月夜と、届かなかった言葉
その夜は、月が出ていた。
翔は眠れなかった。カイの小屋の外に出て、石畳の上に腰を下ろした。空鯨の鼓動が、足の裏から伝わってくる。どくん、どくん。今日一日の重さが、そのリズムに溶けていくような気がした。
ミナが隣に来た。いつものように、音もなく。
「眠れないの?」
「なんか、頭が静かにならない」
ミナは翔の隣に座った。その足元に、鼓動の波紋がない。翔はもうそれに驚かなかった。ただ、いつものように、そこにいることを確認した。
「今日の蝕獣」翔は言った。「あれが増えてるの、街の人は知ってるのか」
「知ってる」ミナは言った。「みんな、知ってて、知らないふりをしてる。知ったところで、どうにもならないから」
「ミナは」翔は空を見上げた。「この世界を、ずっと見てきたのか」
ミナは少し間を置いた。「……うん」
「どんなふうに見えてる」
ミナはしばらく黙っていた。翔の隣で空を見ていたが、ふと視線が街の方へ落ちた。灯りが点在している。誰かが笑う声が、遠くから聞こえた。「人が、生きてるのを見てる」ミナはやがて言った。「生まれて、笑って、怒って、泣いて、誰かを好きになって、失って、それでもまた笑って。それを、ずっと見てる」
「楽しいか」
「……楽しいとか悲しいとか、そういうんじゃないと思う。ただ、見てる。でも」
ミナは足元を見た。波紋のない、静かな石畳。
「最近は、見てるだけじゃいられない気がしてる。なんでかは分からない」
翔はミナを見た。その横顔が、月光の中で少しだけ揺れて見えた。
「俺のせいか」
「……かもしれない」
翔は苦笑した。「迷惑だったか」
「ううん」ミナは、首を横に振った。「そうじゃない」
背後で、扉の開く音がした。
カイだった。外套を羽織ったまま、石畳の端に立った。翔とミナを見て、特に何も言わなかった。ただ、空を見上げた。
翔は少し迷ってから、口を開いた。「カイさん、眠れないんですか」
「眠る必要がない時は眠らない」
「それ、人間の言葉じゃないですよ」
カイは答えなかった。
しばらく三人で、黙って月を見ていた。
それからカイが、ふと言った。「隣に誰かいるな」
翔は息を止めた。
カイは翔の隣——ミナがいる空間を、まっすぐに見ていた。眼鏡の奥の瞳が、いつもと少し違う角度でそこを捉えていた。
「……見えるんですか」
「見えない」カイは言った。しばらく間があった。「ただ、お前の隣だけ、脈動の乱れ方が違う」それだけだった。でもその一言で、翔には充分だった。
翔はミナを見た。ミナはカイを見ていた。驚いた顔ではなかった。どこか、安心したような顔だった。
「ミナって言います」翔は言った。「俺が落ちてきた時から、ずっと一緒にいる」
カイは少し間を置いた。「名前があるのか」
「あります」
「何者だ」
翔は答えられなかった。ミナも、何も言わなかった。
カイは無理に聞こうとしなかった。ただ、ミナがいる方向を一度だけ見て、それから空へ視線を戻した。
「お前の隣にいる存在が、お前を守っている」カイは平坦な声で言った。「それだけ分かれば充分だ」
ミナが、小さく息を吐いた。翔には聞こえないはずの音だったが、なぜか聞こえた気がした。
「ミナ」翔は少し経ってから言った。「俺、なんでここにいるんだろうって、たまに思う」
ミナは黙って聞いていた。
「落ちてきた理由が分からない。誰かを呼ぼうとしてた。伝えなきゃいけない言葉があった。でも、何を言おうとしてたのかが思い出せない」
空鯨の鼓動が、一度だけ深く鳴った。
「……現世に、誰かいるの?」
翔は少し間を置いた。「いると思う。窓際の席にいた。目が合いそうになるたびに、俺が視線を逸らしてた。声をかけようとして、かけられなかった。一回だけ電話がかかってきて、折り返せなかった」
「名前は」
「思い出せない」翔は自分の手のひらを見た。「顔も、声も、なんとなく分かる気がする。でも、名前だけが出てこない」
翔は手のひらを、少しだけ開いた。
