3-4 書架
放課後の図書館は、今日も静かだった。
窓から差し込む午後の日差しが、整然と並んだ書架を照らしている。クロードは読み終えた本を棚に戻すと、次の一冊を探して奥へと歩き始めた。
あの日以来、何度か図書館には足を運んでいたが、以前出会った少女の姿を見かけることはなかった。
今日も特に変わったことはないだろう。そう思いながら書架の角を曲がったとき、見覚えのある横顔が目に入った。
少女は背伸びをして、棚の上段にある本へ手を伸ばしていた。しかし、指先はあと少しのところで届かない。
「もう少しなのですが」
小さく呟いた声に、クロードは思わず笑みを浮かべた。
「何してるの?」
少女が振り返る。
一瞬驚いた顔をした後、その表情がぱっと明るくなった。
「クロード! お久しぶりです」
「久しぶりだね、レティア。また誰かから隠れているの?」
「いいえ。今日は堂々と来ています」
「それはよかった」
「本当は、あまりよくないんですけどね」
レティアは少し不満そうに頬を膨らませた。
「この間のこと、父に知られてしまったんです」
「ああ、やっぱり」
「やっぱり、とは何ですか?」
「ずいぶん探されていたみたいだったからね」
「帰ったら大変でした。どこへ行っていたのか、どうして黙って出かけたのか、それはもう何度も聞かれて」
「心配されていたんだろうね」
「それは分かっています。でも、私はただ本を読みに来ただけなのに」
クロードは肩をすくめた。
「それで、今日は許してもらえたんだね」
「ええ。ただし、決められた時間までに帰ることと、必ず付き添いを連れていくこと。それが条件です」
「なるほど。今日は一緒じゃないんだね」
「入口の近くで待ってもらっています。ずっと後ろに立たれていたら、落ち着いて本も読めませんから」
「それもそうだね」
「それに、ちゃんと許可をいただけたんです。私の勝ちですよね?」
「ずいぶん条件の多い勝利だね」
「負けるよりはいいんです」
レティアは得意げに微笑んだ。
その様子に、クロードも小さく笑う。
「ところで、さっきは何をしていたの?」
「ああ、そうでした」
レティアは思い出したように書架を見上げた。
「そこの本を取っていただけませんか?」
「これ?」
「もう少し右です。そう、その青い表紙の本です」
クロードは示された本を見つけると、棚から引き抜いた。
「自分では取れないの?」
「脚立は使ってはいけないと言われているんです」
「そうなんだ」
「ええ。高いところには登るな、重いものは持つな、無理はするな。何かをしようとするたびに、誰かに止められてしまいます」
レティアは指を折りながら数え、最後に小さくため息をついた。
「ですから、背の高い人に頼るしかありません」
「僕だって、それほど背が高いわけじゃないよ」
「でも、私よりは高いでしょう?」
当然のように返され、クロードは言葉に詰まった。
「それは、まあ」
「では、お願いします」
レティアが差し出した両手に、クロードは本を載せた。
「ありがとうございます」
嬉しそうに表紙を眺めるレティアを見て、クロードもその題名に目を向けた。
遠い土地を旅した人物の記録をまとめた本らしい。
「旅行記が好きなんだね」
「はい。行ったことのない場所の話を読むのが好きなんです」
「なるほど。だからこの本を?」
「ええ。でも、少し古い本なので、読みにくいかもしれませんね」
「それなら、こっちもおすすめだよ」
クロードは隣の書架から別の一冊を取り出した。
「同じような旅行記だけど、こっちの方が読みやすいと思う」
「クロードは読んだことがあるんですか?」
「一度だけね。旅先で出会った人たちの話が面白かったんだ」
「それなら、こちらも気になりますね」
レティアは二冊の表紙を交互に見つめた。
「どうしよう。どちらから読めばいいでしょうか」
「好きな方から読めばいいんじゃないかな」
「それが決められないから聞いているんです」
真剣な顔で言われ、クロードは笑いをこらえた。
「じゃあ、僕がすすめた方からにしようか」
