第0章 魔法のない世界
かつて、人間は魔法を使えなかった。
炎を起こすには火種が必要だった。水を得るには川や井戸まで足を運び、大きな岩を動かすには何人もの力を合わせなければならない。深い傷を負えば薬草を使い、それでも治らなければ、あとは本人の生命力に任せるしかなかった。
空を飛ぶことも、風を操ることも、何もない場所から炎を生み出すことも、人間にはできなかった。
――人間には。
森の奥で、一人の青年が茂みの中に身を潜めていた。名を、エルディンという。
手には一本の槍を持っている。だが、その切っ先は獲物へ向けられていなかった。エルディンは息を殺し、木々の隙間をじっと見つめている。
その先には、一頭の魔物がいた。狼によく似た姿をしているが、普通の狼よりも一回り大きい。全身を覆う黒い毛に鋭い牙。そして何より奇妙なのは、その口元から白い煙のようなものが漏れていることだった。
(まただ)
エルディンはさらに身を低くする。やがて反対側の茂みが揺れ、別の魔物が姿を現した。二頭は互いを睨みつけ、低い唸り声を上げる。
次の瞬間、狼型の魔物が大きく息を吸った。
そして――炎が噴き出した。
「……!」
エルディンは思わず目を見開いた。炎は地面を走り、草を焼き、一本の木の幹を黒く焦がした。もう一頭の魔物が飛び退き、しばらく争った後、劣勢になった方が森の奥へ逃げていく。狼型の魔物も、それを追って姿を消した。
森に静けさが戻る。それでもエルディンは、しばらく動かなかった。
やがて慎重に茂みから出ると、先ほど炎が当たった木へ近づき、黒く焦げた幹へ恐る恐る手を伸ばした。
「熱っ……」
慌てて手を引っ込める。
本物だった。幻でも、見間違いでもない。火種などどこにもなかった。それなのに、確かに炎が生まれた。
エルディンは、魔物が立っていた場所へ視線を向ける。
「……どうやった?」
もちろん、答える者はいない。
だが、その小さな疑問は、いつまでも彼の頭から離れなかった。
翌日も、エルディンは森へ入った。その翌日も、そのまた翌日も。
炎を吐く魔物。水を操る魔物。風を巻き起こす魔物。土を隆起させる魔物。見つけては観察し、力を使う直前の動きや呼吸、身体の変化を紙へ書き残した。
魔物に見つかり、命からがら逃げ帰った日もあった。一日中歩き回ったのに、何も見つからずに帰った日もある。当然、村の人間たちは、そんなエルディンを変わり者だと思っていた。
「今日も森か?」
「ああ」
「そのうち、本当に食われるぞ」
「気をつける」
「そういう問題じゃないんだがな……」
笑われても、呆れられても、エルディンはやめなかった。
そして少しずつ、一つの共通点に気づき始めた。
魔物が炎を吐く直前。風を起こす直前。水を操る直前。必ず、何かが動いている。
目には見えない。触ることもできない。それでも、確かに何かが存在している。
魔物たちは、何もない場所から奇跡を起こしているわけではない。自分たちの中にある何かを使って、あの現象を引き起こしている。
ならば。
エルディンは、自分の手を見る。
(それは、本当に魔物だけが持っているものなのか?)
