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侯爵家を支えていたのは誰か、社交界はとうに気づいていた  作者: 秋月 もみじ


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10/10

第10話 見ていた人が、隣にいる


エドワード様の私的な書斎に招かれたのは、私が宰相府に通い始めて、半年が過ぎた頃だった。


その日は、初夏のはじめの、よく晴れた午後だった。窓を開け放っていると、王宮の庭の若葉の匂いが、執務室まで運ばれてくる季節だった。桜はとうに散り、桜の木の下には、まだ薄い花びらの破片がいくつか残っていた。けれど、それらはもう、足音と一緒に踏まれて、形を失っていた。


宰相府でのお務めは、半年目に入っていた。


東方諸国の覚書の要旨を書く仕事に加えて、外交方面と贈答方面が重なる書類の助言役も、私の務めに含まれるようになっていた。要旨の写しは、毎月、宰相閣下のお手元へ提出される控えに、私の名前が並ぶようになっていた。サミュエル様は、私の机の脇に書類を置く時、いつのまにか、口元を緩める癖を、おやめになっていた。新人扱いの最後の名残が、消えていく途中の、ご様子だった。


エドワード様からのお誘いは、その朝、執務室で、書類を受け渡す際に、いつもの落ち着いた声で告げられた。


「ローズウェル殿」


「はい」


「お務めのあと、お時間を、頂戴できますでしょうか」


「お務めに関わるお話、でございますか」


「お務めに関わるお話、ではございません」


エドワード様は、いつもどおり、必要な順序で、必要なことだけを、丁寧に積まれた。


「私的な書斎で、私の側から、お話し申し上げたいことが、ございます。お時間が叶わぬようでしたら、後日、改めてお申し入れいたします」


「叶います」


私はそれだけ答えた。


エドワード様は、軽く一礼された。


その日のお務めを、私は、いつもの速度で、いつもの順序で済ませた。


要旨を三通、書き上げた。サミュエル様に二通、エドワード様に一通、お渡しした。エドワード様にお渡しした時、エドワード様は要旨を一通り読んでから、机の上の同じ場所に、お置きになった。机の隅の、私が初めて宰相府で書いた要旨が積まれている場所だった。半年経って、私が書いた書類は、その机の隅で、それなりの厚みの束になっていた。


終業の時刻、私は腕章を外し、いつもの小箱に納めた。


宰相府の建物の中の廊下を歩き、第二席補佐の執務室の扉の前を一度通り過ぎた。エドワード様は、執務室の扉の外で、私を待っておられた。立ったまま、ご自分の手のひらに、薄い革の手帖を一冊持っておられた。革の表紙の角が、少しだけ擦れている、長く使われている手帖だった。


「ローズウェル殿」


「ヴェルナー様」


「こちらへ」


エドワード様は、執務室の隣の、私の知らない扉のほうへ、軽く手を向けられた。執務室の扉とは別に、廊下から直接入れる扉が、もう一枚あった。


私的な書斎の扉は、執務室の扉より、少しだけ古かった。木の色が、よく使い込まれた色をしていた。


エドワード様は、その扉を、ご自分で開けて、私を中へ通された。


中は、執務室の半分ほどの広さだった。


窓は一つ。窓のそばに、小さな机が一台。机の向こう側に椅子が一脚、机の手前に、もう一脚。壁の片側には書棚があった。書棚に並んでいるのは、宰相府の業務に関わる書物ではなく、もっと古い時代の、外交方面の歴史書や、王朝史の写本のたぐいだった。書棚の前に、低い卓と、二人がけのソファが一つ。書斎というよりは、書斎を装った、もう一つの応接間に近い造りだった。


窓辺の小机の上には、コーヒーの入った薄手のカップが、二客、用意してあった。給仕の方が、私たちが入る少し前に置いていったらしかった。湯気はまだ、わずかに上がっていた。


私は、机の手前の椅子のほうへ通された。


「お座りください」


「失礼いたします」


私は座った。エドワード様は、机の向こう側ではなく、ソファの方の椅子に、お座りになった。机を挟まない位置だった。机を挟まないこと自体が、その日のエドワード様の選択だった。


