拾われる
市場は、朝から音と匂いがせめぎ合っていた。
最初に気づいたのは、胞子パンの匂いだった。甘く、むせ返るような発酵の香りが、石畳の上を低く漂っている。その下から、鉄鍋を削る音、荷甲虫の硬い足音、蒸気管の息が漏れる音が、重なり合うように押し寄せてきた。伴生獣の肉を燻す鉄錆の匂いが、甘さの隙間に割り込んでくる。
そのすべての下で、ずっと別の音がしている。
どくん。どくん。
翔は立ち止まり、足元を見た。
地面は被膜のようだった。
薄緑色の苔がまだらに張り付き、その下を半透明の太い筋が脈打つように走っている。
踏み込むとわずかに靴底が沈み、一拍遅れて、筋肉のような弾力がぐんと押し返してくる。
歩くたびにその事実が足の裏から這い上がってきた。
「また止まってる」
隣で、ミナが言った。
朝の風が彼女の白い髪を揺らす。
その毛先は、光を吸い込んで少しだけ青く透けて見えた。
「……だって、気になるだろ、これ」
「みんな普通に歩いてるよ」
言われて周囲を見渡すと、本当に誰も気にしていない。青果台に脈菜の束を並べる店主も、巨大な籠を背負って歩く甲冑姿の男も、この大地が微かに呼吸していることを前提に、当たり前のように息をして、笑って、生きている。
翔だけが、この世界の異物だった。
すれ違う人間の視線が、ちらちらと翔の服装に集まった。
紺のブレザー、白いシャツ。
誰もが一度だけ見て、特に驚きもせず、前を向いた。
市場の通りを抜ける途中、翔はふと奇妙な光景に目を奪われた。
通りの端に粗末な木机を出している店主が、淡く白く発光していたのだ。
人の輪郭はしている。
だが、皮膚や服の境目が曖昧で、足元は地面から数センチほど浮いているように見える。
「……見たか?」
「見たよ」ミナは平然としていた。「この辺じゃ珍しくないみたい」
机の向こうで、白い店主が客の男のゴツゴツとした両手を、自分の手でそっと包み込んだ。その瞬間、男の肩がふっと落ちた。
深い安堵の溜息が漏れる。
代わりに、白い店主の身体を覆う光が、わずかに強く瞬いた。
男は気だるそうに首を回しながら、机の上の小袋を一つ掴み、足早に去っていく。
翔は眉をひそめた。
「今の、銅貨払ってないよな」
「霊体の商売」ミナは短く言った。「疲れを少し分けてもらう。銅貨の代わりに」
翔は客の背中を見送った。
「払った側は損じゃないのか」
「物をもらって疲れるのと、何ももらわずに疲れないのと、どっちがいい」
翔は答えられなかった。
そのとき、足元からこれまでで一番大きな揺れが来た。どくん――と、大地が大きく脈打つ。
「うわっ!」翔は体勢を崩し、隣の屋台の柱にしがみついた。
だが周囲は誰も騒がない。蒸き餅を積んでいた老婆が、慣れた手つきで籠を押さえただけだった。
「……今の、地震じゃないのか」
「うねり」ミナが言う。「たぶん筋肉が動いたんでしょ」
翔は柱から手を離した。
壁にへばりついていた自分が、急に滑稽に思えた。
その時だった。
「お前」
背後から声がした。
低い声だった。
翔は振り返る。
人の流れの切れ目に、一人の男が立っていた。
黒に近い外套。
細身の体躯。眼鏡をかけていた。
レンズの奥の瞳は、年齢を感じさせないほど深く、冷たかった。
喧騒に満ちた市場の中で、この男の周囲だけが妙に静止しているように見えた。
ただ、観察している。市場全体を——人も、音も、匂いも——巨大な計算式の一部として処理している、そういう目をしていた。
目が合う。
レンズの奥の視線が、翔を頭の先からつま先まで、たった一度だけなぞった。値踏みではない。
計測だ。
男は次に、翔の少し横——ミナがいる空間へ視線をずらす。
ほんの一秒。それだけで、また翔を見た。
「落ちてきたな」
問いではなかった。
翔は反射的に一歩後ずさる。「……誰だよ、あんた」
男は答えない。「名は」
「は?」
「呼び名でいい」
口調に威圧感はない。だが、拒絶を許さない響きがあった。
翔は少し迷い、警戒しながら答えた。
「ソラ」
男の目が、わずかに細くなる。
「本当の名ではないな」
断言だった。翔の喉が引きつる。
男は何も説明せず、踵を返した。
「来い」
「はあ? 待てよ。こっちはあんたのこと何も知らないんだけど」
男は足を止めたが、振り返らなかった。
「それは私も同じだ」静かな声が、風に乗って届く。「だが、お前はここに立っているだけで目立つ。放っておけば面倒に巻き込まれる」
「もう十分に巻き込まれてる気がするけどな」
小さく毒づくと、男は初めてわずかに口元を動かした。
笑ったのかどうか分からない程度の変化だった。
「そうかもしれない」
それだけ言って、歩き出す。
怪しい。信用できない。だが、この得体の知れない世界で、明確な意思を持って歩くその背中に、翔は抗えなかった。
「ついてった方がいい気がする」ミナが小さく背中を押した。
「なんで」
「この人、ちょっとだけ分かってる。わたしのこと」
翔は腹を括り、男の背中を追った。
男に連れられて入ったのは、市場通りから外れた路地裏にある薄暗い小屋だった。
板壁に蒸気管が這い、薬草と油、古い紙の匂いが充満している。
壁一面の棚には、無数の紙束とガラス管が整然と並び、部屋の奥の作業机には書きかけの手帳とペンが置かれていた。
