帰還
ミナがほどけた後、脈塔の中は、少しだけ静かになった。
鼓動は続いていた。どくん、どくん。でも、ミナがいた場所の空気だけ、微かに薄かった。翔には、その薄さが、よく見えた。
カイが、壁際から振り返った。
翔はカイを見た。カイは、手帳を、まだ開いていた。開いたまま、一度も書かずに、しばらく立っていた。
カイは、手帳のページを、ゆっくりと閉じた。
閉じる動作が、いつもより長かった。紙と紙が触れる音が、しなかった。カイは、手帳を閉じてから、外套にしまわなかった。胸の前で、両手で持ったまま、柱の方を見た。
「行け」カイは言った。
それだけだった。
翔は頷いた。頷いてから、カイを、もう一度だけ見た。カイは、もう翔を見ていなかった。柱の方を見ていた。その横顔は、十年前、同じ場所で、別の誰かに同じ言葉を言えなかった人の横顔だった。言えなかった一言を、今日、別の弟子に向かって、言えた人の横顔だった。
「ありがとうございました」翔は言った。
カイは答えなかった。
答えないことが、答えだった。翔は、もうそれを知っていた。
翔は柱の前に立った。
鎧に、手を当てた。胸の前の螺旋の刻印が、ほんのりと熱を持ち始めた。
鼓動に、呼吸を合わせた。
豊原盟市の夜に、カイの家の床でやったのと、同じやり方だった。あの時は、髭紙が浮いた。今日は、自分が浮く番だった。
どくん。
どくん。
翔は柱に、掌を当てた。
掌の下で、白い液体が、翔の指先の方へ寄ってきた。引き込むようにではなかった。迎えるように、だった。翔は、その違いを、掌で感じた。
柱は、翔を引き込もうとしていなかった。柱は、翔を、押そうとしていた。
空鯨が、翔を、押し戻そうとしていた。
翔は目を閉じた。
目を閉じた内側で、翔は、空鯨の意志の縁に、もう一度、触れた。第四章で通り抜けていった重さが、翔の身体の中に戻ってきた。でも、今度は、重さだけではなかった。
その重さの底の、もう一つ下に、もっと小さな、もっと静かな動きがあった。
終わらせることをやめた動きだった。
誰か一人が、最後まで応えようとしていると分かった時に、空鯨が、身体の中の深いところで、疲れることをほんの少しだけ中断した、その動きだった。
空鯨は、翔を押し戻した。終わりにする意志を、一度だけ、翻した。それは、ミナが戻るという、同じ運動への、肯定でもあった。同じ方向を向いた二つの動きの、どちらも、原点に帰る動きだった。
翔の足が、床に吸い込まれていく感覚があった。
吸い込まれる、というのは、正しくなかった。床と一体になっていく感覚だった。翔の鼓動と、空鯨の鼓動が、重なっていった。どくん。二つが、一つになった瞬間があった。
視界が、白くなった。
鼓動は、もう、足の裏からは来なかった。
上から、来ていた。
聖都の城壁の上で、シルバは夜明けの空を見ていた。
交代を断り続けていた。城壁の上でしか、感じ取れないものがあった。
その朝、夜明けの少し前、シルバは、足元の鼓動が、一度だけ、強く、穏やかに鳴るのを聞いた。
これまで聞いた中で、一番静かな、強さだった。
シルバは、目を閉じた。しばらく、閉じていた。それから開いて、立ち上がった。
城壁を降りた。
宿の方へは、戻らなかった。聖塔の入口の方へ、歩いた。アルナには、あとで会う。今は、一人で、歩きたかった。
同じ頃、聖都の内廷で、アルナは、窓を開けていた。
夜明け前の風が、部屋に入ってきた。アルナは、その風の中に、これまでとは違う匂いが混じっているのに気づいた。蒸気の匂いでも、脈石の匂いでもなかった。もっと遠い場所の、もっと違う空気の匂いだった。
アルナは目を閉じた。それから、小さく、頷いた。
「帰れましたね」
誰に言ったのでもなかった。でも、誰かが、聞いていた気がした。
翔は目を開けた。
天井があった。蛍光灯が一本、点滅していた。廊下の端。機械室の前。見覚えのある、夜の学校の廊下だった。
手の中に、何もなかった。
翔は立ち上がった。膝が笑っていた。廊下の壁を掴んで、体を支えた。息を整えた。
どくん。
心臓が鳴った。自分の心臓だけが、鳴っていた。足の裏から、鼓動は来なかった。
でも、帰るまでの最後に、一度だけ、足の裏ではない場所から、鼓動が鳴った気がした。どこか遠くで、穏やかな、強い鼓動が。聞いた、と確信するには弱い感覚だった。でも、聞いた。
翔は廊下を見た。蛍光灯が点滅していた。廊下の先に、教室があった。翔は歩き始めた。




