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初鎧

 翌朝、カイはいつもの机に髭紙の束を用意していなかった。


 手帳も、ペンも開かれていない。ただ、黒い外套を羽織ったまま、無言で扉の前に立っていた。


「来い」


 ミナを伴って路地を抜け、市場通りを横切る。工房街へ向かう道で、街の空気が変わった。


 石畳が終わり、地面の素材が変わる。表皮土壌の下から伝わる鼓動が、より直接的に足の裏を叩いてくるようになった。


「ここ、さっきより鼓動が強い」カイは振り返らずに答えた。「背骨帯の上だ」それだけだった。


 工房街は、他の街区とは違う匂いがした。油と、熱せられた骨材の煤の匂い。骨を火で炙ると、こういう匂いがするのだと、翔は初めて知った。


 通りの両側に、様々な工房が並んでいた。髭紙を調律する工房。脈騎の骨輪を整備する工房。小さな脈石を磨く工房。各工房の扉から、朝の早い作業の音が漏れていた。鎚の音、石を削る音、脈水を汲む柄杓の音。職人たちの朝が、翔たちのそれより、二時間は早く始まっていた。


 翔は、それぞれの工房を横目に見ながら歩いた。この世界の生活が、どれだけの手の仕事で支えられているかを、初めて翔は考えた。豊原盟市の鼓動が、市場の活気や訓練の汗だけで鳴っているわけではなかった。もっと下の層に、こういう朝の職人たちの手の動きがあった。


 カイは一度も足を止めず、歩き続けた。翔には、カイが工房街のどこを目指しているのか、まだ分からなかった。翔は鼓動の強さが変わるのを、足の裏で感じていた。最初は石畳の上で遠くにあった鼓動が、工房街の中央に近づくにつれて、土の中から直接、翔の骨まで伝わるようになっていた。


 その中央に、一際巨大な工房があった。扉の上には、翼のように広がる骨線の意匠——白衛隊の紋章が掲げられている。


 中に入ると、壁一面に鎧が並んでいた。


 ただの金属の塊ではない。白銀の外殻は滑らかな流線型を描き、ところどころに空鯨の繊維が編み込まれている。関節部には薄い皮膜が張られており、硬いはずの装甲が、呼吸するように微かに膨張と収縮を繰り返していた。翔は手を引きそうになった。


 翔は、壁の鎧のうち一つに、わずかに近づいた。


 手は、触れる直前で止めた。触れたら、髭紙の時と同じように、翔の生体波長が干渉して、鎧が反応する気がしたからだ。まだ早い。翔は、自分の生波を、鎧に対しても、慎重に扱う必要があると、本能で理解していた。


 関節の皮膜が、一定のリズムで膨張と収縮を繰り返していた。翔は、その動きを数えた。四秒で膨張、六秒で収縮。人の呼吸よりも、少しだけ遅い周期だった。


「呼吸してる」翔は小声で言った。


「死んだ鎧は、使えない」カイは後ろから答えた。「骨格から削り出した鎧は、空鯨と同じリズムで呼吸を続ける。それが止まったら、寿命だ。次の鎧に替える」


「これ、誰のだった」


「まだ誰のものでもない」


 まだ誰のものでもない、という言葉が、翔の中で、奇妙に響いた。翔は、これからこの鎧の最初の主人になる、ということだった。その後は誰の主人になるか、カイにも分からない、ということでもあった。


「着ろ」


 言われるがままに腕を通す。驚くほど軽かった。そして、身体に完全に密着した瞬間、鎧の内側が微かに熱を持った。


 熱は、皮膚の表面ではなく、鎧と皮膚の間の、薄い空気の層から来ていた。仕組みは、翔には分からなかった。ただ、体温が、鎧と自分の境目で、少しずつ同じになっていくのが、感覚として分かった。


 胸の前の、心臓の上の位置——そこに、螺旋の刻印があった。


 翔は鎧越しに、その位置に掌を当てた。掌の下で、刻印が、微かに熱を返した。他の部分の鎧の熱よりも、ほんの少しだけ、強い熱だった。翔は、その熱を、覚えた。これから翔が戦う時、この熱が、翔の呼吸に合わせて、強くなったり弱くなったりする。それが、鎧と翔の対話になる。


 どくん。


 鼓動が、鎧から返ってきた。足元の大地の脈動と共鳴するように、鎧そのものが翔の身体と一体化し、呼吸を始めている。


 その感触に、翔は息を止めた。


 髭紙を初めて掌で浮かせた時と、同じだった。足元の鼓動に呼吸を合わせる。意識を繋ぐ。自分の身体の延長として扱う。違うのは、紙一枚ではなく、今は全身がそれに包まれていることだけだった。


「感情は捨てるな」カイが言った。理由は言わなかった。


 翔は聞いた。「カイさんの鎧は、何が触媒なんですか」


 カイのペンが、一瞬だけ止まった。「観測への執着だ」それだけ言って、また動き出した。


 翔はカイの後ろ姿を見た。カイはもう翔の方を見ていなかった。手帳に何かを書いていた。ペンの動きが、いつもの速度に戻っていた。


 観測への執着。翔はその言葉を、頭の中で反芻した。執着、という言葉が、カイにはあまり似合わなかった。カイはいつも淡々としていて、執着のない人のように見えた。でも、鎧の触媒が執着だというなら、カイの中には、淡々としていて表に出ないだけの、執着があるということだった。


