第15話 名前のない王
悠真たちは、いつから三人きりだったのか思い出せなかった。
戦いが始まる前、無名王は三人のそばに何度も現れていた。
端末の埃に四人目の指跡がある。使った覚えのない椅子が一脚、引かれている。レオンの水筒は空になっていた。
「誰か、俺の水を飲んだか」
「知らない」
「私ではありません」
二人が答えた直後、三人ともその会話自体を忘れた。
無名王は目の前にいても認識できない。だが世界には小さなずれが残る。
悠真は違和感を紙へ書き始めた。
四人分の足音。開いた扉。減った水。
紙の文字は消されても、筆圧の跡だけは残った。
「見えないんじゃない。見たことを消されてる」
気づいた瞬間、男の笑い声が耳元でした。
「遅い。だが、これまでの管理者候補よりは早い」
セラの氷槍が壁を砕く。
誰もいない。
「何を狙った?」
レオンが尋ねた。
セラは答えられなかった。
「分かりません。ですが、敵がいたはずです」
悠真もそう思った。
次の瞬間には、なぜ警戒しているのか分からなくなった。
「俺たち、何してた?」
足音がした。
黒い外套を着た男が、悠真の目の前を歩いている。顔は見えるのに、視線を外すと特徴を思い出せない。
「ようやく、私を見つけた者が来た」
男が悠真の胸へ手を伸ばす。
セラの剣が割って入った。
男は消える。
剣は空を切った。
「誰かいたか?」
レオンが聞く。
「いた。黒い服の――」
名前が出ない。
最初から聞いていない。
悠真はスマートフォンのメモを開き、大きく入力した。
敵がいる。忘れるな。
文字を書いた直後、その一部が消える。
敵が る。忘 るな。
男の声が背後からした。
「記録しても無駄だ。私は世界から削除された」
無名王の能力は、人の記憶だけを消すのではない。戦いの因果まで削る。
レオンが剣を振った事実が消えると、消費した体力だけが戻らない。何度攻撃したか分からないまま、疲労だけが積み重なる。
セラの氷槍も同じだった。放ったことを忘れるたびに次を作り、魔力が急速に減る。
「攻撃を止めろ!」
「敵を放置するのですか?」
「倒そうとするほど、こっちだけ消耗する」
悠真はスマートフォンのタイマーを一秒ごとに鳴らした。
音が鳴るたび、三人は状態を声に出す。
「悠真。敵がいる」
「セラ。氷槍を撃つな」
「レオン。体力六割」
一秒後、理由を忘れても同じ言葉を繰り返す。
無名王が記憶を消す速度より早く、現在を共有する。
「妙な方法を考える」
男の声がする。
「強い攻撃はできない。長い作戦も覚えられない。なら一秒ずつ戦う」
普通のスマートフォン機能が、存在消去の王へ対抗する武器になった。
悠真は振り向かず叫ぶ。
「セラ、後ろ!」
第一星剣が振られる。
部屋の半分が凍った。
男の外套だけが氷の外へ現れる。体そのものが攻撃の瞬間だけ存在しなくなっていた。
「私の世界は、ガチャの最初の実験場だった」
無名王の背後に、壊れた映像が浮かぶ。
青い草原。低い家々。夕食を囲む家族。男の隣には妻と二人の子どもがいた。
「最初に消えたのは娘の薬だった。次に井戸の水。冬には街を暖める炉が消えた」
映像の中で、食卓の皿が一枚ずつ消える。
「人々は盗人を疑い、隣人を殺した。ガチャだと知る者はいなかった」
妻の姿が薄くなる。
「最後に奪われたのは、我らの世界が存在する可能性そのものだ。皆が消える中で、私は自分の名と姿を捨てた。存在しない者になれば、検索に引っかからないと考えた」
「家族は?」
「顔は覚えている。名が出ない」
無名王の声が初めて揺れた。
「娘が私を何と呼んだか、それすら記録から消えた」
この男は復讐だけで動いているのではない。忘れたくないものを守るため、自分まで忘れられる存在になった。
男は淡々と語る。
「物質を奪われ、歴史を奪われ、最後には名前を奪われた。私だけが自分を消し、検索から逃れた」
レオンの短剣が男の首を通過する。
当たった事実ごと消えた。
「目的は何だ」
悠真が尋ねる。
「管理者候補を消す。《運営》の検索装置を止める。そして私の世界を取り戻す」
「ガチャを止めたいなら、俺たちと――」
「話し合えと?」
男の姿が悠真の前へ現れた。
「薬一つを返して善人になったつもりか。お前が喜んで引いた数だけ、誰かが失った」
男の手が悠真のスマートフォンに触れる。
召喚履歴が消え始めた。
最初に消えた干し肉は、ルーデ村の食卓からも消えた。
食べた事実まで失われ、空腹だった子どもの体が一日前へ戻る。
浄水塔が消えると、ガルドアで飲んだ水が人々の体から抜けた。
助けた結果だけを取り消す能力。
「返すのと、なかったことにするのは違う!」
悠真が無名王へ叫ぶ。
「奪った結果だ」
「それでも、その後に生きた人がいる!」
「我が世界には、その後がなかった!」
無名王の怒りで施設全体が薄くなる。
どちらも正しい。
奪われたものは返すべきだ。だが、奪った力で救われた命を消してよいわけではない。
この矛盾が、悠真に「返しながら結果を残す」方法を探させることになる。
タイタン・ゼロが消える。浄水塔が消える。豊穣炉が消える。
それらに救われた人々の記録まで消えていく。
「待て!」
「奪ったものを返すだけだ」
「今消せば、助けた人が死ぬ!」
「私の世界では、すでに死んだ」
悠真は言い返せなかった。
正しい怒りだった。
それでも、目の前の命を消させるわけにはいかない。