エドワード様は、お持ちになっていた革の手帖を、机の上ではなく、ご自分の膝の上に、静かにお置きになった。


「ローズウェル殿」


「はい」


「先に、お伝えしておかねばならないことが、二つございます」


「どうぞ」


「一つは、家のことでございます。私はヴェルナー伯爵家の次男で、家督を継ぎません。継ぎませんが、宰相府第二席補佐の俸給と、王宮内の官舎の権利を、独立して持っております。母方の祖父が宰相を務めておりました家系の縁で、王宮内で家を立てる権利が、私の代に認められております。これは、当家の特殊な経緯による権利ですので、一般の伯爵家次男のお立場とは、少し違います」


「家を、お立てになる」


「はい。ご令嬢のお家との家格の差につきまして、ご無礼にならぬ形を、整える用意がございます」


エドワード様の声は、お申し入れの声というより、書類の確認の声に近かった。けれど、書類の確認の声で語られていることは、書類のことでは、なかった。


「お聞きいたしました」


「もう一つは」


エドワード様は、膝の上の革の手帖に、軽く手を添えられた。


「お話の前に、こちらをご覧いただきたく存じます」


エドワード様は、手帖をお開きになった。


机の上ではなく、ご自分の膝の上で、お開きになった。それから、その手帖を、私のほうへ、両手で軽く差し出された。差し出される角度は、書類を渡す時の角度に近かった。けれど、書類を渡す時の角度より、少しだけ、慎重だった。


私は、両手で受け取った。


革の手帖の中身は、ご自分の手で書かれた、業務の覚書の集まりだった。


ページの上には、日付と、書類の出所と、書類に対する短いご感想が、丁寧な小さな字で並んでいた。文官の業務日誌としては、よく整った日誌だった。最初のページの日付は、五年前の春のはじめ。私がアシュフィールド侯爵家の婚約者として、初めて家政の書類に手を入れ始めた頃と、ほとんど同じ時期だった。


最初のページの最後に、こうあった。


「アシュフィールド家書簡、書きぶり変化。半年ほど前まで、嫡子の手の癖の通り。新しい書き手の手は、整い方が一段上。書き手は、家令の手ではない。書き手は同一人物の継続と推察」


私は、ページから目を上げた。


エドワード様は、私の目を、避けずにご覧になった。


「五年前から、書きぶりだけは、存じ上げておりました」


エドワード様は、ゆっくりとおっしゃった。


「書き手のお名前のほうは、書類の差出人欄に書かれておりませんでしたので、当時の私には、分かりませんでした。家令の手ではない、ということだけが、書きぶりから、確信できました」


私は、もう一度、ページに目を戻した。


五年前の最初の覚書の文字を、もう一度、読んだ。


それから、ページをめくった。


二年前の頁にも、似た形の覚書があった。「アシュフィールド家書簡、書きぶりに変化なし。整い方は、五年前のまま継続。書き手は同一人物の継続の可能性、極めて高い」と、書かれていた。


一年前の頁にも、覚書があった。「アシュフィールド家書簡、書きぶり安定。書き手の手の癖、定着済み」と、書かれていた。


それから、半年前の頁。


「春の慈善茶会にて、ローズウェル伯爵令嬢を初めて、現地で拝見。扇の所作と、書きぶりの整い方が、同じ人のものであると、その日、知った。柱の影で、お顔を一度、見た。書類の整い方と、その方の所作には、確かに、共通する種類の落ち着きがあった」


そこに、書かれていた。


私は、その一行を、二度、読んだ。


「あの所作と、あの書きぶりが、同じ人のものだと、あの日、私には分かりました」


エドワード様は、ご自分の声で、もう一度、その一行の意味を、おっしゃった。


「公文書庫の書類は、私の私物ではございませんので、お見せできません。私は、文官として、書類を、私的に書き写すことも、家に持ち帰ることも、しておりません。書類は、公文書庫に、すべて、もとの形のまま、保管されております」


