マールスの記憶①
過去編一話目。全四話予定。
その日はまるで最悪な一日だった。
何百年、つまりは数えきれない年数を生きてきたシリウスにとって、一日という区切りは瞬きの間の出来事に等しい。
しかしその一日は本当に最悪、自伝でも書いていたら特別に見開き一ページを埋めていたであろうくらい最悪だった。
女に振られギャンブルで大損、住処が火災で全焼し友人と絶縁、自身の研究も振り出しに戻る。
最後のは特に最悪で、ここ数十年熱を入れていた研究が倫理などというつまらない事由で強制終了されたのだ。火災と友人との絶縁もこれに由来する。
簡単に言うと、止められた研究を無理に続けようとしたところを燃やされたのだ。
研究室兼住居を。中に綺麗に並べられた研究成果ごと。放火犯は一緒に研究をしてきた仲間だった。
「人体実験くらいなんだってんだ。別に死ぬわけでもあるまいし」
これがシリウスの主張である。女に振られたのもやはりこの性格に由来するのだが、これに関してはシリウスの知らぬところである。
あ、ちなみにギャンブルの大損は研究には一切関係ない。
そんなわけなので、彼はその日腐って故郷の森散策していた。
故郷と言っても生まれ育ったのは随分昔。昔の大自然は面影もない、自然と人の手の入った自然である。しかしそこに住む精霊は同じ。
シリウスは馴染みの彼彼女らに挨拶をすると、もう今日の寝床はここでいいかと適当に落ち着ける場所を探していた。彼は普段都会の男を気取っているが、追い詰められると野生に帰りがちであった。元は精霊みたいなものだったので。
だから、と言うのも言い訳がましいが、そう言うわけで彼はその時心のどこかが精霊に片足を突っ込んでいた。精神が森林と一体化していた、と言ってもいい。
彼の仕草は木々のざわめきの一部で、呼吸は水面を揺らす風の一部。長い足がものを蹴るのを、彼はまるで避けられない災害被害を眺めるような気持ちでいた。
彼の足が、何か温いものを蹴る。随分と軽いそれはグンと持ち上がり、ボールみたいにコロコロと転がる。大きな岩にぶつかって、止まる。
彼はしばしそれをなんとなしに眺めた。シリウスにとって、それは自分の責のないことに思った。津波を起こす海も、家々を飲み込む雪崩も謝ることはない。そう言うことだ。
そしてこう思った。
(……これ、俺が殺したのか?)と。なんなら声に出てたかもしれない。
どこか他人事だった。冷たい、人の心がないと言う勿れ。それは向こう数年弟子たちに散々言われることとなるのだから。
まあ、彼も人間社会を生きている。人殺しがまずいことなど分かりきっている。それで拘束されてしまったら、研究がより遅れてしまうことは想像に難くないのだ。
そう言うわけだから、シリウスは自身が殺した、もしくは殺しかけた物体に近づいた。それは頭から血を流しながらも生きてはいた。
「おい、死ぬのか?」
返事はなかった。意識はあるようだった。溢れそうなほどの瞳と目が合った。
「は?ガキってそんな簡単に死ぬのかよめんどくせえ。そんな弱いならそっちも気をつけろよ」
ちなみにこの言葉は、現状にテンパって出てきた言葉ではなく純度百パーセントの本心だった。本日のフラれ文句は「私と違う倫理の元で生きてそうで怖い」だ。
シリウスは静かに考えた。目の前の子供をどうするか。
多分このままだと死ぬ。残りの余命の如く血がダラダラと溢れていた。
プランA、治癒魔法とガキへの忘却魔法。プランB、埋葬もしくは消滅魔法とガキの周囲の人間への忘却魔法。
忘却魔法をかける範囲的な意味で面倒が少ないのはプランA。しかしプランBでもうまくガキを処分できれば忘却魔法をかけずとも周囲は勝手に納得してくれる。何せここは精霊が住めるくらいには豊かな森だ。しかも今は冬、雪が全てを覆い隠した誤魔化せられる。
それだったら一回の魔法でなんとかなるプランBの方が面倒は少ないか、とそこまで考えた時、その言葉はコロリと彼の耳に転がってきた。
「て、んし……さま……?」
死にかけていたガキの声だった。シリウスの思考はしばし止まる。何せ天界とは程遠いことを考えていたので。しかし急に面白くなって、弾かれたように笑った。
「天使?天使かよおもしれーな。この俺様を?やっぱガキの考えることはいいね、いつも突拍子もねえ」