「セラ。あいつの能力だけを消せるか」
セラは五本目を見た。
「可能です」
「代わりに何が起きる」
短い沈黙。
「分かりません」
嘘だ。
悠真には分かった。
セラは代償を知っている。
男が再び消える。
世界から新宿の記録が薄れた。悠真の頭から、職場への道が抜け落ちる。
「使ってください」
レオンが言った。
「このままでは、俺たちも敵がいることを忘れる」
セラが五本目を抜く。
色のない剣だった。
黒でも白でもない。見ている場所だけ、世界に穴が開いているように見える。
「第五星剣――《虚無星ゼロ》」
男の姿が初めて完全に現れた。
疲れた顔をしていた。
「その剣も、私の星から作られた」
セラの手が止まる。
「星を消し、残った虚無を剣にした。私の名も、家族も、空も、その中にある」
男は両手を広げた。
「斬れ。せめて私を、世界の記憶へ残せ」
悠真が叫ぶ。
「セラ、存在じゃない! 能力だけだ!」
色のない刃が振られた。
振る直前、セラは悠真を見た。確認を求める目だった。
消す対象を一語でも間違えれば、無名王は完全に消える。
「存在じゃない。あいつを世界から隠している力だけだ」
「境界が曖昧です」
「分けてくれ。君ならできる」
「根拠は?」
「隕石を消した。百万の死者を止めた。雷を食う怪物に食べ勝った。今度もできる」
「理論ではありません」
「信頼だ」
セラの青い瞳がわずかに見開かれた。
「了解しました」
第五星剣の刃が、男の胸ではなく影だけを通る。
音も光もなかった。
男を守っていた「存在を消す力」だけが消滅する。
初めて、彼の足が床についた。
レオンが男の腕をつかみ、倒す。
戦いは終わった。
「名は?」
悠真が男へ尋ねる。
「ない」
「昔はあっただろ」
「誰も覚えていない」
「じゃあ、思い出すまで無名王だ」
男は目を閉じた。
「勝手にしろ」
スマートフォンに記録が戻る。
無名王。消失世界の生存者。
悠真は安堵して、セラを見た。
セラは第五星剣を収めたまま動かない。
「大丈夫か?」
青い瞳が悠真へ向く。
「失礼ですが」
セラは一歩下がった。
「あなたは、どなたですか?」
## サイドストーリー 虚無星に残った声
第五星剣の元になった星には、正式な名が残っていない。
《運営》はその星から物質を少しずつ転送した。
鉱山が消えれば、そこで働いた記録が消える。
川が消えれば、川を渡った旅の記憶が消える。
都市が消えれば、そこに住んだ家族の名が消える。
人々は世界が小さくなっていることに気づけなかった。
違和感だけが残る。
何もない場所へ橋が架かっている。
誰も使わない鍵を大切に持っている。
家族写真に、不自然な空間がある。
一人の記録官が、消える前の紙へ文字を刻んだ。
『ここには何かがあった』
具体的な名を書けば消される。「何か」という曖昧な言葉だけが残った。
記録官は世界中の空白へ同じ文を置いた。
人々は空白を見るたび、思い出せないものがあると知った。
《運営》は記憶削除を強め、最後には惑星そのものを消した。
残った虚無が第五星剣になった。
剣は何でも消せる。使うたびセラの記憶を代価にする。
それは機能ではなく、星に残った傷だった。
何かを消せば、必ず誰かの中にも空白が生まれる。
悠真はセラの消えた記憶を無理に埋めなかった。空白があることを二人で覚えた。
第五星剣を星へ返すと、最初に一枚の紙が現れた。
『ここには世界があった』
次に橋。川。都市。家族の名。
空白から一つずつ戻る。
記録官は最後の紙へ書いた。
『忘れたことを、忘れなかった者がいた』
## サイドストーリー 被害者と加害者の間
無名王が能力を失ったあと、ガルドアの使者が地下施設へ来た。
召喚履歴を消された数分のあいだ、ガルドアでは五人が危険な状態になった。
浄水塔の水で命をつないでいた病人たちだ。
履歴が戻り、全員助かった。
使者は無名王へ剣を向けた。
「王の命により、民を害した罪を問う」
「受けよう」
無名王は抵抗しなかった。
悠真が二人の間へ入る。
「待ってくれ」
「被害が出ています」
「分かってる。でも、この人の世界から奪った水で助かった命でもある」
「ならば、害してよいと?」
「違う。どっちか一方だけを加害者にして終わらせるなって言ってる」
使者は剣を下ろさない。
無名王が口を開く。
「我は、お前たちが死んでも構わないと思った」
言い訳をしない。
「奪われた世界の痛みを知れば、同じ痛みを返してよいと考えた。それは我の選択だ。裁きを受ける」
「死刑を望むのか」
「望みではない。結果だ」
悠真は無名王を見る。
「結果を一つに決めるな」
「また四つ目を探すつもりか」
「被害を受けた五人に聞く」
通信をつなぐ。
病人の一人は、無名王を許せないと言った。
一人は、顔を見てから決めたいと答えた。
三人は、今は治療を続けたいと言った。
被害者の意見も一つではない。
使者は剣を収めた。
「裁判まで拘束する」
「受けよう」
無名王はうなずく。
「ただし条件がある」
「何だ」
「我の世界から奪われた物の記録を、一緒に探せ」
使者は拒否しかけ、悠真を見る。
「命令はしない」
悠真が言う。
「自分で決めてくれ」
長い沈黙のあと、使者は手を差し出した。
「裁判までだ」
無名王がその手を取る。
許しではない。
被害者と加害者を固定せず、次の判断へ進むための最初の合意だった。




