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何でもない一日

 朝、翔は自分の寝息で目を覚ました。


 カイの小屋の裏手に、物置だった小部屋があった。翔に与えられたのはそこだ。木箱が三つ積まれていた場所を空けて、薄い寝具を敷いた。最初の夜、翔は天井を見上げながら、ここが生き物の上だということを忘れまいとしていた。三日目には、忘れていた。人間は慣れる。翔はそれに少しだけ驚いていた。


 起き上がって、壁に掛けたブレザーを見た。紺色。皺だらけ。市場を歩いても誰も振り向かない服に、もう着替えていた。翔はブレザーを一度だけ手に取って、元の場所に戻した。捨てる気にはならなかった。


 扉を開けると、ミナが立っていた。


「早いな」翔は言った。


「ずっと起きてた」


「寝ないのか」


「寝る必要がない」


 翔は少し笑った。「それ、カイさんと同じ台詞だぞ」


 ミナは少しだけ首を傾けた。「似てる?」


「似てない。似てないけど、言い方が似てる」


 ミナは笑った。その笑い方が、翔の胸の奥で何か別のものに触れた気がした。でも、それが何かは分からなかった。翔は深く追わなかった。


 小屋の表に出ると、カイが机の上で手帳を開いていた。朝の光が細く差し込んで、インクの跡を照らしていた。翔が通ると、カイは顔を上げなかった。ただ、一言だけ言った。


「今日、訓練は午後からでいい」


 翔は足を止めた。「珍しいですね」


「溜まっているものが多い。整理する時間が要る」


 翔にはそれが何のことか分からなかった。手帳のことなのか、棚の紙のことなのか、それとも別の何かなのか。カイは目を上げなかったので、聞けなかった。


「じゃあ、街に出てきます」


「好きにしろ」


 扉を閉める直前、翔は一度だけ振り返った。カイの背中が、机に向かっていた。その背中が、普段よりほんの少しだけ、疲れて見えた気がした。翔はそれを見なかったことにして、扉を閉めた。


 市場は、いつもと同じ匂いをしていた。


 胞子パンの発酵臭。伴生獣の肉を燻す鉄錆の匂い。脈菜の青臭さ。翔はその中を歩きながら、ポーチの中の銅貨を指先で数えた。酒場で働いた三日分の賃金だった。カイの小屋に間借りしている礼を、何か形にしたかった。


「何買うの」ミナが隣を歩きながら聞いた。


「胞子酒」


「カイさん、お酒飲むの?」


「知らない」翔は少し考えた。「でも、置いてあって困るもんじゃないだろ」


「困るかもよ」


「困ったら俺が飲む」


 ミナは、少しだけ笑った。その笑い方が、いつもより少しだけ長かった。翔はその笑いが途切れるのを、数秒だけ待った。


 市場の奥に、小さな酒店があった。翔は何度か前を通っていたが、入るのは初めてだった。扉を押すと、中は薄暗く、棚一面に陶器の瓶が並んでいた。瓶の一つ一つに、細い紙の札が貼られている。胞子麦、脈根、苔花。原料の名前だろうと翔は思った。


 店の奥から、老婆が出てきた。背が低く、腰が曲がっていた。目だけが、年齢に似合わない鋭さで翔を見た。


「初めての顔だね」


「ソラです。カイさんの小屋で世話になってます」


 老婆の目が、一瞬だけ止まった。それからゆっくりと笑った。「ああ、あの男か。珍しい。あの男が人を置くなんて」


 翔は少し驚いた。「カイさん、この店に来るんですか」


「来ない」老婆は笑ったまま言った。「来ないから、珍しいと言った」


 翔は言葉に詰まった。老婆は棚の奥から一本の瓶を取って、机の上に置いた。細身で、青みがかった陶器だった。「これがいいよ。強くない。あの男には、強すぎないものの方がいい」


「飲むかどうかは分からないです」


「飲まなくてもいい。置いておけば、いつか誰かが飲む」


 翔は銅貨を数えて差し出した。老婆は受け取りながら、一度だけミナの方を見た。正確には、ミナがいる空間の方を。見えていない。でも、何かを感じ取っている目だった。翔はその視線に気づいたが、何も言わなかった。


