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触獣と街の匂い

 朝、カイの小屋に依頼票が一枚、滑り込んでいた。


 翔が訓練の準備をしていると、カイが無言でそれを机の上に置いた。


「読め」


 羊皮紙を広げると、几帳面な文字でこう書いてあった。市場東区、蒸気管街道沿いの倉庫群。三日前から蝕獣の目撃情報。荷運びの男が一人、腕を噛まれた。白衛隊は手が回らず。討伐依頼。報酬、銅貨十二枚。


 白衛隊が手を回せない。翔はその一行を、もう一度だけ読んだ。


「俺が行くんですか」


「ミミと二人で行け」


 翔はミミを見た。ミミは壁にもたれたまま爪を眺めていた。「聞いてた?」


「聞いてた」


「嫌じゃないのか」


「別に。たまには動かないと鈍る」


 カイは手帳を開きながら言った。「報告は夕方までに。死ぬな」


 励ましにも何にもならない言葉だったが、翔はなぜかそれで十分だった。


 市場東区へ向かう道すがら、翔は街の空気が変わっていることに気づいた。


 いつもと何かが違う。音の密度が違う。視線の向きが違う。


 露店の店主たちが、客と世間話をしながらも、ちらちらと東の方角を見ていた。荷物を抱えた親子連れが、足早に通り過ぎていく。子どもの荷物が多かった。着替えや食料が詰まっているのが、膨らんだ布袋の形から分かった。


「あの親子」翔は小声で言った。「引っ越してきたのか、それとも逃げてきたのか」


「逃げてきた方」ミミは前を向いたまま答えた。「荷物の持ち方が違う。住み慣れた場所から出る時、人は大事なものを体に近い方に持つ」


「どこから」


「北の集落。鋼冠の先遣隊が脈線を越えたって話、もう広まってる。ここは今のところ安全だから人が集まってきてる。ただ」


 ミミは足を止めた。酒場の前に、一枚の紙が貼り出されていた。


 討伐依頼:蝕獣(中型) 報酬応相談 近隣三件


 その下にも、別の紙。


 蝕獣による被害報告 今月:十七件 先月比:四倍


 ミミは紙を一瞥した。それから何も言わずに、また歩き出した。「ミミ」


「見た」


「どういうことだ」


「後で分かる」


 倉庫街は、昼間なのに薄暗かった。


 蒸気管が密集して空を覆い、石畳には茶色い染みが点々と続いていた。蝕獣の体液だと翔はすぐに分かった。群れ鮫と戦った時のあの匂いが、微かに残っていた。


「いる」ミミが耳をぴくりと動かした。「三体。倉庫の中と、屋根の上に一体」


「屋根の上は俺が行く」


「やめとけ。あんたまだ高いとこからの制御が甘い」


「じゃあ俺が中に入る」


「それはいい」


 翔は腰のポーチから髭紙を抜いた。五枚。足元の鼓動に呼吸を合わせる。倉庫の石畳から伝わる脈動は、弱い。でも、ある。


 倉庫の扉を開けた瞬間、暗闇の中から二つの気配が動いた。


 群れ鮫より小さい。だが、素早かった。壁と天井を使って、三次元的に動いてくる。翔は視界を分割した。右の動き。左の影。足元の脈動の変化。


 右から来た一体に向かって、髭紙を二枚展開した。扇状に広げるのではなく、今度は筒状に丸めて圧縮する。カイに教わった応用だ。圧縮した髭紙が、空気の密度を局所的に変えて壁を作る。蝕獣が正面から激突して弾かれた。


 その隙に、左から来た二体目へ。今度は髭紙を一枚、鎧の螺旋の刻印に重ねた。熱と冷が交わる瞬間、髭紙の端が固く鋭く変形した。刃だ、と翔は思った。カイに教わっていない動きだった。一閃。蝕獣の核が弾ける。


 二体目が仕留まった瞬間、弾かれた一体目が立て直して突っ込んでくる。翔は後ろへ跳んだ。背中が壁に当たる直前、翔は足の裏で空鯨の鼓動を掴んだ。掴んだ瞬間、踏み出した足が、普段の何倍もの力で、壁を蹴った。壁を踏み台に、翔は跳躍し、上から髭紙を叩き込んだ。


 静かになった。


 翔は荒い息を整えながら、倉庫の外へ出た。ミミが屋根から飛び降りてくるところだった。外套に返り血一つついていなかった。


「……速くなった」ミミが言った。


「そうか」


「褒めてる」


 翔はミミを見た。ミミはもう翔を見ていなかった。双刃を鞘に収めながら、どこか遠くを見ていた。


「ねえ」翔は言った。「蝕獣って、何なんだ。クジラの病気みたいなものか」


「寄生虫みたいなもの」ミミは言った。「クジラの体内に元からいる。普段は数が抑えられてる。でも今は、クジラの調子が悪いから、あちこちで増殖してる。街に出てくるのは、それが表面近くまで溢れてきてるから」


