落下
落ちている。
そう理解するまでに、どれだけの時間がかかっただろうか。
耳を劈く風。肌を叩く冷気。上下の感覚が完全に消え、ただ猛烈な速度で「下」へと引きずり込まれていく。
最後に覚えているのは、夜の学校の廊下だった。
蛍光灯が一本、点滅していた。廊下の端、機械室の前。
ショートした配電盤から青白い閃光が弾けて、手に握りしめていたスマートフォンの画面を白く焼いた。
発信中、と表示されていた。誰かを呼ぼうとしていた。伝えなければならない言葉があった。
だが、その輪郭を掴む前に。
閃光の残像が、翔の目の奥に焼きついた。音が、その直後に消えた。
落下の中で、断片が浮かんでは消えた。
窓際の席。シャープペンが紙を走る音。
黒い髪が耳にかかっていた。目が合いそうになって、翔は視線を逸らした。
一回だけ鳴って、切れた着信履歴。
言えなかった言葉が、落下の風の中で形を失っていく。
名前すら、思い出せない。
その喪失だけが張り付いたまま、翔は下へ、下へと落ちていった。
眼下に広がるのは、見慣れたアスファルトではなかった。
雲を突き抜けた先に見えたのは、果てしなく広がる緑がかった大地だ。
ところどころに巨大な白い隆起があり、淡く光る筋が地表を這うように走っている。地面が、恐ろしい速度で迫ってくる。
翔は強く目を閉じ、腕で頭を庇った。
激突する。
身体が粉々に砕け散る。そう覚悟した瞬間、足元の大地がまるで意思を持つように大きく沈み込んだ。
空鯨の表皮層が波のようにたわみ、落下の衝撃を抱え込むように吸い込んでいく。
どくん。
深く重い鼓動が、翔の身体の下で一度だけ強く鳴った。
次いで、ぐんと強い力で上へと跳ね返された。
「……は?」
空中で一回転し、二度、三度とバウンドを繰り返し、ようやく静止した。
自分の荒い息遣いだけが耳に響いている。
翔は恐る恐る目を開けた。痛む箇所はない。四肢は動く。空は青かった。雲が、ゆっくりと流れていた。
「……なんだ、ここ」
身体を起こそうとして、手のひらで地面を突いた。
翔の手のひらが、自分の意志より先に、地面から引いた。
土ではない。草でもない。表面には苔のような細かな繊維が密生しているが、その下にあるのは紛れもなく「肉」の感触だった。
微かな温度を持ち、薄い皮膜の下で何かがうねっている。押すと少し沈んで、一拍遅れて弾力が返ってくる。
翔は手を離した。もう一度、押してみた。
どくん。
深く、重い振動が手のひらを通して伝わってきた。
一定のリズム。地面が、脈打っている。見渡す限りの大地全体が、このリズムに合わせて微かに上下していた。
「嘘だろ……」
頭が追いつかなかった。ここは地球じゃない。それどころか、ただの「地面」ですらない。生き物の上だ。
途方もなく巨大な何かの、背中。
翔はゆっくりと立ち上がった。足の裏から、鼓動が伝わってくる。一歩踏み出すたびに、その脈動が靴底を突き上げてくる。
慣れるものではなかった。それでも翔は立った。座り込んでいても、何も始まらないから。
あたりを見渡した。
遠くの地平線が、緩やかに湾曲している。巨大な白い骨格が山脈のように隆起しており、それにしがみつくようにして無数の構造物が密集していた。
蒸気が細く上っていた。生活の匂いがした。
足元には、小さな広場があった。
子どもたちが遊んでいた。掌より少し大きい丸い石のようなものが、地面すれすれでゆっくりと宙に浮いている。
一人の子どもが、その石を木の棒で思い切り叩いた。
こんっ、と軽い音が響き、石の割れ目から青白い液が一筋垂れた。
中から掌サイズの羽虫が大量に飛び出し、子どもたちが悲鳴と笑い声を上げて追い回し始めた。
誰も翔に気づかない。
翔は呆然と立ったまま、子どもたちを見ていた。
地面が生き物で、石が浮いていて、子どもが羽虫を追い回している。なのに、彼らは笑っている。
「痛かった?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。
年齢は自分と同じくらいだろうか。
純白の髪。
風に揺れる毛先が、周囲の光を吸い込んで淡く透けて見えた。
白いワンピースのような衣服を纏い、少しだけ首を傾げて翔を見下ろしている。
翔の心臓が、奇妙な跳ね方をした。
初めて会ったはずなのに。髪も目の色も違うのに。
どこかで、知っている気がした。
記憶ではない。もっと深い場所にある、説明のつかない引力だった。
「……君は」
少女は、少しだけ、微笑んだ。
「落ちてきたんだね」驚きもせず、ただ事実を受け入れるような口調だった。
「ここは……どこなんだ。これ、生き物の上なのか?」翔が足元を指差すと、少女は小さく頷いた。
「うん。空鯨の背中の上」
「空鯨……?」
「そう。みんな、この背中で暮らしてる」
少女が細い指先で遠くを指し示す。
翔はふらつく足で立ち上がり、その方向を、もう一度、見た。さっきより、細部が見えた。鉄管と石造りの建造物が、白い骨格にしがみついていた。街のあちこちから吹き上がる白い蒸気は、空鯨の開いた呼吸孔から漏れ出す息だった。
翔の足の震えが、止まらなくなった。
「どうしよう……俺、帰れないのか」
スマートフォンのない手。
握りしめていたはずの記憶。
電話の向こうにいたはずの誰かの名前が、どうしても思い出せない。
途方に暮れる翔の前に、少女がそっと歩み寄ってきた。
彼女が歩いても、地面は沈まなかった。翔が歩くと、翔の足の下だけ、少し沈んだ。
翔は気づいていた。でも聞けなかった。聞いてしまったら、冷たい霧の感触の意味まで変わりそうで。
「大丈夫」少女は、翔の顔を覗き込んだ。
近い。
その瞳を正面から見た瞬間、翔の呼吸が乱れた。
茶色と黒が混ざったような、静かな色の瞳。
どこかで見たことがある。
思い出せない。思い出せないのに、懐かしかった。
「わたしが、案内するから」
少女は翔に向かって、そっと手を差し出した。
だが、その手は翔の指先に触れる直前で、ぴたりと止まった。
少女が、わずかに目を伏せた。まつげが、影を落とした。それでも手は引っ込めなかった。ただ、触れる直前の距離で止まっていた。
「……君の名前は?」
「ミナ」
ミナ。その音を、翔は胸の奥で反芻する。
世界は広大で、得体が知れず、足元は鼓動を刻み続けている。
「……俺は、蒼翔。ソラって呼んでくれ」
翔は差し出されたままのミナの手に、自分の手を重ねようとした。
だが、はっきりとした感触はなかった。
冷たい霧に触れたような、おぼろげな温度だけがそこにあった。
ミナは、少しだけ笑って、背を向けた。
「行こう、ソラ。ここにいると、蝕獣に見つかっちゃうから」
翔は、もう一度だけ自分の手のひらを見た。
冷たい霧の感触が、まだそこに残っていた。
ミナの白い背中が、豊原盟市の朝靄の中へと溶けていく。
翔はもう一度、足元で鳴る重い鼓動を確認し、その背中を追って、得体の知れない世界への第一歩を踏み出した。
踏み出しながら、翔は、一つだけ、喉の奥に残っているものに気づいた。名前の、最初の一音だった。あ、と出かかって、その先が出なかった。続きは、空鯨の背中のどこにも、落ちていなかった。
どくん。
空鯨が、静かに呼吸した。