 店を出ると、ミナが小さく言った。「あの人、少しだけ見えてる」


「カイさんみたいに」


「もっと薄い。気配があるって分かるくらい」


「この街、そういう人が多いのか」


「空鯨の背の上だから」ミナは言った。「鼓動に慣れてる人は、少しずつ見えるようになる」


 翔は瓶を抱えて歩いた。市場の石畳が、足の裏で微かに弾んだ。


 露店の列を抜ける途中、一軒の店先で翔は足を止めた。


 小さな台の上に、丸い実が山と積まれていた。鶏卵ほどの大きさで、表面に細かい筋が走っている。濃い青紫色。店主の男が大声で客を呼んでいた。「朝採れの脈実だよ! 今日だけの値段!」


 翔は一つ手に取った。重かった。指先で押すと、皮の下で何かがわずかに動いた。翔は手を引いた。


「生きてる?」


「生きてる訳ないだろ」店主が笑った。「中に種が入ってるんだ。振動に反応して動くだけだ。食える食える」


「甘いんですか」


「甘い。子供が好む」店主は少し間を置いて、翔を見た。「あんた、異郷から来たか」


 翔は少し身構えた。「……はい」


「どおりで」店主は気にする風でもなく言った。「脈実を知らない顔してたから。これだけ貰っとけ、おまけだ」


 店主は二つを手際よく紙に包んで、翔に差し出した。翔は礼を言おうとしたが、店主は既に次の客の相手をしていた。


「優しいな」翔はミナに言った。


「異郷者って、この街では珍しくない」ミナは言った。「空鯨の背の上には、いろんな場所から落ちてきた人がいる。だから、慣れてる」


「俺だけじゃないのか」


「あなただけじゃない」ミナは翔の隣を歩きながら、少しだけ遠くを見た。「ただ、帰れる人は少ない」


 翔は包みを外套の内側に入れた。その重さが、ほんの少しだけ胸を押した。


 酒場で、翔は昼の仕込みを手伝っていた。


 夜の客が少なくなる時間帯に、店主が翔を雇っていた。正確には、カイが店主に話をつけて、翔を押し込んだ形だった。店主は不機嫌そうな顔をしていたが、翔が思ったより真面目に働くので、三日目には顔つきが変わっていた。


「遅い」店主が厨房の奥から言った。「昨日も言ったろう。ニンニクは先だ。油が熱くなってからじゃ焦げる」


「すみません」


 翔は鍋の前に立ち直した。油の温度を見る目は、まだ掴めていなかった。店主のそれは年季の産物だった。翔は五日で何かを掴もうとしていて、店主はそれを見透かして、わざと細かいところを叩いていた。


 ミナは厨房の隅の壁にもたれて、翔を見ていた。足元に鼓動の波紋がない。店主はそれに気づいていない。翔はもう、それに驚かなくなっていた。


「おい、新入り」


 店の入口から声がした。翔が振り返ると、ミミが立っていた。外套の裾を跳ね上げて、勢いよく入ってくる。


「なんでここにいる」翔は聞いた。


「カイに聞いた。昼はここだって」


「用事か」


「ない」ミミはカウンターの椅子に勢いよく座った。「暇だったから来た」


 店主が奥から顔を出した。ミミを見て、一瞬だけ眉を動かした。「またお前か。飯代は払えるんだろうな」


「払う払う」ミミは腰のポーチを叩いた。「今日は銅貨持ってきた」


「本当か」


「本当」


 店主は疑わしそうな顔をしながら、奥に引っ込んだ。翔は小声でミミに言った。「金、本当にあるのか」


「ないよ」


「おい」


「借金にしておく」ミミは平然と言った。「ソラが払えばいい」


「なんで俺が」


「新入りだから」


 理屈になっていなかった。翔は諦めて、鍋に戻った。


 ミミは頬杖をついて、翔の手元を見ていた。


「下手だね」


「知ってる」


「もっと手首使って」


「料理したことあるのか」


「ない」


「じゃあ黙ってろ」


 ミミは口を尖らせた。それから、黙らなかった。「でも、見てると分かる。手首使ってないから、油が均一に回ってない」


 翔は少し驚いて、手首を意識してみた。確かに、鍋の中の油の動きが変わった。「……本当だ」


「でしょ」ミミは得意げだった。「見てるだけなら得意なの」


「なんでだよ」


「獣人の目、動きを読むのが得意だから。戦闘でも料理でも同じ」


 翔は鍋の中を見ながら、ミミの言葉を反芻した。動きを読む。戦闘でも料理でも同じ。それは、翔がまだ掴めていない何かだった。


 昼を過ぎて、店が一度静かになった時間だった。店主が休憩に出て、翔は店番を任された。ミミは相変わらず頬杖をついてカウンターにいた。店の奥のテーブルに、一人の客が残っていた。老いた男だった。脈石酒を一杯だけ頼んで、それを半分残したまま、ずっと窓の外を見ていた。


