カイの小屋の一日
翔が目を覚ましたのは、低い天井の下だった。昨日、運ばれてきた場所だった。
木の梁が、頭の真上に走っていた。梁に沿って、細い蒸気管が一本、壁の中へ伸びていた。蒸気管から、微かに温かい空気が漏れていた。部屋の温度は、翔が覚えている夜の学校の廊下より、少しだけ高かった。
翔は身体を起こそうとして、止めた。腰が痛かった。膝も痛かった。手のひらを開くと、擦り傷があった。落下、という言葉が、頭の中に戻ってきた。翔はゆっくり、もう一度、横になった。
身体の左側に、誰かがいた。
翔は首だけ曲げた。白い髪の少女が、壁に寄りかかって座っていた。目を閉じていた。眠っているのか、起きているのか、翔には判別がつかなかった。翔の視線を感じたのか、少女は目を開けた。
「……起きた」少女は言った。
「……ここ、どこ」
「小屋」
「どこの」
「助けてくれた人の」
少女はそれだけ言って、また目を閉じた。翔はその少女の名前を、まだ知らなかった。知らないまま、翔はその少女が、自分と一緒にこの小屋に連れて来られた——あるいは、落ちてきた時から、この少女は翔の傍にいた——そのどちらかだと感じた。どちらかを決める手がかりは、まだ翔にはなかった。
部屋の奥で、扉が開いた。
外套を着た男が入ってきた。細身で、眼鏡をかけていた。男は翔と目が合った。目が合ったが、挨拶はしなかった。男は翔から視線を外して、机の前の椅子に座った。机の上には、手帳が一冊、ペンが一本、水の入った碗が一つ、置かれていた。
男は碗を手に取って、翔の枕元まで運んできた。
「飲めるなら、飲め」
男はそれだけ言って、碗を床に置き、自分の机に戻った。翔の方はもう見なかった。
翔は、碗に手を伸ばした。手が震えていた。水は、冷たかった。喉を通った。冷たさが、食道の壁を伝って、胃に落ちた。翔は、自分がまだ生きている、ということを、水の冷たさで確認した。
男は机の前で、手帳を開いていた。ペンを取って、何かを書き始めた。書き続けた。翔の方は、一度も見なかった。翔は、男が何を書いているのか、聞きたかった。聞かなかった。聞くだけの力が、まだなかった。
「名前は」男が、手帳を見たまま言った。
「……蒼、翔」
「その前の名前ではなく、今、名乗る名前は」
翔は少し考えた。「……ソラ」
「ソラだな」男はペンを走らせた。ペンが手帳の上で止まり、また動き、また止まった。それから、男は顔を上げた。「カイだ」
「カイさん」
「敬称は要らん。カイでいい」
「……カイさん」
カイは何も言わなかった。翔の敬語を受け入れるとも、拒むともしなかった。ただ、手帳に、何かを一行、書き足した。書き足して、手帳を閉じた。
翔は、自分が今、目の前で、観測の対象になったのを感じた。
嫌ではなかった。不思議だった。観測されているという事実が、翔の孤独を、ほんの少しだけ和らげていた。翔はこの世界で、誰にも見られていないのではなかった。少なくとも一人、翔を記録している人がいた。それだけで、翔は、この見知らぬ天井の下で、息をすることができた。
カイが席を立ち、棚の方へ歩いていった。
翔はカイの背中を目で追った。棚は、壁の一面を占めていた。上から下まで、紙束が整然と並んでいた。ほとんどが、白か薄黄色の、ただの紙束だった。
その中で、一束だけ、違っていた。
革紐で何重にも縛られた、白い紙束。他の紙束より、棚の奥の方に置かれていた。翔の位置からは、よく見えなかった。見えなかったが、翔の目は、なぜかその一束の方に引き寄せられた。
部屋の空気が、その一束の前でだけ、少しだけ、濃かった。
他の紙束は、ただの紙束だった。乾いていて、静かで、何も言わない紙束だった。でもその一束は、誰かの息が、まだ紙の中に閉じ込められているような、そういう気配を持っていた。
翔は目を逸らした。
逸らしたのは、触れてはいけないと感じたからだった。触れてはいけないという感覚は、物理的な警告より先に、翔の身体の奥から来た。翔はその感覚に従って、目を逸らした。