開いた手の上に、夜風が薄く通り抜けた。その風の中に、もし名前があったら、翔には呼べるはずだった。呼べなかった。名前は、風の中にも、空の上にも、地面の下にもなかった。どこか、翔自身の中の、たどり着けない場所に、閉じ込められていた。
「変な話、だけど」翔は言った。「名前を思い出そうとすると、一音目の、『あ』っていう音だけは、出てくる気がする」
「あ、」
「うん」
「続きは」
「続きが、出ない。『あ』の次に何が来るのか、口が覚えていない」
ミナは何も言わなかった。でも、その沈黙の質が、他の時とは違っていた。ミナは、聞いていた。聞いていて、その「あ」の一音を、自分の中で、何度か繰り返しているような、そういう沈黙だった。
月の光が、雲の縁を滲ませた。
「なあ、ミナ」翔は続けた。「その『あ』が、『あ、』って一音で切れるのか、『あー』って伸びるのか、それすら、今は分からない」
「……うん」
「情けないな」
「情けなくない」ミナは言った。「『あ』だけでも、覚えてる」
その言い方が、翔の中で、少しだけ止まった。『あ』だけでも、覚えてる——ミナは、翔の欠損ではなく、翔の残存の方を、先に見てくれた人だった。
「いつか、思い出す」翔は小さく言った。「思い出す。絶対に」
「うん」ミナは言った。「思い出す」
それは、予言ではなく、ただの相槌のようだった。でも翔には、その「うん」の中に、ミナが何かを確かにしてくれた感触があった。
翔は空を見上げた。
月が、少し雲の下に入りかけていた。雲を透かして、月の輪郭だけが、薄く滲んでいた。月の形が、翔には完全には見えなかった。見えないまま、翔には、月がそこにあると分かった。
「あの人」翔は、空を見たまま、言った。「俺が思い出したいその人、今、何をしてるかな」
ミナは少し間を置いた。「たぶん、寝てる」
「根拠あるのか」
「ない」ミナは言った。「でも、夜だから」
「……そうだな」
翔は、少しだけ笑った。笑ったことが、自分で、意外だった。名前を思い出せない相手について、笑いながら話せる日が、来るとは思っていなかった。
ミナは何も言わなかった。でも翔は、ミナの横顔が、月光の中でわずかに揺れたのを見た。
「取り戻さなきゃいけない気がする」翔は続けた。「声をかけられなかったこと。折り返せなかったこと。ここに来る前に、ちゃんと繋いでおかなかったこと。それをそのままにして帰ったら、一生引きずる気がする」
ミナは、少しだけ俯いた。
「……うん」
その一言だけだった。でも翔には、その「うん」の中に、ミナが何か大きなものを飲み込んだのが分かった。
月が、雲の間から顔を出した。
その時だった。広場の隅、脈石灯の光が届かない暗がりに、白いものが見えた。輪郭があった。小柄だった。頭の上に、ぴんと立った耳があった。
翔は息を止めた。
ミミだった。
月夜は見えやすい——いつか誰かが言っていた気がした。
ミミは暗がりの中で、もじもじしていた。翔を見た。それから、翔の隣を見た。ミナがいる場所を。
ミミの耳が、ゆっくりと前を向いた。
ミナが、立ち上がった。
二人は、少しの間、向き合っていた。声は聞こえなかった。でも、何かが交わされていた。
ミミが、小さく笑った。ミナも、小さく笑った。
それから、ミミは翔を見た。口が動いた。声は聞こえなかったが、読めた。
ちゃんとしろよ、新入り。
翔は笑った。声が出た。
ミミは、それから、もう一度ミナを見た。今度は、深く頷いた。頷いた後で、何かを託すような形で、少しだけ首を傾けた。ミナが、それに応える形で、頷き返した。ミミは、満足したようだった。
翔は、二人の間で何が交わされたのか、完全には分からなかった。でも、翔はその場にいてよかったと思った。ミミは、ミナに、翔のことを、頼んだのかもしれなかった。ミナは、それを引き受けたのかもしれなかった。ミミもミナも、翔の知らないところで、翔のことを、少しずつ、一緒に支えようとしていた。
ミミが去っていった暗がりを、翔はしばらく見ていた。ミミがそこに立っていた時間が、まだ少し、同じ場所に残っているような気がした。
カイが、翔の笑い声を聞いて、一度だけこちらを見た。それから、また月を見た。眼鏡のレンズが、月光を静かに反射していた。