「では、これは」


「これは、私自身の業務日誌でございます。当府の文官として、私個人のために、業務上の関心を書き留めてきた手帖でございます。公文書ではございません。私の私物でございます」


エドワード様の声には、文官としての矜持と、それから、別の何か、が、混じっていた。


「お見せしてよかったのかどうか、私自身、迷いがございました。けれども、私が五年、何を見てきたのかを、私のほうから、最も誠実な形でお伝えするには、これ以外の方法を、私は、思いつきませんでした」


私は、手帖を、ゆっくり閉じた。


閉じてから、両手で、机の上に、丁寧にお戻しした。


机の上の革の手帖は、半年前まで、私の存在しない場所で、私のためにではなく、ただ業務上の関心として、書き続けられてきた手帖だった。それを、私はよく理解した。


「ヴェルナー様」


「はい」


「お見せいただいて、ありがとうございます」


「ご無礼でなければ、何よりでございます」


「ご無礼など、何一つございません」


私は、しばらく、机の上の手帖に、目を落としていた。


それから、エドワード様のほうへ、視線を戻した。エドワード様の睫毛は、いつもの執務室で見るより、少しだけ伏せられていた。書類を読む時の睫毛の角度より、わずかに、深く伏せられていた。それを見ていることに気づかれないうちに、私は視線を、わずかにずらした。


「ローズウェル殿」


エドワード様は、もう一度、私の名をお呼びになった。


「私は、あなたの書簡を、五年見てまいりました。書きぶりだけを、五年、見てまいりました。書き手のご身分も、お名前も、五年前の私には、分かりませんでした。けれども、書きぶりだけは、ずっと、見てまいりました」


エドワード様の声は、いつもの執務室の声より、少しだけ、柔らかかった。


柔らかさは、敬語の柔らかさだった。砕けた口調にはお変わりにならず、敬語の中で、声の角度が、わずかに変わっていた。それで、十分に伝わった。


「これからは、書きぶりだけではなく、あなた自身を、見せてください」


私は、その一文を、ゆっくり受け止めた。


受け止める時間を、エドワード様は、急かさずに待っておられた。


私は、ゆっくり、答えた。


「はい」


それ以外の言葉を、私は、その時、選ばなかった。選ばなかった、というよりは、その一語で、私が今、選んでいる選択を、いちばん正確に表せると考えた。「はい」と答える時の自分の声は、思ったよりも、低かった。低い声で、震えてはいなかった。


エドワード様の睫毛が、もう一度、伏せられた。


それから、ゆっくり上げられて、私の目を、まっすぐにご覧になった。


「ありがとうございます」


「ヴェルナー様」


「はい」


「お一つ、お願いがございます」


「どうぞ」


「私を、シルヴィア、とお呼びください」


エドワード様は、一拍、間を置かれた。


それから、いつもの、下手な微笑みを、お見せになった。


「シルヴィア」


「はい」


「これからも、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


私は、椅子の上で、扇を膝に戻した。


机の上のコーヒーは、まだほんのり温かかった。私はカップに、はじめて手を伸ばした。一口、いただいた。苦みのなかに、わずかな酸味があった。


書斎の窓の外で、夏の最初の青葉が、わずかに揺れていた。


私は、もう一度、カップを口へ運んだ。


窓の外を見ていたエドワード様が、ご自分のカップにも、手を伸ばされた。


二人とも、しばらく、何も話さなかった。


そのあいだに、二人ぶんのコーヒーが、ゆっくり減っていった。話さない時間の使い方を、その方は、ご存じだった。


その夜、私は、ローズウェル邸に戻って、まず、父の書斎の扉を、軽くノックした。


父は、いつもの執務机の前に座っておられた。机の上には、書類が一通も置かれていなかった。父は、私が戻ってくるまで、書斎の机の前で、何も書かずに、ただ座っておられたらしい。