そこからは、失敗の連続だった。
手を伸ばしてみる。何も起こらない。魔物の呼吸を真似る。やはり何も起こらない。意識を集中しても、結果は同じだった。
一日。二日。十日。一月。
何度失敗しても、エルディンは続けた。魔物を観察する。自分で試す。違いを考える。そして、また試す。
季節が一つ過ぎた頃、エルディンは森の外れに座っていた。目の前には、小さく積み上げられた枯れ枝。もう何度目なのかも分からない実験だった。
掌を向け、目を閉じ、呼吸を整える。
(魔物の動きを真似するんじゃない)
もっと深く。
自分の身体の中にある、今まで存在すら知らなかった何かへ意識を向ける。そして、それを外へ。
小さな音がした。
エルディンが目を開く。
「……」
一本の枯れ枝。その先端に、小さな炎が灯っていた。
風が吹けば、すぐに消えてしまいそうな炎だった。魔物が放っていたものとは、比べものにならないほど弱い。それでも、確かに燃えている。
エルディンは、しばらく動けなかった。震える手を炎へ近づける。
温かい。
「……できた」
「できた……!」
エルディンは笑った。誰に見せるでもなく、一人で。ただ、小さな炎を見つめながら。
この瞬間、人類は初めて魔法を手にした。
エルディンは、その方法を自分だけのものにはしなかった。村へ戻ると、すぐに人々へ教え始めた。
当然、最初は誰も信じない。
「魔物みたいなことを、人間が?」
「できる」
「お前だからだろ」
「違う。たぶん、みんな持ってる」
「たぶん?」
「まだ全部は分からないから、たぶんだ」
「本当に大丈夫か、お前」
呆れられた。それでも、エルディンは教え続けた。
やがて、一人の男が小さな炎を生み出した。別の者が水を動かし、また別の者が風を起こした。
エルディンの考えは、間違っていなかった。魔法は、人間にも扱える。
ただし、人によって得意なものが違った。炎を簡単に扱える者が水には苦戦し、風を得意とする者が土を動かすには時間がかかる。それでも、学べば複数の魔法を扱うことができた。
魔法は、少しずつ人々の生活へ入り込んでいった。畑へ水を引く。火を起こす。重い岩を運ぶ。土を整える。風で穀物を乾かす。
何日もかかっていた仕事が、一日で終わる。何人もの人間が必要だった作業を、一人でできるようになる。
噂は広がった。魔法を学びたい者、その力を見たい者、新しい暮らしを求める者。多くの人間が、エルディンのいる場所へ集まった。
小さな村は町になり、町はさらに大きくなった。そして、いつしか一つの国と呼べるほどになっていた。
その国は、エルディアと呼ばれるようになった。
「この場所には、まとめる者が必要だ」
ある日、誰かがそう言った。
「俺が?」
エルディンは、本気で嫌そうな顔をした。
「他に誰がいるんだ」
「知らない」
「知らないじゃない」
「俺は魔法を見つけただけだぞ」
「それで国ができたんだよ」
「勝手に大きくなったんだろ」
周囲から笑い声が上がる。
結局、エルディンは断り切れなかった。人々は彼を、王と呼ぶようになった。
そして、いつしか。ただの王ではなく――魔法王。
そう呼ばれるようになった。
初代魔法王、エルディン。
その名は、遥か後の時代まで残ることになる。
国が大きくなるにつれ、エルディンが考えもしなかった魔法を使う者も現れ始めた。
ある日、一人の少年が青い果実へ手をかざしていた。そこへ、エルディンが通りかかる。
「またやってるのか?」
「今日はできます」
「昨日もそう言って、腐らせてただろ」
「今日は大丈夫です」
しばらくすると、青かった果実が少しずつ色づいていった。少年が得意そうに掲げる。
「ほら!」
エルディンは、それを受け取った。
「……今度は食べられそうだな」
「だから言ったじゃないですか」
少し離れた場所では、別の少年が大量の荷物の前に立っていた。一つ、また一つと、荷物が何もない空間へ消えていく。
「おい」
エルディンが声をかけると、少年が振り返った。
「はい?」
「それ、どこにやってるんだ?」
「ここです」
「どこだよ」
「だから、ここですって」
少年が何もない場所へ手を伸ばす。すると、先ほど消えた荷物が、何事もなかったように現れた。
「……便利だな」
「便利ですよ」
少年が、少し得意そうに笑う。
それだけだった。その頃には、そんな奇妙な魔法を持つ者が現れることさえ、エルディアの日常の一部になりつつあった。
街が大きくなり始めた頃、エルディンは街外れを歩いていて、ふと足を止めた。
