第2話
こうして、周囲の誰もが予想もしなかった形で、伯爵令嬢ミリア・キャッツナーと、公爵令息レインハルト・ヴォルティスの婚約が成立した。
しかし、婚約が交わされてからの数週間、レインハルトの態度は徹底して「冷淡」そのものだった。
週に二回行われることになった定期的なお茶会。
その日もミリアは、胸を躍らせながら公爵邸の美しい庭園に設置されたガゼボ(東屋)へと足を踏み入れていた。
「ごきげんよう、レインハルト様! 本日もお目にかかれて光栄ですわ!」
ミリアが弾んだ声で挨拶をしても、ソファーに腰掛けたレインハルトは書類に目を落としたまま、視線すら上げようとしない。
「……ああ。そこへ座ればいい」
低く、温度の感じられない冷ややかな声。
彼はミリアと目を合わせようともせず、挨拶もそこそこに書類をめくる作業に戻ってしまう。
(……やはり、彼女もじきに逃げ出すだろう)
レインハルトは心の底で、冷めきった諦念を抱いていた。
顔合わせの日、ミリアは異常なほどの熱量で婚約を承諾してくれた。
だが、レインハルトは過去の痛烈な拒絶を忘れてはいなかった。
美しかった令嬢たちが自分の顔を見るなり悲鳴を上げ、蔑みの視線を向けて去っていったあの惨めな記憶を。
(いくら『猫好き』だと言っても、首から上が異形の男と添い遂げるなどあり得ない。今は公爵家への配慮や珍しさで付き合っているだけで、私のおぞましさに気づけばすぐに嫌気がさすはずだ。……情を移す前に、こちらから冷たく突き放しておくのがお互いのためだ)
傷つくのを恐れるあまり、彼は完璧な氷の仮面を被り、ミリアに対してどこまでも素っ気なく、冷たい態度を取り続けていたのだ。
だが、ミリアはそんな彼の冷淡な態度など、まったく意に介していなかった。
「レインハルト様! 本日どうしてもお渡ししたいものがあって、持参いたしましたの!」
ミリアは侍女から小さな木箱を受け取ると、恭しくテーブルの上に置いた。
蓋を開けると、中には毛先の柔らかい極上のブラシが収められている。
「……何だ、それは」
レインハルトは鬱陶しそうに、薄いエメラルドの瞳を向けた。
「豚毛と馬毛を独自に配合して作らせた、特製の『毛並みお手入れ用ブラシ』ですわ! レインハルト様のご立派な毛並みを拝見した瞬間から、このブラシでお手入れさせていただきたいと……! もしお許しいただけるのでしたら、ブラッシングをさせていただけませんか!?」
「くだらない」
レインハルトは一蹴した。
「私を動物扱いするつもりか? 気安く触れるな。君の手を汚すだけだし、私はそんなお戯れに付き合うつもりはない」
そう吐き捨て、レインハルトは冷たく背を向けようとした。
過去の令嬢たちなら、この冷酷な一言で怯え、引いていたはずだった。
しかし、ミリアは引き下がらなかった。
「動物扱いなど滅相もございません! 私にとって、レインハルト様の毛並みに触れさせていただけるなど、神聖な儀式も同然です! お願いです、一口だけでも……いいえ、一撫でだけでも試させてくださいませ!!」
ミリアはテーブルに身を乗り出し、真剣な眼差しでレインハルトをまっすぐに見つめた。
その瞳には、恐怖や蔑みなど微塵もなく、ただ純粋な敬愛と『モフモフへの情熱』だけが宿っていた。
あまりの必死さと一筋縄ではいかない雰囲気に押され、レインハルトはわずかに眉をひそめた。
「……一度だけだ。気味が悪くなって後悔しても知らんぞ」
冷たく言い放ち、彼は渋々顔を背けた。
「はいっ! 感謝いたしますわ!」
ミリアはぱあっと顔を輝かせると、ソファーから立ち上がり、レインハルトのすぐ隣へと移動した。
ふわりと、ミリアの体から甘い花の香りが漂ってくる。
その距離の近さに、レインハルトの体が微かに強張った。
「では、失礼いたしますね……」
サ……サ……ッ。
慎重に、けれど至高の優しさで、ミリアはレインハルトの頬の毛並みにブラシを滑らせた。
(あぁ……なんという極上の触れ心地……! 適度な弾力と、シルクのような滑らかさ……! 冷たく振る舞われても、この毛並みの美しさは隠せませんわ!)
ミリアは歓喜に震えながら、丁寧に、けれど的確にブラシを滑らせていく。
額から頬へ、そして一番気持ちのいい顎の下へと。
「……つ……っ」
レインハルトは息を呑んだ。
ミリアの手つきは、信じられないほど繊細で、そして心地よかった。
頑なに強張っていた筋肉が、絶妙な力加減によって解きほぐされていく。
(な……んだ、これは……)
首元をササッと優しく撫で上げられた瞬間――
パタ……パタ……。
レインハルトの耳が、意思に反して力なく横へ倒れた。
そして、彼がどれだけ抵抗しようとしても、喉の奥から低い音が漏れ出してしまう。
ゴロゴロゴロ……ゴロゴロ……。
「……っ!?」
レインハルトはハッと目を見開き、慌てて自分の口元を手で押さえた。
(な、なんだ今の音は……!? 私が、喉を鳴らして……!?)