「お父様」


「うん」


「ヴェルナー第二席補佐殿から、お申し入れを頂戴いたしました」


父は、私の方を、ゆっくり見られた。


「正式に、ということか」


「はい」


「お受けするのか」


「はい」


父は、それだけ確かめてから、もう一度、頷かれた。


「分かった」


「お父様」


「うん」


「ありがとうございました」


父は、それ以上は、何もおっしゃらなかった。


おっしゃらないことが、十分だった。


私は、書斎を退き、自分の書斎に戻った。机の上に、半年前の便箋を、もう一度取り出した。「エドワード様」と書き直したまま、本文は書けないでいた便箋だった。


便箋の余白に、薄く描かれた桜の花びらの形が、まだ、残っていた。


私はその便箋を、もう一度、机の上に広げた。


それから、ゆっくり、本文を書き始めた。


書く文面は、長くはなかった。


「エドワード様。


本日のお申し入れ、慎んでお受けいたします。


お見せいただきました業務日誌の中身を、私は、忘れないでおきます。書きぶりを、五年、見てくださっていたこと。柱の影で、お顔を、見てくださっていたこと。私の知らないあいだに、私のために、見てくださっていた方が、ずっとおられたことを、私は、忘れないでおきます。


これからは、書きぶりではなく、私自身を、お見せいたします。お互いに、急がずに、進んでまいりましょう。


シルヴィア」


私は、便箋を畳み、封蝋を温めて、押した。


封蝋の色は、ローズウェル家の朱色だった。けれども、封蝋の上の花押は、父のものではなく、私自身のものだった。私の花押を、私が、自分の便のために押したのは、その夜が、初めてだった。


便箋を、家令に渡した。


家令は、朝、宰相府の受付までお届けいたします、と言って、退室した。


書斎の机の上が、もう一度、片付いた。


半年ほどが経った。


その半年のあいだに、宰相府でのお務めは、続いていた。エドワード様との、お互いに急がない時間も、続いていた。私たちは、お務めの場では、書記官と第二席補佐として、いつもどおり過ごした。私的な書斎で、月に一度か二度、ささやかに、お茶やコーヒーをいただく時間を、設けた。茶のあいだの会話は、お務めのお話よりも、ご本の話や、季節の花のお話のほうが、少しずつ、多くなっていった。


両家のあいだで、正式なお話し合いも、何度か持たれた。


王宮への婚約の届けが提出されたのは、その年の冬のことだった。


年が改まり、もう一度、春が来た。


春の社交季の最初の招待状は、その朝、ローズウェル邸の玄関に届けられた。


ミラが、それを私の書斎の机の上に運んでくれた。


封蝋の上の紋章は、王家のものだった。


開いてみると、便箋は一枚。文面は、儀礼通りの形をしていた。


「春の茶会のご招待。


第二王女殿下ご主催。


王宮西庭、四月二日午後。


宰相府第二席補佐 ヴェルナー伯爵令息 エドワード様、ならびにご婚約者 ローズウェル伯爵令嬢 シルヴィア様、両名のご出席を賜りたく」


私は、その文面を、二度読んだ。


二度目に読んだ時、「ご婚約者」の一語のところで、目を、止めた。


去年の春の茶会の招待状にはなかった一語が、今年の招待状には、加わっていた。同じ第二王女殿下のご主催。同じ王宮西庭。同じ四月二日。けれど、一語だけ、違っていた。


私はその便箋を、丁寧に畳んだ。


畳んでから、机の引き出しを開け、レオノーラ様の私信の束の隣に、置いた。


引き出しを閉める時、紙の擦れる、乾いた音がした。


その音は、もう、何の音とも、繋がらなかった。


書斎の窓の外で、ローズウェル邸の庭の桜が、今年も、満開に近づいていた。


私は、自分の隣に座る人を、自分の意思で選んだ。


その意思を、自分の名で、自分の花押で、書き残せる場所に、私はいた。


椅子から立ち上がり、窓のほうへ歩いた。


窓を開けると、春の風が、書斎の中へ、ゆっくり吹き込んできた。机の上の、薄く色を失った押し花の紙の縁が、わずかに揺れた。

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