道端に、夕焼けを溶かしたような、鮮やかな茜色の髪をした女性がしゃがみ込んでいた。ひときわ目を引くその髪に、エルディンは自然と視線を向けた。
何をしているのかと思えば、彼女の前には小さな獣がいた。脚から血を流している。罠にでもかかったのだろう。
エルディンは、ゆっくりと近づいた。
「怪我してるのか?」
女性は振り向かなかった。ただ、獣の脚へそっと手を添える。
淡い光が灯った。
「……」
エルディンが足を止める。
傷が、ゆっくりと塞がっていく。血が止まり、獣が恐る恐る立ち上がった。一歩、二歩。そして、森へ走っていった。
女性は、その姿をじっと見送っていた。
「……今の」
ようやく、女性がこちらを見る。
「魔法か?」
「たぶん」
「たぶん?」
女性は少し考えた。
「この子が、痛そうだったから」
「……それで?」
「治ってほしいなって思った」
「それだけ?」
「うん」
女性は立ち上がった。
「待ってくれ」
足を止める。
「名前は?」
少しだけ首を傾げた。
「アリア」
それだけ答えると、歩いていった。
エルディンは追わなかった。ただ、先ほどまで獣がいた場所を見つめる。
炎は物を焼く。風は物を動かす。土は形を変える。水は流れを変える。
だが、今の魔法は違った。
傷ついたものを、元へ戻す。
これまで多くの人間に魔法を教えてきたエルディンでさえ、そんな力を使う者を見たことはなかった。
「……美しい魔法だ」
気づけば、そう呟いていた。
魔法を見て、そんなことを思ったのは初めてだった。
それから、時折アリアを見かけた。
街の外れ。森の近く。怪我をした動物のそば。あるいは、傷ついた誰かの隣。
同じ魔法を使える人間は、他には現れなかった。
話すことは、ほとんどない。こちらに気づいているのか、いないのか。アリアはいつも、何事もなかったようにどこかへ行ってしまう。
それでも、傷ついた誰かのそばに茜色の髪を見つけると、エルディンはなぜか足を止めた。
アリアと出会ってから、しばらく経った頃。
一人の少年が、エルディンのもとを訪れた。いつもの、果実を持ってくる時の顔ではなかった。
「話があります」
「珍しいな」
二人だけで、長い時間、話をした。
少年が何を語ったのか、他の誰も知らない。
話が終わると、少年は立ち上がった。
「本当に行くのか?」
エルディンが尋ねる。少年は、少し黙った。
「はい」
「そうか」
エルディンは止めなかった。
少年は扉へ向かい、最後に一度だけ振り返る。
「エルディンさん」
「ん?」
「魔法だけが……」
少し言葉を探す。
「人間の可能性じゃないと思います」
エルディンは、しばらく少年を見ていた。そして、少しだけ笑う。
「行ってこい」
少年も笑った。
それを最後に、彼の姿を見た者はいなかった。
時が流れた。
魔法は、さらに人々の生活へ馴染んでいった。街は大きくなり、人が増え、魔法の使い方も増え続けた。
エルディンが初めて生み出した、あの小さな炎。それはもう、誰も驚かないほど当たり前のものになっていた。
そんなある日、国外から知らせが届いた。
大地震。
山が崩れ、街が潰れ、道が割れた。数え切れないほどの人間が、瓦礫の下に取り残されているという。
報告を聞き終えるより先に、エルディンは立ち上がった。
「行く」
周囲の者が顔を上げる。
「ですが、国外です」
「分かってる」
「魔法を見せることになります」
「それも分かってる」
エルディンは迷わなかった。
「人が死んでる」
それだけだった。
救助へ向かう魔法使いたちが集められた。その中に、茜色の髪が見えた。
エルディンは一瞬、そちらを見る。アリアも、こちらを見ていた。
「……行くのか?」
「怪我してる人、いるんでしょ」
「たぶん、山ほど」
「じゃあ行く」
それ以上、何も言わなかった。
国境を越えた先にあったのは、想像していた以上の惨状だった。
家屋は潰れ、道は裂け、至るところで火が上がっている。悲鳴、泣き声、助けを求める声があちこちから聞こえた。
エルディンは立ち止まらなかった。
「こっちを支えろ!」
土が隆起し、崩れかけた建物を支える。
「火を消せ!」
大量の水が、燃え盛る炎を飲み込んだ。
何人もの男が動かそうとしていた巨大な瓦礫へ、エルディンが手を向ける。岩が、ゆっくりと浮いた。
「今だ!」
人々が中へ飛び込む。瓦礫の下から、小さな子供が救い出された。
「お母さん!」
母親が、泣きながら抱き締める。
「ありがとうございます……!」
何度も、何度も頭を下げる。
