第1話
キャッツナー伯爵家の広間には、重苦しい静寂と、どこか浮足立った空気が同時に満ちていた。
円卓を囲んでいるのは、当主であるキャッツナー伯爵、その妻、そして二人の娘であるミリア・キャッツナーだった。
テーブルの中央に置かれているのは、金箔押しが施されたあまりにも上質な羊皮紙の書状である。
そこに刻まれた紋章は、この国でも指折りの権勢を誇る『ヴォルティス公爵家』のものだった。
「……ミリアよ。もう一度確認するが、お前はヴォルティス公爵閣下や、そのご嫡男であるレインハルト様とどこかで接点があったか?」
父である伯爵が、額の汗をハンカチで拭いながら、切実な眼差しでミリアを見た。
ミリアは首を小傾げ、自身の記憶をさかのぼる。
「いいえ、お父様。ヴォルティス公爵家といえば雲の上の存在ですもの。夜会で遠目にお見かけしたことすらございませんわ」
「そうだよなぁ……。我が家はしがない伯爵家。事業が傾いているわけではないが、公爵家から直接、嫡男であるレインハルト様との婚約打診が届くなど、どう考えてもおかしいのだ……」
伯爵は唸り声を上げ、頭を抱えた。
レインハルト・ヴォルティス公爵令息。
卓越した剣技と高い魔力を持ち、若くして騎士団の隊長を務めるという噂の青年だ。
社交界には滅多に姿を現さないことで有名だったが、その理由は「極度の人間嫌いだから」「恐ろしい容姿をしているから」など、様々な噂が飛び交っていた。
母の伯爵夫人も、不安そうに身を乗り出す。
「ミリア、何か失礼なことや、逆に公爵家の目に留まるような突飛な行動をした覚えはないの? 例えば……そう、街で猫を助けた時に、偶然公爵家の方が通りかかっていたとか」
「あ、それでしたら一昨日、裏路地で迷子になっていた三毛猫ちゃんを無事に親猫の元へ送り届けましたわ! 先週は、樹の上から降りられなくなっていた黒猫ちゃんを梯子で救出いたしました!」
「……そういう話ではないのだ、ミリア」
父は深々と溜め息をついた。
そうなのだ。ミリア・キャッツナーという少女は、社交界でも有名な『無類の猫好き』であった。
幼少期から邸の敷地に迷い込む野良猫を片っ端から愛で、猫の生態や毛並みの整え方についての専門書を愛読し、自室は猫モチーフの雑貨やクッションで溢れ返っている。
可憐な容姿と穏やかな性格を持ちながらも、猫のこととなると目つきが変わり、熱く語り出してしまうのが玉に瑕であった。
「とにかく、だ」
父は意を決したように立ち上がった。
「断るにしても、相手は公爵家だ。書状一枚で無下に断るわけにはいかん。一度、お互いの顔合わせという形で公爵邸へ伺い、直接お話を伺うしかないだろう」
「わかりました、お父様。私も謹んでお供いたします」
ミリアは丁寧に淑女のお辞儀をした。
(格上の公爵家からの突然の縁談……どのような目的があるのかしら。でも、もし断ることになったとしても、礼儀だけは尽くさなくてはね)
そう心に誓ったミリアだったが、彼女の頭の中の三分の一ほどは、すでに「公爵邸の庭園にはどんな猫ちゃんがいるかしら」という期待で占められていたのだった。
数日後。
キャッツナー伯爵夫妻とミリアを乗せた馬車は、王都の郊外に広大な敷地を構えるヴォルティス公爵邸へと到着した。
重厚な鉄柵を潜り抜け、白亜の館へと足を踏み入れる。
出迎えてくれた使用人たちの所作は洗練されており、流石は公爵家だと誰もが息をのむ美しさだった。
応接間に通され、緊張した持ち前で紅茶を口に含んでいると、重厚な扉が静かに開いた。
入ってきたのは、気品あふれる貴婦人――ヴォルティス公爵夫人であった。
「ようこそおいでくださいました、キャッツナー伯爵、そしてミリア様」
「本日はお招きいただき、大変光栄に存じます、公爵夫人」
父が深々と頭を下げる。
公爵夫人は柔らかい笑みを浮かべていたが、その瞳の奥にはどこか申し訳なさそうな、切実な色が滲んでいた。
「単刀直入にお話しいたしますわ。本日の件……皆様が首を傾げていらっしゃるのは重々承知しております。なぜ、公爵家から伯爵家へ、このような突然の縁談を持ちかけたのか」
公爵夫人は小さく溜め息をつき、静かに言葉を続けた。
「実は……息子のレインハルトのことで、皆様にお見せしなければならないことがございます。……レインハルト、入っておいで」
公爵夫人が声をかけると、扉の外で待機していた人物が、ゆっくりと部屋の中へと歩みを進めてきた。
上質な仕立ての漆黒のジャケットに、ピンと伸ばされた背筋。
すらりとした長身と、騎士らしい引き締まった体躯。
だが――その首から上を見た瞬間、キャッツナー伯爵と夫人は「ヒッ……!?」と息を呑み、固まった。
そこにいたのは。
ピンと立った三角形の美しい耳。
ふさふさとした短い毛並みに覆われた顔立ち。
エメラルドのように怪しくも美しい、縦長の瞳。