カイは、棚の手前で、別の紙束——ただの、白い紙束——を手に取った。棚の奥の、革紐で縛られた方の紙束には、一度も触れなかった。カイの手が、その奥の紙束の前を通り過ぎる時、カイの動きが、ほんの一瞬、遅くなったような気がした。気のせいかもしれなかった。翔は、それを、分かるように、分からないように、胸の奥に置いておくことにした。
夜になった。
翔の身体の痛みは、まだ引かなかった。でも、水と、カイが出してくれた薄い粥のおかげで、少しだけ動けるようになっていた。翔は寝床に横になったまま、天井の梁を見ていた。梁の木目が、脈石灯の橙色の光で、ゆっくりと色を変えていた。
白い髪の少女は、ずっと壁に寄りかかっていた。動かなかった。眠っているのかもしれなかった。
翔は、少女の名前を聞きそびれていた。明日、聞こう、と翔は思った。
カイは、机の前で、まだ手帳を書いていた。
夜の途中で、翔は一度、目を開けた。
脈石灯は、ほとんど消えていた。カイの机の上の小さな灯だけが、部屋に残っていた。カイは、机の前で、ペンを握っていなかった。ただ、手帳を閉じて、手を、その上に置いていた。
机の端に、棚から持ってきたらしい、革紐で縛られた紙束が、置かれていた。
翔は息を止めた。
カイは、革紐には触れていなかった。紙束を、机の上に、取り出した。取り出して、見ていた。十年、その紙束をその棚の同じ位置に置き続けてきた人が、十年ぶりに、それを手の届く場所に置いていた。十年ぶりに、というのは翔の推測だった。でも、カイの机の上の、その紙束の置き方は、十年ぶりの何かだった。
カイはそれを開けなかった。
ただ、見ていた。しばらく見てから、紙束を、もう一度、棚へ戻した。戻す動作が、ゆっくりだった。革紐を一度、指先でなぞった。何かを確認したような動作だった。それから、また棚の奥の、いつもの位置へ、戻した。
カイは机に戻った。手帳を開いて、何かを一行、書き足した。書き足して、灯を消した。
部屋が、真っ暗になった。
翔は、目を閉じた。今、自分が見たものの意味を、翔は、この夜には、まだ理解していなかった。理解しないまま、翔は眠った。
翌朝、翔が目を覚ますと、白い髪の少女は、もう壁に寄りかかってはいなかった。
少女は、寝床の脇に立っていた。翔の顔を、じっと見ていた。翔と目が合うと、少女は小さく笑った。笑ったというより、口の端が、少しだけ動いた。
「ミナ」少女は言った。
「……ミナ」翔は繰り返した。
「それが、わたしの名前」
「……ソラ」
「知ってる」
ミナは、翔の枕元にしゃがんだ。白い髪が、翔の顔の上に、少しだけ垂れた。髪の先が、翔の頬に触れる直前で、止まった。止まる場所を、ミナはもう知っていた。
カイは、机の前で、朝の手帳を書いていた。翔の方を、一度も見なかった。
「起きたか」カイは手帳を見たまま、言った。「粥を食え。食えたら、市場に出よう」
「市場」
「見せたいものがある」
それだけだった。カイは、ペンを置いて、立ち上がった。外套を羽織った。翔の方には振り返らなかった。カイの動作は、翔が昨夜見た、棚から紙束を取り出した時の、ゆっくりした動作とは違った。もう朝の、いつものカイだった。
翔は、昨夜の紙束のことを、聞かないでおこうと思った。聞いても、カイは答えないだろう。答えないこと自体が、きっと答えだった。翔はまだカイに会って一日目だったが、その予感だけは、既にあった。
翔は起き上がった。
身体の痛みは、まだ残っていた。でも、昨日より軽かった。翔は、カイに差し出された粥を食べた。温かかった。味は薄かった。胃に落ちるまで、翔は、ゆっくり噛んだ。
ミナが、翔の横で、粥を食べない翔を見ていた。
「ミナは、食べないのか」
ミナは少し間を置いた。「食べられない」
「……そうか」
翔はそれ以上、聞かなかった。ミナもそれ以上、説明しなかった。
カイが扉の前で待っていた。
「行くぞ」
翔は立ち上がった。立ち上がりながら、翔は、一度だけ、棚の奥の紙束の方を見た。革紐で縛られたその紙束は、昨夜と同じ位置に、静かに、置かれていた。昨夜、カイの机の上に一度出されたことを、この紙束自身は、覚えているかもしれなかった。覚えていないかもしれなかった。
分からないまま、翔はカイについて、小屋を出た。
扉の外で、豊原盟市の朝の、胞子パンの匂いが、翔を迎えた。