エルディンは、もう次へ向かっていた。一人でも多く、救うために。
少し離れた場所で、アリアは地面に膝をついていた。
目の前には、血まみれの男がいる。呼吸は浅く、腹には大きな傷があった。周囲の者たちは、もう助からないと思っていた。
アリアが傷へ手を添える。
淡い光が灯った。
傷口が、ゆっくりと塞がっていく。止まらなかった血が止まり、弱々しかった呼吸が戻っていく。男が、かすかに目を開いた。
それを確認すると、アリアはすぐに立ち上がった。礼を待たない。次の負傷者へ向かう。
骨が折れた者。火傷を負った者。瓦礫に身体を裂かれた者。泣き叫ぶ子供。動かなくなりかけた老人。
一人、また一人。
アリアの手が、淡い光を灯していく。
いつからか、その周囲には多くの人が集まっていた。助けを求める者。祈るように見つめる者。ただ呆然と、彼女を見ている者。
「……女神様」
誰かが、小さく呟いた。
アリアの手が止まる。顔を上げた。
「……?」
だが、誰が言ったのか分からない。
アリアは少しだけ首を傾げると、すぐに目の前の負傷者へ視線を戻した。
再び、淡い光が灯った。
救助は、何日も続いた。多くの命が救われた。
本来なら、それで終わるはずだった。
ある夜、エルディンは視線に気づいた。
現地の人々が、自分たちを見ている。
最初は、感謝だと思った。
違った。
「あれが……魔法……?」
「あんな岩を、一人で……」
「もし、俺たちに使ったら……」
「あの国には、あんな人間が何人いるんだ……?」
一人の子供と目が合った。その子は、母親の後ろへ隠れた。母親もまた、子供を庇うように抱き寄せる。
少し前まで、泣きながら、ありがとうと言っていた人間だった。
救ってくれて、ありがとう。
そう言っていた。
エルディンは、何も言えなかった。
人を救えるほどの力は、同じだけ、人を傷つけることもできる。
そのことを、彼らは知ってしまった。
エルディアへ戻ってから、数週間が経った。
最初に届いたのは、一通の書状だった。続いて二通、三通。そして気づけば、十を超えていた。
周辺諸国から送られてきたものだった。
内容は、どれも似ている。
魔法に関する詳細を明かせ。
魔法の使用方法を、自国にも教えろ。
一国だけが、これほどの力を独占することは許されない。
エルディンは、机の上に並べられた書状を黙って見つめていた。
側近が、重い口を開く。
「……国外での救助が原因でしょう」
「ああ」
「見せてしまった。魔法が、どれほどのことをできるのかを」
エルディンは返事をしなかった。
救助へ行ったことを、後悔しているわけではない。あの時、行かなければ、もっと多くの人間が死んでいた。
それでも、あの日、自分たちが見せたものは、世界の見方を変えてしまった。
それから、さらに数日後。一人の兵士が、慌ただしく部屋へ飛び込んできた。
「エルディン様!」
その顔を見ただけで、良い知らせではないことは分かった。
「どうした」
兵士は、一枚の文書を差し出した。
「周辺十三か国が、同盟を結びました」
「……同盟?」
「はい」
エルディンが文書を開く。そこには、各国の王や長の名が並んでいた。
そして最後に、要求が記されている。
エルディアは、魔法に関する全ての知識を各国へ公開すること。それを拒むなら、自ら魔法を捨てること。
どちらも拒否するのであれば、エルディアを世界に対する脅威と見なし、その国が滅びるまで戦争を続ける。
エルディンは、しばらく文書を見つめていた。
「……宣戦布告か」
側近が呟く。
エルディンは、静かに文書を机へ置いた。
「そうらしいな」
連合国の軍勢は、ほどなくしてエルディアの国境へ集結した。その数は、エルディアを遥かに上回る。
だが、エルディアにも戦える者は大勢いる。何より、この国で暮らす者の多くが魔法を扱える。
本気で戦えば、勝てない相手ではなかった。むしろ、その気になれば戦局そのものを一瞬で変えられる。
だからこそ、エルディンは全軍へ命令した。
「攻撃は禁止する」
兵士たちが、耳を疑ったように彼を見る。
「どんなことがあっても、こっちから攻撃するな」
「しかし――」
「防御だけだ」
エルディンは、はっきりと言った。
「壁を作れ。矢を止めろ。火が飛んでくれば消せ。怪我人が出たら後ろへ運べ」
そして、少しだけ声を落とす。
「今は、耐えてくれ」
誰もが納得したわけではなかった。それでも、エルディンの命令だった。
最初の攻撃が始まった。
大量の矢が、空を覆った。魔法使いたちが手を掲げる。風が巻き起こり、矢の軌道を逸らす。
