酒場と訓練
朝は、一枚の「紙」から始まった。
「持て」
小屋の作業机の上に無造作に置かれたのは、掌より少し大きい真っ白な紙片だった。
いや、紙というより、極細の繊維の束を薄く編み上げたように見える。
表面は滑らかだが、よく見ると繊維の一本一本が微かに揺らいでいた。
切り離されてなお、生きているみたいだと翔は思った。
カイは机の向こう側に立ち、外套のポケットに両手を突っ込んだまま翔を見下ろしている。「空鯨の髭を編んだものだ。未調律の純粋な繊維束——市場に出回るものとは別物だ」
翔は恐る恐る紙を持ち上げる。
重さはほとんどない。だが、指先が触れた瞬間、微かな熱が伝わってきた。
どくん。
ほんの一瞬、大地で感じたのと同じ鼓動が紙の奥で鳴った気がして、翔は手を離しかけた。
「……今、動いたぞ」
「当然だ」
カイは平然としていた。
「お前が触れ、お前の生体波長が干渉したから反応した」
翔は眉をひそめる。
「俺だから、か?」
「違う。誰でも反応する」
カイは一拍置いてから、淡々と告げた。
「お前だけが特別なわけではない」
どこかで少しだけ、異世界に落ちてきた自分には特別な力があるのではないかという期待があった。
それを見透かされたようで、翔は気まずく口をつぐむ。
カイは指先で机を軽く叩いた。「浮かせろ」
「は?」
「飛ばせ。あるいは滑らせろ」
風もない室内で、紙はただ静かに掌に乗っているだけだ。
「どうやって……」
「言葉で説明してできるものではない。意識を繋げ」
仕方なく翔は、掌の上の紙をじっと見つめた。
飛べ。浮け。動け。
念じてみるが、何も起きない。
部屋の隅で、ミナが壁にもたれて、こちらを見ていた。
その足元に、鼓動の波紋がない。
訓練を始めて何日か経った今でも、翔はそれに気づくたびに、胸の奥でちいさく引っかかった。
聞けないでいる問いが、また一つ積み重なっていく。
「ソラ、顔に力入りすぎ。紙を睨んでも動かないよ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
十分が過ぎた。二十分が過ぎた。翔の額に薄く汗が滲んできた頃、カイが低く言った。
「呼吸を合わせろ」
「呼吸?」カイは答えなかった。ただ、足元を一度だけ見た。
翔は目を閉じた。
耳を澄ませる。
どくん、どくん、と地面から伝わってくる重い鼓動。意識を向けると、それはいつも通りそこにあった。次に自分の心臓の音を探す。どくん、どくん。
微妙にずれている。
速い。
翔の方が速い。
息を、ゆっくり吐いた。
もう一度、吸う。吐く。
地面の鼓動に、少しずつ自分のリズムを近づけていく。
完全には合わない。でも、近くなる。
その瞬間だった。
掌の上の紙の端が、持ち上がった。
「……動いた」
「もう一度」
翔は息を整える。今度は「動け」と命令するのではなく、自分の指の延長線上にあるものとして、前へ滑るイメージを頭に描いた。
掌の上で、紙が一センチほどふわりと浮いた。そのまま、ひらりと前へ落ちて机に着地する。
翔は顔を上げた。
カイは頷きもしない。ただ手帳を開き、何かを書きつけている。
「平均以下だが、初日としては許容範囲の遅さだ」
「……褒めてるのか、それ」
「事実を言っているだけだ」
午後になっても、地味な訓練は続いた。
浮かせる。滑らせる。手元へ戻す。
最初は一度動かすだけでどっと疲労が押し寄せたが、何度か繰り返すうちに、髭紙が自分の思考の癖を読み取り、少しずつ馴染んでくるのが分かった。
身体を動かすのとは違う感覚だった。もうひとつの手足を拡張するような、奇妙な感覚。
空鯨の鼓動と自分の呼吸を重ねるたびに、紙の反応が少しずつ変わってくる。まるで、この世界そのものと少しずつ繋がっていくような。
「よし、次は——」