そして、小さく可愛らしい鼻と、横に伸びた立派なヒゲ。
なんと、公爵令息レインハルトの顔は、どこからどう見ても『完全な猫』だったのだ。
「……驚かれるのも無理はありません」
レインハルトが口を開いた。
その声は、驚くほど低く、魅力的な響きを持つ青年の声だった。だが、言葉を発するたびに、猫の口元が『ピクピク』と可愛らしく動く。
「私は三年前、討伐任務の際に古代の悪しき魔獣から強い呪いを受けました。それ以来……首から上が、このような醜い異形の姿変わってしまったのです」
レインハルトはエメラルド色の瞳を落とし、自嘲気味に笑った。
正確には、猫の顔なので表情の変え方が難しいのだが、耳が力なくペタリと横に倒れている様子から、彼がどれほど落ち込んでいるかがはっきりと伝わってきた。
公爵夫人が胸痛ましそうに付け加える。
「呪いを解く方法をあらゆる魔術師や神官に探させましたが、一向に見つからず……。それどころか、年頃になったレインハルトのために何度か縁談を試みましたものの……」
「……お会いした令嬢方は皆、私の顔を見るなり悲鳴を上げて逃げ出しました」
レインハルトが静かに言った。
「『化け物』『気味が悪い』と……。当然の反応です。このような姿の男と生涯を共にするなど、誰だって恐ろしいでしょう。私はもう、結婚など諦めておりました」
そう語る彼の耳は完全に後ろに倒れ、まるで叱られた仔猫のように小さくなっていた。
何度も拒絶され、何度も傷つき、彼はすっかり心を閉ざしてしまっていたのだ。
「ですが、母が……『どうしても最後に一人だけ、会ってほしい方がいる』と言うので、本日こうして出てまいりました」
公爵夫人がミリアを真っ直ぐに見つめる。
「ミリア様。不躾な調査をしてしまったことをお許しください。私どもは、あなたが大変な『猫好き』であり、どんな動物にも深い慈愛を持って接する心優しいお方だと伺いました。……もしかしたら、あなた様ならば、この哀れな息子を『化け物』と怯絶せずに見てくださるのではないか……そう、藁にもすがる思いで打診させていただいたのです」
部屋の中に、痛々しいほどの静寂が流れた。
レインハルトはミリアから視線を逸らし、冷ややかに、けれど自分を諦めたように呟いた。
「母の身勝手な期待です。ミリア嬢、あなたに迷惑をかけるつもりはありません。こんな姿の私との婚約など、断っていただいて一向に構いません。……すぐに立ち去りますので」
レインハルトが背を向け、去ろうとした――その時。
「――待ってください!!!!」
静寂を切り裂くような、聞いたこともないほど大きな声が応接間に響き渡った。
声を上げたのは、ミリアだった。
彼女は勢いよく立ち上がっていた。
その両手は固く握りしめられ、頬はぽっと朱に染まり、瞳はまるで夜空に輝く星のように怪しいほどギラギラと光り輝いていた。
「な、ミリア……!?」
父伯爵が狼狽える。
ミリアは一歩、また一歩とレインハルトへと詰め寄った。
レインハルトは驚き、思わず後ずさる。
「く、来るな……! 近くで見れば、余計に気味が悪いだろう……!」
「気味……? 気味が悪い……ですって……!?」
ミリアは拳を胸の前で握りしめ、震える声で言った。
「そんな……そんなわけがないでしょう!!? なんという……なんという素晴らしい……! 完璧な毛並み! ピンと立ったお耳! エメラルドのように気高き瞳! そしてその……お話しされるたびに可愛らしく動くウィスカーパッド(ひげ袋)!!」
「は……? うぃす……?」
レインハルトが呆然と口を半開きにする。
ミリアはすでに自分の世界に入り込んでいた。
彼女の目は完全に本物のそれだった。
「醜い? 化け物? とんでもない! これは『奇跡』ですわ! 男性のたくましいスーツ姿に、最高峰のモフモフが融合しているなんて……! 神様、私にこのようなご褒美を下さるなんて、一体前世でどんな徳を積んだというのですか!?」
「ミ、ミリア!? 落ち着きなさい!」
父の制止も、ミリアの耳には届かない。
彼女はレインハルトの目の前まで迫ると、その両手をギュッと握りしめた。
レインハルトの大きな手が、毛皮で覆われて少し温かいことに気づき、ミリアの興奮は最高潮に達する。
「レインハルト様! 断るなんてとんでもございません! 私、ミリア・キャッツナーは、謹んでお話しをお受けいたします! いいえ、どうか私を……私をあなた様の婚約者にしてくださいませ!!」
「え……あ……? は……!?」
騎士団長として数々の魔物を倒してきた冷徹な公爵令息レインハルト・ヴォルティスは、人生で初めて、完全にキャパシティを超えて思考を停止させた。
彼の頭上で、ピンと立っていた猫耳が、パタパタと困惑に揺れていた。
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