続いて、投石器から巨大な岩が飛んできた。地面から土の壁が立ち上がる。
轟音。
岩が砕けた。
それでも、エルディアからは一つの攻撃魔法も飛ばなかった。
二日。三日。一週間。
連合軍は攻撃を続けた。
エルディアは、ただ防いだ。
「反撃させてください!」
兵士たちは、何度も訴えた。
「このままなら、押し返せます!」
「駄目だ」
「なぜです!」
エルディンは、国境の向こうを見る。
「こっちから撃てば、向こうが恐れているものを、俺たち自身が証明することになる」
「だからって……!」
「向こうは、俺たちが怖いんだ」
兵士は、悔しそうに歯を食いしばった。
「今は、耐えろ」
何度も、何度も。同じ言葉を繰り返した。
だが、いつまでも耐え続けられるはずもなかった。
ある日のこと。一本の矢が、防御の隙間を抜けた。それは城壁の近くで物資を運んでいた、一人の男の肩へ突き刺さった。
「――っ!」
悲鳴が上がる。
幸い、命に関わる傷ではなかった。すぐに矢は抜かれ、薬草と布で手当てされた。
だが、その出来事は、耐え続けていた人々の中に積もっていたものを一気に溢れさせた。
その夜、エルディンのもとへ数十人の男たちがやって来た。兵士だけではない。街の人間もいた。
皆、怒っていた。
「もう、限界です」
先頭に立つ男が言った。
「俺たちは、何もしていない!」
エルディンは黙って聞く。
「助けに行っただけだ! それなのに、なんで俺たちが攻撃されなきゃならない!」
男は、拳を強く握り締めた。
「今日、ついに怪我人まで出た」
「……ああ」
「俺たちなら、終わらせられる」
部屋の空気が張りつめる。
「命令してください」
男は、まっすぐエルディンを見る。
「戦わせてください」
誰も声を出さない。
「魔法を使えば、あんな軍勢……!」
エルディンは、しばらく何も答えなかった。やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
男たちの表情が変わった。
ようやく許可が出た。そう思ったのだろう。
だが、エルディンは続けた。
「連合国へ伝えてくれ」
「……え?」
「各国の王と、国を代表する者を全員集めろ」
男が戸惑う。
「エルディン様?」
「俺が直接、話をする」
連合国側も、その提案を受け入れた。
両軍は一時休戦となり、エルディアと連合国、そのどちらにも属さない場所に各国の代表が集められた。
長い机。その一方にはエルディン。反対側には、十数人の王や長たち。
誰一人、笑っていない。
最初に口を開いたのは、連合側の一人だった。
「要求は、既に伝えている」
「ああ」
「魔法を我々にも教えろ。それが嫌なら、魔法そのものを捨てろ」
エルディンは、その男を見る。
「そうだな」
「どちらも拒むなら、我々は戦争を続ける」
「分かってる」
エルディンは、集まった者たちを順番に見た。
「一つ聞きたい。そこまで、魔法が怖いか?」
一人の王が、少し間を置いて口を開いた。
「逆に聞こう。なぜ、怖くないと思う?」
静かな声だった。
「我々は見た。人間一人では到底動かせない岩が宙に浮き、燃え盛る炎が一瞬で消え、大地そのものが人の意思で形を変えるところをな」
別の王が続ける。
「死にかけた者の傷まで、目の前で塞がった」
「今のお前たちが、我々を支配するつもりがないことは分かった。だが、百年後はどうだ?」
その言葉に、エルディンは何も返さなかった。
「お前の次の王は? その次は? そいつらも同じ考えだと、お前に言い切れるのか?」
(……言えない)
それは、エルディン自身が何度も考えてきたことだった。
「もし、いつか魔法を使って他国を支配しようとする王が現れたら、我々には止める術がない」
「何の抵抗もできないまま、全てを奪われる」
「そんな力を持った国が隣にある。その状態で、恐れるなと言われても無理だ」
エルディンは、反論しなかった。できなかったのではない。彼らが語る未来を、自分自身も想像していたからだ。
魔法を欲しがっている者もいるだろう。この状況を、自国の利益のために利用しようとしている王だっているかもしれない。
それでも、彼らの言葉の奥にあるものだけは嘘ではなかった。
恐怖。
災害現場で見た、あの母親と子供の目。
エルディンは、机の上に置いた自分の手を見る。
「俺たちの考えは変わらない」
一人の王が言った。
「魔法を世界へ渡すか、魔法そのものを捨てるか。どちらも拒むなら、この戦争は終わらない」
長い沈黙が流れた。