足を踏み入れた瞬間、翔の足が、一度、自分の意志より先に、止まった。
棚の一角。革紐で何重にも厳重に縛られた、一束の白い紙が、そこにあった。見た目は他の紙と変わらない。だがそこだけ、空気が違った。温度が違う。
周囲の棚の紙はただの紙だ。乾いていて、静かで、何も言わない。
だがその一束だけは、まるで檻の中で何かが息をしているような、強烈な「誰かの気配」を発していた。
近づくたびに、空気の密度が変わる気がした。
翔は視線を引き剥がすように、男を見た。
「座れ」
男は机の前の椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。
ペンを取る前に、男の手が、一拍だけ止まった。
一度、数ページ遡って、何かを読み返した。それから、そのページを閉じて、新しい白紙のページを開き直した。翔には、その二段階の動作の意味が分からなかった。翔はその動きを見ていた。
男がペンを取った。手帳の端を押さえる左手が、いつもよりも少しだけ強かったのか、弱かったのかは、翔には比較の基準がなかった。ただ、指先の関節の白さが、翔の目に残った。
翔へ視線を向けないまま、問いを重ねた。
「落下地点は」
「……村の外れ」
「目撃者は」
「いた。たぶん何人か」
「異物として処理されなかったのは運がいい」
ペンが紙の上を走る音だけが、部屋に残った。
翔は木箱に腰掛けながら眉をひそめた。
「何してるんだ」
「記録だ。お前の」
男が黙ると、部屋は急に静まり返った。
外の喧騒が嘘のように遠い。その静寂の中で、棚の上の封じられた紙束の存在感が、さらに膨れ上がっていく。
視線が吸い寄せられる。
触れてはいけない。それは直感で分かった。革紐が何重にも巻かれていること、術式の紋様が刻まれていること、そういった物理的な警告よりもずっと先に、体の奥から「近づくな」という信号が来ていた。
なのに。
身体が、勝手に引き寄せられる。
翔は無意識に立ち上がっていた。
「おい」
ミナの制止の声が飛ぶ。
だが、止まれなかった。
棚の前に立つ。革紐の中央、封印の紋様の一部が、年月でわずかに擦り切れている。
そこから、ごく細い熱のようなものが滲み出していた。
指先が、触れる。
瞬間。
翔の耳の奥に、直接、声が届いた。
歌だった。
いや、歌になりきらない、呼吸のようなもの。
低く、柔らかい声だった。声のどこかが、壊れたまま鳴っていた。
『届かなかった言葉は、まだここにある』
意味を理解する前に、翔の胸の奥に、別の誰かの重さが入ってきた。
捨てることも、消すこともできなかった重さだった。諦めて、それでも捨てられなかった重さだった。翔の身体は、それを、一瞬だけ、預かった。
「……っ!」
翔は息を呑み、弾かれたように手を離した。
気づくと、部屋の音が完全に消えていた。
机の前で、男のペンが止まっている。
紙を押さえる指先だけが、白くなるほど微かに強張っていた。
翔が振り向く。
男がゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、この部屋に入って初めて、真っ直ぐに翔を射抜いた。
感情のない目だった。だが、その奥に何かがあった。
「……どこまで聞こえた」
怒りではない。
その静けさの方が、声を荒らげられるより、翔には、怖かった。
「全部……だと思う」
沈黙。
数秒の沈黙の後、男は手帳を閉じ、ペンを置いた。眼鏡を押し上げた。
「なるほど」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「観測対象」を見る目から、「使える駒」を見る目へ。
翔はその変化を肌で感じ、わずかに身構えた。
男は立ち上がる。
「名前は」
「さっき言っただろ、ソラだ」
「本当の名を思い出したら教えろ」
男は机の脇を通り抜けながら、棚の封じられた紙には一切目を向けなかった。
だが、その向けないこと自体が、痛々しいほど不自然だった。
「明日から訓練する」
「は?」
「紙一枚も扱えないままでは、お前はすぐに死ぬ」
「誰がやるって言った」
「嫌なら出ていけ」
男はそこで初めて、完全に振り返った。
「ただし、この街でお前が今日より安全に眠れる場所を、私は知らない」
反論できなかった。それが脅しではなく、純粋な事実だと分かったからだ。
男は短く告げた。
「カイだ」
名乗ったのは、それだけだった。
翔はその名前を頭の中で反芻する。
カイ。
冷たい。
分からない。
信用できない。
だが、紙に触れた瞬間に流れ込んできたあの「喪失」だけは、間違いなく本物だった。術式でも罠でもなく、誰かが長い年月をかけて積み重ねてきた、本物の痛みだった。
そしてカイはその痛みを、誰にも触れさせないために、あの紙を封じていた。
ミナが、カイの背中を見つめながら小さな声で呟く。
「この人、見えてる」
「何が」
ミナは少しだけ迷い、目を伏せて言った。
「なくしたもの」
部屋の奥で、カイが振り返らずに口を開く。
「私語は終わったか」
聞こえていたのかどうかは分からない。
だがその一言で、翔はこの男のもとにしばらく留まる運命であることを悟った。
拾われた、というよりは。
半ば、捕まったのだと思った。
足元から、空鯨の鼓動が伝わってきた。




