ニーア」
「何?」
「その手なに?」
ニーアが自分の手を見る。
そして、ほんの少しだけ力を抜いた。
「普通」
「あっ! 今緩めた!」
「緩めてない」
「緩めたって!」
「気のせい」
「絶対緊張してるじゃん!」
「してない」
「してるって!」
アルレアの声が朝の通りに響く。
ニーアは否定したまま、ほんの少しだけ歩く速度を上げた。
「あ、待ってよ!」
「遅い」
アルレアが小走りで追いつき、再びニーアの隣に並ぶ。
さっきまで感じていた緊張は、いつの間にかどこかへ消えていた。
二人の向かう先には、朝の光を受けた学院の塔が見えている。
「よーし!」
アルレアは鞄の紐を握り直し、笑った。
「行こ、ニーア!」