翔がコツを掴みかけた、その瞬間だった。
カイの腕が、動いた。銀色の何かが、翔の顔面に向かって飛んできた。
ナイフだった。
「うおっ!?」
思考より先に、反射が動いた。「防げ」というカイの声と同時に、翔は掌の上の髭紙を前へ突き出した。
乾いた音が、室内に響いた。髭紙が、ナイフの切っ先を、盾のように弾き返していた。
勢いを殺しきれなかったナイフが、床に転がって鈍い音を立てる。
翔は、その場にへたり込んだ。自分の心臓の音が、耳の中で、大きかった。
「いきなり投げるな! 死ぬだろ!」
「実戦で事前の告知はない」
カイは床のナイフを拾い上げながら、淡々と言った。
「反応速度は悪くない。だが、紙の硬化が甘い」
翔は床に座り込んだまま、自分の手のひらを見た。
感触があった。紙が弾いた、確かな感触。
さっきまでただ浮かせることしかできなかったものが、一瞬だけ盾になった。
一瞬だけだった、と翔は思った。でも、一瞬だけは、あった。
視線が、棚の方へ流れた。革紐で縛られた、あの一束。
翔は意識的に目を逸らした。触れてはいけない。それは今も、体の奥から来る信号だった。でも、逸らした瞬間に気づく。逸らさなければならないほど、引き寄せられている。
カイは今日も、あの紙には一切目を向けなかった。
夜になると、訓練は終わり、今度は別の「仕事」が待っていた。
「私の小屋にただで泊める気はない」というカイの斡旋で、翔は市場通りの外れにある半地下の酒場で働くことになったのだ。
酒場に向かう道で、商店街を抜けた。
夜の市場は昼とは違う顔をしていた。
発光菌のランプが橙色に灯って、石畳の上に長い影を作っている。胞子が光を含んでゆっくり流れていた。
露店だった。白く滲んだ輪郭の存在が、小さな台の前に立っていた。翔はもう、その取引の意味を知っていた。
酒場の中は、むせ返るような熱気に満ちていた。
天井に張り巡らされた蒸気配管から暖かい空気が漏れ、発光菌の鈍い光が店内を照らしている。
胞子酒の甘いアルコール臭と、伴生獣の肉が脂を落としながら焼ける匂い。
カウンターの端に、木の板が立てかけてあった。今日のメニューらしかった。
胞子麦の酒、蒸気麺、伴生獣の串焼き。
その板の隅に、小さな字でこう刻まれていた。
「本日の勘定:銅貨、または霊族取引にて。半刻分より承ります」
翔はその一行をしばらく見つめた。銅貨の横に、別の支払い方が並んでいる。この街では、それが当たり前に共存しているらしかった。
客層は荒々しかった。煤まみれの荷運び、灰色の耳を持った獣人、傷だらけの甲冑を着た傭兵。そして時折、白く発光する霊体が混ざっている。
翔は盆を持って動いた。誰も翔の服装を気にしなかった。この街では、変なものを見ても深く追わない。
ミナは入口の近くの壁に背を預けていた。腕を組んで、部屋全体を見ていた。
酔っ払いたちは誰もミナに気づかない。ぶつかりそうになっても、不思議とすり抜ける。
翔は盆を運びながら、横目でミナを確認した。いる。まだいる。その確認が、いつからか習慣になっていた。
店が混んできた頃、扉が開いて数人が入ってきた。
革の外套。腰に工具か武器か判断のつかないものをいくつもぶら下げている。
先頭の男が、部屋全体を一度だけ見渡して、空いているテーブルに向かった。
背が高かった。髪が明るい。後ろに続く四人も、似たような雰囲気だった。種族がばらばらだった。耳の形が違う。肌の色が違う。それでも全員、同じ外套を着ていた。
「シルバックの連中」とミナが小声で言った。「この辺を走り回ってる」
先頭の男が椅子を引いて座った。翔と目が合った。
「酒」
「何を」
「一番強いやつ」
「二番目に強いやつにしておきます」
男は一秒だけ翔を見た。それから声を出さずに笑った。「賢いな。持ってこい」