「分かりました。面白くなかったら、クロードのせいですね」
「それは責任重大だね」
二人は窓際の空いている席へ向かった。
向かい合って腰を下ろすと、それぞれ本を開く。
しばらくの間、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
やがて、レティアがふと顔を上げた。
「クロード」
「何かあった?」
「ここに出てくる人たちは、魔法をほとんど使わないんですね」
「そうみたいだね」
「魔法がなくても、こんなに色々なことができるなんて」
レティアは開いたページを指さした。
そこには、魔法を使わずに生活する人々の暮らしが描かれていた。
「道具を作ったり、みんなで力を合わせたり。大変そうですけど、少し楽しそうですね」
「そうだね。工夫するのが好きな人たちなんだろうね」
「クロードも、こういうものを使うんですか?」
「似たようなものならね。僕は魔法が使えないから、道具に頼ることも多いんだ」
「そうだったんですね」
レティアは少し考えるように、本の挿絵を眺めた。
「魔法が使えないと、不便ではありませんか?」
「生まれた時からないものを、不便とは思わないよ」
レティアは少し驚いたようにクロードを見つめた。
「少し、羨ましいです」
「僕が?」
「はい」
レティアは手元の本へ視線を落とした。
「私、魔法はあまり好きではありませんから」
クロードは何も言わず、彼女の次の言葉を待った。
しかし、レティアはすぐに顔を上げると、いたずらっぽく笑った。
「内緒ですよ。王宮でそんなことを言ったら怒られます」
「分かった。誰にも言わないよ」
「本当ですか?」
「もちろん」
「では、秘密ですね」
レティアは小さく頷き、再び本へ目を落とした。
クロードもそれ以上は聞かず、自分の本を開く。
時折、レティアが気になった箇所を尋ね、クロードが答える。話が終わればまたそれぞれの読書に戻る。
そんな時間が、しばらく続いた。
やがて、窓から差し込む日差しが少しずつ傾き始めた。
レティアが顔を上げ、窓の外を見る。
「そろそろ戻らないといけませんね」
「もうそんな時間か」
「ええ。父との約束がありますから」
「今日はちゃんと守るんだね」
「私だって、約束くらい守れます」
レティアは軽く肩をすくめた。
「兄にも笑われたんです。今度はちゃんと帰ってこいって」
クロードの指が、めくりかけたページの上で一瞬止まった。
「ひどいと思いませんか?」
「前に勝手に出かけたことがあるなら、仕方ないんじゃないかな」
「クロードまでそんなことを言うんですね」
レティアは不満げに口を尖らせた。
クロードが小さく笑うと、彼女もつられたように笑った。
「でも、今日は楽しかったです」
「それならよかった」
「クロードのおかげですね」
「僕は本を一冊すすめただけだよ」
「それがよかったんです」
レティアはそう言って、手元の本を大切そうに閉じた。
ちょうどそのとき、書架の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「レティア様、お時間です」
入口で待っていた付き添いが、迎えに来たらしい。
「今行きます」
レティアは返事をすると、クロードに向き直った。
「この本、借りて帰りますね」
「気に入ったんだね」
「はい。まだ最後まで読めていませんし、それに」
レティアは表紙を見つめ、少しだけ笑った。
「クロードがすすめてくれた本ですから」
クロードは軽く頷いた。
「うん。楽しんでくれると嬉しいな」
「ええ。ありがとうございました」
レティアは本を抱えて立ち上がった。
「それでは、また」
「うん。またね」
レティアは小さく手を振ると、付き添いとともに貸出カウンターへ向かっていった。
クロードはその後ろ姿を見送ると、机に残された青い表紙の本を手に取った。
元の高い棚へ戻し、隣の書架へと目を向ける。
先ほどレティアにすすめた本があった場所には、一冊分の隙間が残っていた。
クロードはその隙間を、少しの間眺めていた。