シリウスは面白くって、そのままガキの頭をガシガシと撫でた。その流れで傷も治してやる。ついでに洗浄魔法。手を汚したくなかったので。
そして彼はその小さな頭を掴んで目を合わせてやった。改めて顔を合わせると、強い光を宿した瞳に目がいく。夜の森で光るそれは、まるで一等星のようだった。
「なあ、ガキ。俺が天使だったらどうする?」
「え?」
「お前は今死にかけてる。そしてお前の目の前にいるのは魔法の使える天使様だ。今ならなんかしらの願いを叶えてやってもいいぜ」
そんなふうに声をかけたのは完全に気まぐれだった。天使なんて生まれて初めて言われたので、それっぽく振る舞ってみたかったのだ。
シリウスはその時とっくにガキの怪我を治したことを忘れていた。あまりにも自然に治していたので。一秒も掛からなかった。何百年も生きていると一秒未満など「無」であった。
「ほら、言ってみろ」
シリウスは目を白黒させているガキを急かしてやった。さて、こいつはなんて言うんだろうと少しワクワクした。
普通だったら無難に治癒魔法だろうか、怪我をさせたからと何かとんでもないことを言い出すか。ガキはぼうっと何かを考え始めた。
あんまりつまらないことだったらやだな、とその時になってふと思った。とんでもない魔法を必死に縋られたら気分が悪くなるかもしれない。叶えてはやれると思うけど。
そう考えると、少しドキドキした。もしもつまらないことを言われたらこのままここに置いていこうかなとも思った。打ち身だらけで動けないようだったが。今現在そこはいつ吹雪くか分からない雪山ではあったが。
そんなことを無邪気に考え、真剣に検討していた時、その言葉は彼の鼓膜を揺らした。こちらに手を伸ばすガキの、少女の目は澄んでいて、親に甘えるただの子供のようだった。
彼女は言った。
「あまいの」
「赤くて、手のひらに収まらないくらい大きくて、包丁がいらないくらい柔らくて、とびきり甘いの果物」
天使さん、どこにあるか知ってる?
首を傾げてこちらを見る彼女は、まるで天使のような笑みを浮かべてそう言った。
ーーーーーー
「ねぇお願い!ちゃんとお世話するから!」
「ダメだよ、元いた場所に返して来なさい」
「随分な言い草だな、おい」
別に誰も彼もに歓迎されるような人生は送っていなかったが、つい拾われた捨て犬のような扱いをされつい声に出た。
「だって!この人の家火事で焼けちゃったんだって!」
「大人なんだからどうとでもなるよ。少し行けば宿だってあるし」
「でもかわいそうだよ!こんなに寒いのに森で寝ようとしてたんだよ!お金がないのかも……」
「うっ、確かにそれはかわいそうかも……。確かにそう言う時に助けてくれる知り合いもいないってことだし」
兄弟の会話を聞いて思った、(あ、優しさにこんなに切り裂かれることってあるんだ)と。
ちなみにシリウスにとってあの森は実家のようなものなので、気分的には一人暮らしの家が住めなくなったから実家に帰ったくらいの気持ちであった。
とりあえずシリウスは目の前でちんまりと話し合うニ人の兄妹を眺めていた。必死にうちに招く少女が面白くてついてきたが、シリウス的には寝床は問題視していない。
しっかり者のお兄さんが少女を諦めさせてくれるだろうし、どうせ町まで降りてきたしこの後はこのまま酒場にでもしけ込むかと考える。
「それでもうちに人一人養う余裕はないし」
「うーん、じゃあスピカの分のパンは半分分けてあげる!お手伝いもいっぱい頑張るから!」
「ちゃんと二人分用意するからスピカの分はスピカが食べなさい!……うーん、でもやっぱり人の世話をするってすごく難しいことなんだよ」
「頑張る!お隣のおばさんにも分かんないことあったら聞く!野菜もちゃんと食べさせるし散歩もする!」
「うーん……それなら……」
「ちょっ、ちょっと待って待って」
いや、ぼんやりとしている間に自分が飼育される計画が着々と進んでいた。なんでだ、頑張ってくれお兄ちゃん。
少女は焦る俺の手をとって言った。
「大丈夫だよ。私が最後まで面倒見るよ。最後まで、だから一緒にいてね」
「…………」
今日はやはりついてない。まるで最悪な一日を、シリウスは兄妹に挟まれたベッドの中で思うのだった。
ただし今思うとその一日は素晴らしく恵まれた日々の一日目。
かくして、シリウスは二人の幼い兄妹と暮らすこととなる。
スピカ、レグルス。俺の宝、誇り、一等星と。