呪いを受けて以来、彼が『ゴロゴロ音』を鳴らしたことなど一度もなかった。
いくら冷酷な騎士を気取ろうと、ミリアのあまりにも愛のこもったブラッシングと温もりに、彼自身も気づかなかった警戒心が完全に崩壊してしまったのだ。
「まあ……!」
ミリアは感激のあまり頬を染め、両手を胸の前で合わせた。
「レインハルト様、喉を鳴らしてくださったのですね……! 私を受け入れてくださったのですね……!」
「ち、違う! これは……意図したものではない! 失礼だぞ!」
レインハルトは顔(毛並み)を真っ赤にして冷たく追い払おうとしたが、耳はぺたりと寝たまま、尻尾代わりに揺れる上着の裾がパタパタと歓喜を物語っていた。
そんな彼の頑なで不器用な反応を見て、ミリアはふんわりと優しい笑みを浮かべた。
「レインハルト様。私に冷たく接して、遠ざけようとなさらなくても大丈夫ですわ」
ミリアはレインハルトの大きな手の上に、自分の小さな手をそっと重ねた。
「皆様はあなた様のお姿を恐れるかもしれません。ですが、私には……誰よりも誇り高く、誰よりも優しく、そして最高に愛らしいお姿に見えます。傷つくのが怖くて冷たくされているのだとしたら……どうか私といる時くらいは、無理をなさらないでくださいね」
まっすぐで、温かく、一筋の曇りもない瞳。
冷たく突き放しても、どんな拒絶を投げかけても、彼女は逃げ出さず、自分をあたたかく包み込んでくれた。
レインハルトの胸の奥で、氷のように凍りついていた心が、音を立てて砕け散った。
(ああ……そうか。この人は、最初から私を恐怖していなかった。私そのものを見てくれていたんだ)
長年、冷たい闇の中に閉じ込められていたレインハルトにとって、ミリアはあまりにも眩しい太陽だった。
そして――今まで抑えつけられていた反動のように、彼の中にあった『冷たさ』は一瞬にして消失し、激しいまでの『執着』と『愛情』へと裏返ったのだった。
その日を境に、レインハルトの態度は極端な変貌を遂げる。
「……レインハルト様?」
数日後、再び公爵邸を訪れたミリアは、応接間に踏み入った瞬間、その雰囲気の違いに固まった。
以前までのあの氷のような冷酷さはどこへやら。
立ち上がったレインハルトは、迷いのない優雅な足取りでミリアへと歩み寄ると、彼女の手を取り、その手の甲へ深々と口づけを落とした。
チュ……と、毛むくじゃらの柔らかい鼻先と唇が肌に触れ、ミリアの背筋に甘い痺れが走る。
「ようこそ、私の愛しいミリア。君に会えるのを、一秒たりとも待ちきれなかったよ」
「へ……? あ、はい……?」
レインハルトのエメラルドの瞳には、濃厚で執着に満ちた甘い情熱が揺らめいていた。
「さぁ、座ってくれ。今日の紅茶は、君が好きだと言っていた桃のフレーバーティーだ。スイーツも君の好みに合わせて特別に作らせた」
「あ、ありがとうございます……」
エスコートされるままソファーに腰掛けると、レインハルトは迷わずミリアの『すぐ隣』にぴったりと身を寄せた。
隙間もないほどの密着度だ。
「レ、レインハルト様……? あの、距離が近すぎ……」
「ん? 何か問題でも? 愛する婚約者の隣にいて何が悪いんだい?」
レインハルトは当然のような顔でミリアの顔を覗き込んできた。
冷たかった面影は微塵もなく、いまや『圧倒的なスパダリオーラ』と『重すぎる溺愛』が溢れ出している。
ミリアが困惑しながら紅茶を口に運ぶと、レインハルトはその細い腰に遠慮なく手を回してきた。
「ミリア。君が以前、『毛並みに触れると落ち着く』と言っていたね」
「え、ええ、言いましたけれど……」
「なら、遠慮なく触るといい。君の好きなだけ、私を愛でてくれて構わないよ。……その代わり」
レインハルトはミリアの耳元へと顔を近づけ、低い声で甘く囁いた。
「君の視線も、触れ合いも、その優しい心も……すべて私だけがもらうよ、私の可愛いミリア」
「〜〜〜〜〜〜ッッ!!??!?」
ミリアの顔が、爆発したかのように真っ赤に染まった。
(な、ななな……何が起こったの!? レインハルト様が……あの冷たかったレインハルト様が、信じられないほどの極上溺愛モードになられているわ……!?)
耳元で聞こえる甘い囁きと、目の前にある極上のモフモフ顔。
そして、逃がさまいと腰を抱く力強い腕。
冷たい態度からのあまりの急変ぶりに、ミリアの頭は完全にパニック状態に陥ったのだった。
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