 翔は、自分の鎧の触媒が何なのかを、まだ知らなかった。何か、自分の中に、鎧と共鳴する感情がある。その感情が何なのかを、翔は、これから時間をかけて、自分で見つけることになるのだろうと思った。「感情は捨てるな」とカイが言ったのは、そういう意味だったのかもしれなかった。


 ミナが翔の隣で、鎧を見ていた。


「ソラの鎧、ソラに合ってる」ミナは言った。


「合ってるって」


「呼吸のリズムが、もう合ってきてる」


 翔は鎧の関節の皮膜を見た。さっきの四秒で膨張、六秒で収縮、というリズムが、今は、少しだけ変わっていた。翔の呼吸のリズムに寄ってきていた。鎧が、翔に合わせ始めていた。翔も、知らないうちに、鎧に合わせ始めていた。


 工房裏に広がる訓練場へ出た瞬間、翔の顔からさっきまでの熱が急速に引いた。


 十人ほどの兵士が並んでいた。全員が、翔とまったく同じ白銀の生体鎧を着ている。全員が、当たり前のようにこの力を使いこなしていた。


「白衛隊の基礎装備だ」とカイが言った。


 兵士たちは、訓練の基本動作をしていた。髭紙を展開し、鎧の増幅を使って跳躍し、着地して、また展開する。動きの流れが、全員、揃っていた。音もなかった。鎧の皮膜が呼吸する音と、脚部が地面を踏む音の、それだけだった。


 翔は、自分の鎧の新しさが、急に恥ずかしく感じられた。翔の鎧は、まだ一度も実戦を経ていなかった。翔の身体の汗を一度吸っただけで、まだ翔のものになりきっていなかった。でも訓練場の兵士たちの鎧は、表面に微かな傷があり、関節の皮膜に汚れがあり、主人と長く生きた時間の跡が残っていた。


 兵士の一人が、翔の方を一度だけ見た。視線は短かった。関心があるのではなく、新入り、という認識の、最低限の一瞥だった。その兵士は、すぐに訓練の動きに戻った。他の兵士たちは、翔を一度も見なかった。


 翔は、訓練場の端で、自分の鎧の螺旋の刻印に、もう一度、掌を当てた。刻印の熱が、さっきと同じ熱で、返ってきた。翔だけの熱、だった。兵士たちの鎧には、この刻印がない。それだけが、翔を、他の兵士と分けていた。


「じゃあ……俺だけが特別ってわけじゃないのか」


「違う」即答だった。翔は訓練場の兵士たちを、もう一度だけ見た。全員が、当たり前のようにこの力を使いこなしていた。翔は視線を足元に落とした。


 特別ではない、とカイは即答した。翔は、その即答の速さに、少しだけ傷ついた自分に気づいた。気づいて、その自分に苦笑した。翔は、この世界に来てから、自分のどこかで、自分が特別な存在であってほしいという願いを、無自覚に持っていた。落下者であること。この世界でだけ見える人がいること。それに意味があってほしいと、翔は思っていた。


 カイは、その願いを、一言で、きっぱりと、削ぎ落とした。


 翔は、兵士たちの並びをもう一度見た。十人。全員が、翔と同じ鎧を着ている。翔はその中の一人だった。翔は、その事実を、少しずつ、受け入れ始めた。自分が普通であることは、この世界では、救いかもしれなかった。突出した誰か、ではなく、十人の一人。


「ただし」


 翔は顔を上げた。


 カイの視線は、翔の胸甲——心臓の上の位置へ向けられていた。「お前の鎧だけ、調律式が違う」


 言われて見下ろすと、白衛隊の一般紋章とは別に、ごく小さな刻印が埋め込まれていた。螺旋状に編み込まれた骨線。


 見覚えがあった。カイの部屋にあった封じられた紙束に刻まれていた紋様と、酷似している。


「どういう意味だ?」


「お前が死なないための、最低限の誤差だ」


 カイはそれ以上説明しなかった。


 翔は、刻印をもう一度見た。


 螺旋。カイの小屋で封じられていた紙束の紋様と、酷似している。翔はその紋様に、小屋で初めて触れた時、『届かなかった言葉は、まだここにある』という声を聞いた。その声の主の紋様が、今、翔の胸甲に、小さく、しかし確かに、刻まれていた。


 翔は聞きたかった。この螺旋は、あの封じられた紙束の主の、遺したものなのか。もしそうなら、なぜそれが翔の鎧に刻まれているのか。カイは、翔を、あの紙束の主の代わりにしようとしているのか。


 聞けなかった。


 カイは既に翔の方を見ていなかった。手帳を閉じていた。閉じる動作が、いつもより、ほんの少しだけ、急いでいた。翔は、この話をもう続けてはいけないのだと、気配で分かった。続けても、カイは答えないだろう。答えないこと自体が、ここでは、答えだった。


 翔は、胸甲の刻印から、手を離した。


 手を離した後も、螺旋の熱は、翔の掌に、わずかに残っていた。


 問いの答えより早く、訓練場の向こう、市場の方向から、空気を切り裂くような音が鳴り響いた。


 カンッ、カンッ、カンッ!


 高く、乾いた警鐘。訓練していた兵士たちの動きがピタリと止まり、一斉に市場の方角へ振り向いた。一人が血相を変えて叫ぶ。


「群れ鮫だ!」


 空気が一気に張り詰める。カイが翔を見た。「初実戦だ。遅れるな」


 翔は胸甲に手を当てた。螺旋の刻印が、指先に微かな熱を返した。「……分かった」


 翔は走り出した。鎧が、足に絡みつくことなく追従した。


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