 翔はその男の前に、水を置きに行った。男は翔を見上げて、少しだけ頷いた。それから、ぽつりと言った。


「あんた、落ちてきた側だろう」


 翔は息を止めた。男の顔を、改めて見た。初めて見る顔だった。


「……はい」


「そうか」男は水の杯を手に取った。「わしも昔、そうだった」


 翔は言葉を失った。男の顔を見た。老いた、平凡な顔だった。異郷者だと分かる特徴は何もなかった。


「どこから、ですか」


「海のある場所」男は短く言った。「それ以上は、もう覚えとらん。長く住み過ぎた」


「帰らなかったんですか」


 男は少し間を置いた。それから、薄く笑った。「帰れる道が分からなくてな。探すのを、いつからか、やめた」


 翔は男の手元を見た。節くれだった指が、杯を両手で包んでいた。


「後悔してますか」


 男は翔を一度だけ見た。「難しい質問だな」


「すみません」


「いや、いい」男はまた窓の外を見た。「後悔はしとる。でも、ここで積んだものもある。両方あって、どっちが勝つとも言えん。ただ、一つだけ言えるのは」


 男は翔を見た。


「帰る道があるうちに、迷うなということだ」


 翔はその言葉を、胸の奥で静かに受け取った。


 男は杯を置いて、銅貨を机に乗せた。立ち上がる時、翔に向かって小さく頷いた。「長話して、すまんかった」


「いえ」


 男は店を出ていった。扉が閉まる音がして、店の中が静かになった。


 カウンターの方を振り返ると、ミミが翔を見ていた。いつもの生意気な目ではなかった。何かを考えている目だった。


「聞いてたか」翔は聞いた。


「聞いてた」


「どう思う」


 ミミは少し間を置いた。「……分からない」


「分からない?」


「分からない」ミミは繰り返した。「私は霊族だから、帰る場所がない。ここが、最初からここだから」


 翔はミミの隣に座った。カウンターの席だった。二人で、窓の外を見た。


「でもさ」ミミはしばらくしてから言った。「あのじいさん、後悔してるって言ったけど、それでも笑ってたよね」


「笑ってたな」


「だから、帰れなくても、ここで何かあるなら、それはそれでいいってことじゃん」


「ミミらしくないな、まとめ方が」


「うるさい」


 ミミは少しだけ口を尖らせた。それから、急に話を変えた。「ねえ、新入り」


「なんだ」


「お前、帰りたい?」


 翔は少し考えた。ミナが、カウンターの端に立って、こちらを見ていた。翔はミナを見た。ミナは少しだけ首を傾けた。「正直に言っていいよ」という顔をしていた。


「……帰りたい」翔は言った。「言えなかったことがあるから」


「そっか」ミミは短く言った。「じゃあ、帰れるように頑張らないとね」


「お前、それでいいのか」


「何が」


「俺が帰ったら、いなくなるってことだぞ」


 ミミはしばらく黙っていた。窓の外を見ていた。それから、ぽつりと言った。


「別に」


「別に?」


「別に、いなくなるのは今まで何回もあった」ミミは言った。「慣れてないけど、慣れないなりに、やってる」


 翔は何も言えなかった。ミミの横顔を見た。灰色の耳が、窓の外の光に少しだけ透けて見えた。


「でも」ミミは続けた。「いる間は、ちゃんといるってことにしてほしい。それだけ」


「……分かった」


「あと、帰る前に、串焼き一回奢ってよ」


「急に軽くなったな」


「重い話、長く続けたくないから」


 翔は笑った。ミミも、少しだけ笑った。


 夕方になって、翔は酒場を出た。ミミはもう帰っていた。店主に串焼きの約束をして、そのツケをカイに回すつもりらしい。翔はミミの背中が消える方向を見送ってから、石畳を歩き出した。