カウンターの端に、一人で飲んでいる男がいた。革のジャケットが古びていた。コップを両手で持って、中身をじっと見ていた。
翔が隣を通ったとき、男が顔を上げた。翔ではなく、その少し後ろを見ていた。
翔は振り返った。ミナがいた。男はミナを見ていた。じっと、確かめるように。ミナも男を見た。二人の間で、何かが静かに確認された。翔には分からない何かが。
男の隣に座っていた二人組が、顔を見合わせた。「おい、また始まったぞ」
「誰もいないじゃないか、そっち」
男は答えなかった。コップを置いて、ミナに向かって小さく頷いた。ミナも、小さく頷いた。それだけだった。
店じまいを終えたのは、夜も深くなってからだった。
酒場を出ると、路地の入口に小さな布の暖簾が下がっていた。中から橙色の光が漏れていた。
「占い」とミナが言った。「霊体の」
翔は少し迷って、中を覗いた。薄暗かった。卓が一つ。霊体の老いた存在が座っていた。客が一人、手を差し出していた。
卓の横に、小さな生き物がいた。丸い胴体に短い四肢、大きな耳。毛並みは白く、ゆっくりと呼吸するたびに背中の繊維が微かに光った。
空鯨の苔層から生まれる小型の伴生獣だ、とミナが後で教えてくれた。
おとなしく、ただそこに座っていた。その伴生獣が翔を見た。目が合った。
「落ちてきた側だな」
低くて、静かな声だった。でも確かに、その口から出た言葉だった。
客は気づいていなかった。翔は動けなかった。
伴生獣はもう一度だけ言った。
「急ぐな。まだ思い出す順番がある」
それだけだった。
伴生獣の口が閉じた。丸い胴体が、ゆっくりと一度、上下に動いた。それが呼吸なのか、頷きなのか、翔には判別がつかなかった。
翔は聞き返したかった。思い出す順番、とは何の順番か。誰が決めているのか。自分は今、何番目の何を思い出すべきなのか。でも、聞けなかった。伴生獣は、もう翔の方を見ていなかった。円い目を、卓の上の客の手の方に戻していた。役目は終わった、という目の閉じ方だった。
翔は一歩、卓から下がった。
下がりながら、翔は自分の中で、その一言を、そっと置いた。思い出す順番がある。思い出せないものが、自分の中にあるということだった。でも、思い出すべき時が来る、ということでもあった。翔はそれを、分かるように、分からないようにして、胸の奥の棚のような場所に、置いておくことにした。いつか、それが来る時のために。
路地に出ると、ミナが隣に立っていた。
「あの伴生獣」翔は小声で言った。
「見てた」とミナは言った。「霊体が入ってる。たまにいる」
「何者なんだ」
「知らない。でも悪い存在じゃない」
翔はしばらく黙って歩いた。
「ミナ」翔は歩きながら言った。「あの白い商人と、伴生獣に入ってる霊体って、同じ種族なのか」
「同じ」
「なんで伴生獣に入ってるんだ」
「その子が選んだから」
「なんで商売してる子は商売を選んだんだ」
「その子が選んだから」
ミナが淡々と同じ答えを繰り返す。翔が少し黙った。
「みんな、自分で決めてるんだ」「そう」
少し間があった。「君は?」
ミナは答えなかった。石畳の継ぎ目を、足が越えた。風が細く吹いた。翔はその沈黙を、無理に埋めようとしなかった。
しばらく歩いて、翔は言った。
「怖くないの。誰にも見えないのに」
ミナは少し間を置いた。翔の半歩後ろを歩いていた。
「……慣れた」
「それは答えになってない」
「じゃあ」とミナは言った。「あなたには見える」
それだけだった。石畳の継ぎ目を、もう一度、足が越えた。
酒場からの帰り道、翔は何度か足元の鼓動に呼吸を合わせていた。意識したわけではない。ただ、気づくと自然にそうしていた。
その度に、今日動かした髭紙の感触が指先に戻ってくる。まるで、まだそこにあるみたいに。
大地が、微かに呼吸した。