エルディンは、一人一人の顔を見る。
怒り。警戒。嫌悪。そして、恐怖。
(話せば、分かってもらえると思ってたんだけどな)
自分たちに支配する意思がないこと。魔法は、誰かを傷つけるためだけの力ではないこと。それを伝えれば、何かは変わると思っていた。
エルディンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
各国の王たちが、エルディンを見る。
「魔法を……この世界から無くす」
部屋の空気が止まった。
「……本気か?」
「ああ」
「そんなことが、できるのか?」
「できる」
エルディンは、はっきりと答えた。
「人間から、魔法を消す」
ざわめきが起こる。
エルディンは構わず続けた。
「それと、魔法に関する書物、研究記録、術式。俺たちが残してきたものも、全部処分する」
一人の王が眉を寄せる。
「全て?」
「全部だ」
「エルディアだけでは足りない。国外へ流れた記録もある」
「ああ。だから、そっちはお前たちが集めてくれ」
エルディンは、各国の王たちを見る。
「残ってる記録は、一つ残らず処分する」
「……分かった」
一人の王が答える。別の者も、やがて頷いた。
「各国で確認させる」
「ああ」
エルディンは立ち上がった。
「じゃあ、これで終わりだ」
誰も、何も言わない。
「戦争を終わらせる」
エルディアへ戻ったエルディンを待っていたのは、大勢の国民だった。
兵士。研究者。農民。商人。老人。魔法を覚えたばかりの子供。皆、何が決まったのかを知りたがっている。
少し離れた場所には、茜色の髪も見えた。アリアだった。
エルディンは、集まった人々の前へ立つ。
しばらく、言葉が出なかった。これから自分が言うことが、この国にとって何を意味するのか。誰よりも分かっていた。
それでも、言わなければならない。
「話がある」
人々が静まる。
「連合国との戦争は、終わらせる」
安堵する声が上がる。
だが、エルディンの表情を見て、その声はすぐに消えた。
「その代わり」
一度、息を吸う。
「魔法を、この世界から消すことにした」
広場から、音が消えた。
誰も、すぐには理解できなかった。
やがて。
「……なんで?」
誰かが呟いた。
別の場所から、怒鳴り声が上がる。
「俺たちは何も悪くない!」
「攻撃してきたのは向こうだろ!」
「そうだ」
エルディンは、否定しなかった。
「俺たちは何も悪いことをしてない。国外へ行ったのだって、人を助けるためだった」
エルディンは、自分の手を見る。
「魔法で、たくさんの人を救った」
瓦礫の下から救い出した子供。泣きながら頭を下げた母親。淡い光の中で、何人もの命を救い続けていたアリア。
「俺は、魔法を見つけたことを後悔してない」
顔を上げる。
「今でも、魔法は素晴らしいものだと思ってる」
それでも、国外で見た恐怖の目。国境へ押し寄せた軍勢。各国の王たちが口にした言葉。
「でも、今日、あいつらと直接話して分かった」
エルディンは、人々を見る。
「俺たちが何もしなくても、魔法がここにあるだけで怖いんだ」
ざわめき。
「そんなの勝手だ!」
「そうだな」
エルディンは答えた。
「勝手だと思う」
意外な答えに、声を上げた男が黙る。
「でも、怖いものは怖い」
エルディンは続ける。
「俺たちが『絶対に攻撃しない』って言っても、俺の次の王まで約束できるわけじゃない。百年後の人間が何を考えてるかなんて、俺にも分からない」
広場が静かになる。
「魔法を全部の国に教えればいい、って思うかもしれない」
少し間を置く。
「でも、そうしたら今度は国同士が、より強い魔法を作り始める」
誰も反論しなかった。
「もっと強い炎を。もっと大きな力を。他の国に負けない魔法を」
エルディンは、ゆっくりと首を振る。
「人を救うためにも使える力が、人を殺すために磨かれていく」
静かな広場に、その言葉が落ちた。
「俺は、そんなために魔法を見つけたんじゃない」
風が吹いた。人々の服と髪を揺らす。
「魔法は、奇跡だ」
エルディンの声が、静かな広場に響いた。
「俺は、今でもそう思ってる」
あの日、初めて小さな炎が生まれた時。あれほど嬉しかったことを、エルディンは忘れていない。
「でも」
国外で見た、怯えた子供の目。
「同時に、呪いにもなる」
誰も、何も言わなかった。
「だから、一度、人間は魔法を手放した方がいい」
当然、すぐに納得できる話ではなかった。
「嫌だ!」
「魔法がなくなったら、どうやって生活する!」
「この国はどうなる!」