 ミナが隣を歩いていた。


「あのじいさんの話」ミナが言った。「どう思った」


「重かった」翔は少し考えた。「でも、悪い重さじゃなかった」


「そっか」


 翔は歩きながら、空を見上げた。空鯨の呼吸孔から、細い蒸気が立ち上っていた。夕陽が、その蒸気を橙色に染めていた。


「ミナ」翔は言った。「お前は、どれくらいここにいるんだ」


 ミナは少し間を置いた。「分からない」


「長いのか」


「……長い方」


「そうか」


 翔はそれ以上聞かなかった。ミナも、それ以上言わなかった。でも翔は、ミナの答え方が、少しだけ奇妙だったことを覚えておいた。分からない、という言い方が、知らないのではなく、数えていない、に近かったことを。


 路地の入口で、翔は小さな子どもが泣いているのを見た。三歳か四歳くらいだろうか。脈実を握ったまま、石畳に座り込んでいた。母親らしい女が、慌てて駆け寄ってくるのが見えた。翔は足を止めた。


「大丈夫か」翔は子どもの前にしゃがんだ。


 子どもは翔を見て、泣きながら脈実を差し出した。皮が割れて、中の青い果肉が零れていた。落として割ってしまったのだ。


「これは、もう食べられないのか」翔は聞いた。


 子どもは小さく頷いた。涙を流しながら。


 翔は懐から、市場でもらった脈実の一つを取り出した。紙に包まれたまま、握りしめていた。「これ、やるよ」


 子どもは目を丸くした。「……いいの?」


「いい。俺、もう一つ持ってるから」


 子どもは恐る恐る手を伸ばして、脈実を受け取った。翔の手が離れた瞬間、子どもは脈実を胸に抱えて、立ち上がった。それから、小走りに母親の方へ駆けていった。


 母親が翔に向かって、深く頭を下げた。翔は軽く手を振って、また歩き出した。


 ミナが、翔の隣で笑っていた。


「なに」翔は聞いた。


「優しい」


「別に、一個余ってただけだ」


「でも、渡した」


 翔は少し口をつぐんだ。ミナの笑い方が、今日一日で一番、柔らかかった。


 小屋に戻ると、カイが机に向かっていた。朝と同じ姿勢だった。だが机の上の手帳が、朝より厚くなっていた。書き足された分、ページが膨らんでいた。


 翔は胞子酒の瓶を机の端に置いた。


「……何だ、これは」


「酒です。置いておけば、いつか誰かが飲むって、店の人が言ってました」


 カイはしばらく瓶を見ていた。それから、ほんの少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかどうか、分からない程度の変化だった。


「……そうか」


「あと、これ」翔はもう一つの脈実を机に置いた。「市場でおまけにもらったんです。カイさん、食べますか」


 カイは脈実を見た。青紫色の、丸い実。一秒だけ、視線が止まった。翔には分からなかったが、カイはその実を、どこかで見たことがあるようだった。遠い記憶の中で、誰かが同じようにこの実を差し出した瞬間があったかもしれない、という視線だった。


「もらおう」カイは言った。「後で食う」


「ついでに、一個聞いていいですか」


「聞け」


「カイさんは、帰りたい場所があるんですか」


 カイはペンを止めた。手帳から目を上げなかった。長い沈黙だった。


「……私は、帰ってきた側だ」


 翔は意味を掴みかねた。「帰ってきた?」


「この街に、だ」カイは短く言った。「昔、別の街にいた。帰れないことを理解した時、ここに来た」


「それは、いつの話ですか」


「覚えていない」


「覚えていない?」


「覚える必要がないから、捨てた」


 翔はそれ以上聞かなかった。カイも、それ以上言わなかった。


 翔は自分の小部屋に戻ろうとして、扉の前で一度だけ振り返った。カイが、脈実を手に取っているのが見えた。じっと見ていた。食べるでもなく、しまうでもなく、ただ見ていた。翔はその背中を見てから、扉を閉めた。


 夜、翔は寝具の上で仰向けになっていた。


 ミナが、小部屋の隅に立っていた。いつもと同じ場所だった。


「ミナ」


「うん」


「今日、楽しかったな」


「うん」


「何もなかったけどな」


「うん」


 翔は目を閉じた。足の裏から鼓動が来ていた。


「ミナ」


「うん」


「明日も、こんな日だといいな」


 ミナは少し間を置いた。それから、ごく小さな声で言った。


「……うん」


 その声に、翔は気づかなかった。


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