「治せないのか」


「クジラ自身が治せなくなってきてる。自分で自分の体を守れなくなってきてる」


 翔は倉庫街の空を見上げた。蒸気管の隙間から、細い青空が見えた。


「カイさんが言ってた。根にある問題だって」


「そう」ミミは短く言った。「外側をいくら直しても、クジラが死んだら終わり」


 二人は少しの間、黙って立っていた。


 報告を終えて、夜になった。


 酒場は混んでいた。いつもより客の顔ぶれが違った。見慣れない顔が多い。荷物を足元に置いたまま飲んでいる者が目立つ。難民だと翔には分かった。


 ミミは翔の向かいに座って、胞子酒を一杯だけ頼んだ。飲まずに、コップを両手で持ったまま、テーブルを見ていた。


「ミミ」翔は言った。「一個聞いていいか」


「内容による」


「お前、霊族なのか」


 沈黙が落ちた。ミミは、コップを、少しだけ強く握った。


 それから、ミミはコップを置いた。翔を見た。いつもの生意気な目ではなかった。少しだけ、何かを測っているような目だった。


「……正解」


 翔は息を止めた。


「獣人が好きなの」ミミは言った。「鼓動があるものが好き。空鯨の背の上で、生き物として生きてみたかった。だからこの体を借りてる」


「死んだら」


「どうなるんだろうね」ミミは少し考えるように首を傾けた。「戻るのか、消えるのか、分からない。試したことないから」


 翔はテーブルの上の自分の手を見た。「ミナも、同じ種族なのか」


 ミミは少し間を置いた。「違う」


「違う?」


「霊族は、生き物の体に宿る。あるいは自分で形を作る。でもミナは——」ミミは言葉を切った。「なんか、違う感じがする。もっと、古い感じ。もっと、でかい感じ」


「でかい」


「うまく言えない」ミミはコップを持ち上げて、一口だけ飲んだ。「霊族同士なら、なんとなく分かるんだよ。同じ匂いがするから。でもミナは、その匂いが違う。霊族っぽいのに、霊族じゃない。もっと根っこにある何かみたいな」


 翔は、その言葉を頭の中で転がした。もっと根っこにある何か。


「ミミはミナが見えるのか」


「見えない。でも分かる。気配がある。お前の隣にいる時、空気が変わる」


 翔はミナがいる方を見た。ミナは翔とミミの会話を、壁際で静かに聞いていた。その横顔は、何かを確認しているような顔だった。


「ミナ」翔は言った。「ミミが、お前のことを感じてるって」


 ミナは少しだけ目を瞬かせた。それから、ミミの方を見た。ミミも、ミナがいる方向を見た。二人は、直接見えているわけではない。でも、確かに向き合っていた。


 ミミが小さく頷いた。ミナも、小さく頷いた。


 でも翔には、その無言の中で何かが交わされたのが分かった。


 夜が更けて、翔とミナはカイの小屋に戻った。


 カイは机の前にいた。手帳を開いて、いつものようにペンを走らせていた。翔が入ってきた音で、カイは一瞬だけ顔を上げた。顔を上げたが、翔には質問をしなかった。


 翔は、少し迷った。今日、酒場でミミから聞いたことを、カイに伝えるべきか、伝えないべきか。伝えれば、カイは手帳に記録する。記録すれば、カイの観測の一部になる。でも、伝えなければ、それはミミと翔だけの、隠し事のようなものとして残る。


 翔はミナを見た。ミナは翔の隣で、黙っていた。伝えても、伝えなくても、どちらでもいい、という顔だった。選ぶのは翔、という顔だった。


 翔は、カイの方を見た。


「カイさん」


「なんだ」


「今日、酒場で」


 翔はそこで止まった。止まった自分に、翔自身が驚いた。本当は、続けて、伝えるつもりだった。でも、口が、止まった。続かなかった。


 カイは翔を見なかった。ペンも止めなかった。


「……話すなら、話せ」カイは言った。「話さないなら、話さなくていい」


 カイはそれ以上、翔に促さなかった。


 翔は、しばらく立っていた。立っていた間、翔は考えた。自分が何を伝えたくて、何を伝えたくないのか。伝えたくない方が、少しだけ強かった。ミミが翔に打ち明けた内容は、ミミが翔だけに打ち明けたものだった。カイにも打ち明けてもよかったはずなのに、ミミはそうしなかった。それは、ミミが選んだことだった。


「……何でもないです」翔は言った。


「そうか」カイは答えた。


 ペンの音が、また続いた。カイは翔に何があったのかを、聞き直さなかった。聞き直さないまま、また書き続けた。翔は、そのペンの音を、しばらく聞いていた。


 翔は自分の寝床に向かった。


 ミナが翔の隣に立って、その背中に、霧のような冷たさで、そっと一度だけ触れた。触れたことは、翔にだけ分かった。


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