群れ鮫
警鐘の音は、空鯨の骨格そのものを震わせるように鳴り響いていた。
甲高い金属音が蒸気管を伝って街中に反響し、市場の方角からは悲鳴と怒号が津波のような勢いで押し寄せてくる。
「来い。遅れるな」
カイが短く命じた。
市場通りへ飛び出した瞬間、翔は息を呑んだ。
つい先刻まで活気に満ちていた通りが、一変していた。逃げ惑う人々。倒された露店から散乱する商品。泣きながら走る子ども。
そして、上空。
建物の影から、その存在が現れた。翔の頭が、一瞬だけ何も考えられなくなった。全長二メートルを超える、灰青色のしなやかな魚体。水の中ではなく、空鯨の吐き出す蒸気の風に乗って空中を泳いでいた。腹側には虫のような無数の脚が蠢き、牙の並んだ口から粘液が滴っている。
群れ鮫。
「うわぁっ!」
屋根の上から、一体が翔に向かって飛びかかってきた。
翔の身体が硬直した。牙が迫る。間に合わない。
銀色の何かが視界を横切った。
ギィィィンッ!
宙を舞った群れ鮫の胴体が、中空で裂けた。
翔の目の前に、一人の少女が音もなく着地した。
小柄な体躯。灰色の獣耳が警戒心を表すようにピンと立ち、長い尾が感情を殺すようにゆっくりと揺れている。短い上着に実戦重視の軽装鎧。両手には、逆手に持った一対の細身の双刃。着地の音が、しなかった。
少女は振り返りもせず、吐き捨てるように言った。
「邪魔。死にたいならよそでやって」
「助けてくれた側が言う台詞か、それ」
「ミミだ」カイが後方から淡々と告げた。
ミミと呼ばれた少女は、鼻を鳴らして再び双刃を構える。
「カイ、こんな弱そうなの拾ってきてどうすんの。訓練場に飾っておくための置物?」
「実戦だと言ったはずだ」
カイの声が響くのと同時に、さらに三体の群れ鮫が建物の影から飛び出してきた。
「ミミ、左を。ソラ、右の一体を髭紙で逸らせ」
「わかった!」
翔は震える手で腰のポーチから髭紙を抜き取った。足元の鼓動に、呼吸を合わせる。右側から突っ込んでくる群れ鮫。その顎が迫る寸前、翔は髭紙を前方に展開した。
髭紙が扇状に広がり、大気の密度を急激に変える。
「いけ……っ!」
紙に弾かれた群れ鮫の軌道が、不自然に右へと逸れた。その隙を、ミミが見逃さなかった。双刃が交差し、一瞬のうちに二体の首を跳ね飛ばした。
その時、逃げ遅れた客が建物の角で群れ鮫に追い詰められているのが見えた。
「あそこだ!」
翔が駆け出そうとするが、距離がある。
「そこの脈石を使え!」ミミが叫んだ。
視界の隅に、地面すれすれでゆっくりと浮遊する脈石が見えた。翔は迷わず、その脈石を強く踏みつけた。
どくんっ!
石が弾けるように強く光り、翔の身体を垂直に跳ね上げた。
空中で姿勢を制御し、髭紙を円環状に展開して群れ鮫の攻撃を弾き飛ばす。そのまま石畳に着地し、客を背後に庇った。
「逃げて!」
遅れてミミが飛び込み、残りを仕留める。
市場の喧騒が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
翔は肩で息をしながら、ようやく力を抜いた。手が、まだ震えている。膝も笑っていた。でも、立っている。
「……あんた」ミミが双刃を鞘に収め、翔に近づいてきた。口の端を上げた。「頭のネジが外れてるか、ただのバカね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ミミはふん、と顔を背けた。
その時だった。ミミの灰色の耳が、ぴくりと動いた。一度だけではなかった。根元から、ゆっくりと、何かを探るように左右へ動く。鼻先が、わずかに上を向いた。空気の流れを読んでいるような、本能的な仕草だった。
その視線が、翔のすぐ隣へと落ちた。ミナが立っている、何もない空間へ。
翔は息を止めた。ミミの目が、その空間の輪郭をなぞっている。見えているわけではない。でも、確かに「何かがいる」と感じている目だった。
「……ねえ」ミミは翔を見ず、その空間を見たまま言った。「今、誰かそこにいる?」
翔は一瞬だけ迷った。「……誰もいないよ」
ミミは少しの間、黙っていた。耳がもう一度、ぴくりと動く。それから、ゆっくりと視線を翔へ戻した。「そう」それだけだった。でもその目は、翔ではなく、まだ少しだけ別の場所を見ていた。
「あーあ、制服が体液まみれ。最悪」ミミは気持ちを切り替えるように、軽い声で言った。「新入り、あとで酒場の店主に言って一番いい肉を奢らせなさいよ。私の分もね」
彼女は背を向けて歩き出した。翔はその背中を見た。生意気で、乱暴で、何でもないふりをしている。翔はミミの背中を見ながら、あの耳のことを思った。ミナの気配を、確かに拾っていた耳のことを。
ミミの背中が、市場通りの雑踏の中に、少しずつ紛れていった。翔は、ミミが最後に振り返るかどうかを、見ていた。ミミは振り返らなかった。でも、歩き方に、翔を背中で見ている気配があった。
「あの人、またどこかで会うのか」翔はミナに聞いた。
ミナは少し間を置いた。「たぶん」
「たぶんって」
「あの人、わたしの気配を拾った。一度拾った人は、もう一度、どこかで会うことが多い」
ミナはそれ以上は言わなかった。翔はその「たぶん」を、少しだけ覚えておこうと思った。
カイが、ミミが去った方向を、一度だけ見た。カイの目は、ミミの姿ではなく、ミミがさっき耳を立てた方向——翔の隣、ミナのいた空間——を見ていた気がした。気がしただけかもしれなかった。でも翔には、カイがミミの行動を、いつもの観測対象として手帳に書き留めようとしているのが、分かった。書き留めずに、カイは顔を戻した。今日は、書き留めないことを選んだ、という顔だった。
翔は、群れ鮫の体液で汚れた鎧の胸甲を見た。胸甲の中央の螺旋の刻印にも、薄く、体液が付いていた。翔はそれを、手のひらで拭き取ろうとして、止めた。拭き取るのが正しいのか、最初の戦闘の痕跡として残しておくのが正しいのか、翔には、まだ判断がつかなかった。判断がつかないまま、翔は、体液を拭かないことにした。
初実戦の痕跡が、螺旋の上に、薄く残った。
「行くぞ」カイの声が、夜気に響く。
翔は胸甲に手を当てた。螺旋の刻印が、じわりと熱を返した。