「何で俺たちが!」
エルディンは、全て聞いた。止めなかった。
怒る者。泣く者。納得できない者。
当たり前だった。魔法は、もう彼らの生活そのものなのだから。
やがて、一人の老人が立ち上がった。
「……私は、反対です」
「うん」
エルディンが頷く。
「魔法がなくなれば、不便になる」
「ああ」
「できなくなることも、たくさんある」
「そうだな」
「それでも、消すのか?」
「ああ」
老人は、しばらくエルディンを見ていた。
そして、ふっと笑った。
「昔も、そうだったな」
「……何が?」
「お前が初めて魔法の話をした時だ。魔物を毎日眺めて、人間にも同じことができるなんて言い出した」
広場の一部から、小さな笑い声が上がる。
「私は言った。馬鹿なことはやめろ、と」
「言われたな」
「それでも、お前は魔法を見つけた」
老人は、ゆっくりと息を吐いた。
「そして、自分だけのものにしなかった。皆に教えた」
エルディンは黙って聞く。
「お前が、誰より魔法を好きなのは知っている」
「……」
「そのお前が、消すと言うなら」
老人は、静かに座った。
「最後まで、信じるしかないな」
広場に、長い沈黙が流れた。
やがて、一人、また一人と頷く者が現れ始める。
全員が納得したわけではない。最後まで反対する者もいた。不安な者も、悔しい者も、たくさんいた。
それでも、最後には多くの人々がエルディンの決断を受け入れた。
魔法王だからではない。
エルディンだったから。
誰よりも魔法を愛している男だと、皆が知っていたから。
魔法に関する書物が集められた。研究記録、術式、実験の記録。
エルディン自身が、最初に魔物を観察して書き残した紙もあった。
火にくべる前、最後の一枚を持つ手が、ほんの少しだけ止まる。
それらは全て、処分された。
国外へ渡っていた記録も、連合国の手によって集められ、同じように消されていった。
そして、その日が来た。
エルディアの中心。大勢の人々が、エルディンを見守っている。
エルディンは、空を見上げた。
「……ありがとう」
小さく呟く。誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
そして、両手を広げる。
最後の魔法。
足元に、淡い光が灯った。最初は本当に小さな光だったが、やがて地面を走り始め、街を抜け、家々の下を通り、城壁を越えていく。人々が空を見上げた。
光はさらに広がった。山を越え、森を越え、川を越える。そして海へ。さらに、その向こうへ。
どこまでも。
どこまでも。
世界を覆っていく。
エルディアだけではない。遠く離れた国でも、エルディンという男を知らない土地でも、人々が空を見上げていた。
夜の訪れかけた世界が、柔らかな白い光に包まれていく。
誰も声を上げなかった。ただ、その光を見ていた。
エルディンは、静かに目を閉じる。
――ここまでは、皆に話した。
人間から、魔法を消す。
だが、その最後の魔法の中に、一つだけ、誰にも話していないものを重ねていた。
魔法を完全に消すことだけは、どうしてもできなかった。
だから、残す。
人間の中へ。
目には見えないほど深い場所。親から子へ、子からそのまた子へ。命とともに受け継がれていくもの。
人間の遺伝子そのものへ、魔法の因子を刻み込む。
今を生きる人間から、魔法は消える。次の世代からも、その次の世代からも、何も起こらないかもしれない。
それでも、世代を重ね、受け継がれたものが、いつか誰かの中で発現した時。
魔法は再び、人の手へ戻る。
そして、その時には、その身体へ一つの印が現れるようにした。
自分の中に特別な力があることを、本人が知るための印。
それが未来で何と呼ばれるのか、エルディンには知る由もない。
このことは、誰にも話していない。国民にも、仲間にも、各国の王にも。
これは、魔法王として決めたことではなかった。
エルディンという一人の人間が、独断で未来へ残すものだった。
(正しいのかは、分からない)
未来の人間に、恨まれるかもしれない。魔法なんて、二度と残すべきではなかったと、そう言われるかもしれない。
それでも、完全に消すことだけはできなかった。
魔法によって救われた命を知っているから。魔法によって笑った人間を知っているから。そして、初めて自分の手から小さな炎が生まれた日の感動を、忘れることができなかったから。
「……いつか」
誰にも聞こえない声で、エルディンは呟く。
「もう一度」
その瞬間、光が世界を覆った。
眩しさに、誰もが目を閉じる。身体の中から何かが消えていく。同時に、誰にも見えないほど深い場所へ、何かが静かに刻まれていく。
そして、光が消えた時。
世界から、魔法も消えていた。
夕暮れ。
エルディンは一人、街を見下ろせる丘に座っていた。夕陽が、遠くの建物を赤く染めている。
いつもと同じ景色だった。なのに、どこか静かに感じた。
エルディンは自分の手を見る。掌を空へ向け、意識を集中する。
「……」
何も起こらない。炎は灯らない。風も吹かない。
分かっていた。自分で、そうしたのだから。
エルディンは手を下ろした。
(正しかったのか)
何度考えても、答えは出なかった。
ただ、選んだ。それだけだった。
「……ん?」
少し離れた場所に、人影が見えた。
夕陽の中でも、ひときわ目を引く茜色の髪。
アリアだった。
地面にしゃがみ込んでいる。
何をしているのか気になり、エルディンは立ち上がった。近づいてみると、彼女の前には小さな獣がいた。脚を怪我しているらしい。
アリアは、その傷口に手を添えていた。
だが、光は出ない。傷も塞がらない。
当然だった。もう、彼女にも魔法はない。
エルディンは、少しだけ足を止めた。
初めてアリアを見た日のことを思い出す。
夕焼けを溶かしたような、鮮やかな茜色の髪。傷ついた小さな獣。その身体に触れた手。淡い光。そして、消えていった傷。
――美しい魔法だ。
あの時、確かにそう思った。
だが、今のアリアの手には何もない。
アリアは近くに生えていた草を摘むと、何枚か選び、指ですり潰していった。それを傷口へ当てる。
獣が少し暴れた。
「痛い?」
小さく聞く。
もちろん、獣が答えるはずもない。
「……そっか」
何が分かったのか。アリアは、一人で納得した。
細い布を取り出し、傷口へ巻いていく。慣れているのか、そうでないのか、よく分からない手つきだった。
それでも、獣は逃げなかった。
手当てが終わると、アリアはその頭を一度だけ撫でた。
「これで、たぶん大丈夫」
獣は、しばらくその場にいた。やがて、ゆっくりと立ち上がる。
少しだけ脚を引きずりながら、森へ帰っていった。
アリアは、その背中を見送った。
エルディンは、何も言わずにその光景を見ていた。
魔法はなかった。淡い光も、一瞬で傷を消す奇跡もない。
それでも、アリアはあの日と同じことをしていた。
エルディンは、ほんの少しだけ笑った。
「……美しいな」
アリアが振り返る。
何を言っているのか分からない。そんな顔で、少しだけ首を傾げた。
「……?」
エルディンは首を振る。
「なんでもない」
アリアは、しばらくエルディンを見つめた。
「魔法のこと?」
「……そうだな」
アリアは、自分の手を見る。
もう、あの淡い光は出ない。
しばらく何も言わなかった。
やがて、まるで誰かに話しかけるように、小さく呟いた。
「……ありがとう」
エルディンが、彼女を見る。
「誰に言った?」
「魔法」
あまりにも当然のように、アリアは答えた。
「いっぱい治してくれたから」
「……魔法が?」
「うん」
アリアは、手のひらを眺める。
「この子も」
森を見る。
「人も」
少し考えて。
「たくさん」
それだけだった。
まるで、ずっとそばにいた何かへ、別れを告げるように。
「だから、ありがとう」
エルディンは、何も言えなかった。
アリアはもう一度、自分の手を見る。そこに、淡い光はない。
少しの間だけ見つめて、ゆっくりと手を下ろした。そして、先ほど獣が消えていった森へ目を向ける。
「……元気になるといいね」
小さく呟いた。
それだけだった。
魔法がなくなったことを、嘆くでもなく、惜しむでもなく。
アリアは立ち上がると、服についた土を軽く払い、いつもと変わらない足取りで歩いていった。
エルディンは、その後ろ姿を見つめていた。
初めて彼女を見た日、傷ついた獣に触れた手には、確かに魔法があった。
今はもう、何もない。
それでも、なぜだろう。
あの日と、何も変わっていないように見えた。
エルディンは、小さく息を吐いた。夕陽に染まる街を、しばらく眺める。
遠い未来。自分の名が、歴史の中にしか残らなくなった頃。
今日、人の中へ刻んだものが、再び誰かの身体へ現れる。
エルディンは、ゆっくりと立ち上がった。
遠ざかるアリアの茜色の髪が、夕陽の中で揺れていた。
――魔法は、奇跡だ。
そして。
呪いにもなる。
その答えを、自分が見ることはない。
夕陽が沈んでいく。
人間が初めて魔法を手にした時代は、こうして静かに幕を閉じた。




