別れ
ミナが、翔の前に立っていた。
柱の中で、白い液体が、翔を待っていた。
ミナと翔の間には、ほんの数歩の距離があった。二人とも、その数歩を、まだ、つめていなかった。
翔は、ミナを見た。ミナは、翔を見ていた。
「ミナ」
「うん」
翔は、言葉を探した。言葉は、一つしかなかった。でも、一つでは足りない気がした。一つの言葉の手前に、置いておかなければならないものが、いくつかあった。
翔は、喉の奥で、一度、息を整えた。整えてから、その言葉を、口の外へ出した。
「ありがとう」翔は言った。
ミナは、少しだけ目を開いた。ありがとう、を、ミナは翔から、これまで一度も聞いたことがなかった。翔も、自分で、今日まで言えなかった。
「何に」ミナは言った。
「落ちてきた日から、今日まで」翔は言った。「全部に」
ミナは首を振った。「お礼、言われることじゃない」
「言いたい」翔は言った。「お礼じゃなくても、言いたい」
ミナは、もう首を振らなかった。
翔は続けた。
「ここにいてくれた」
「うん」
「俺が、足の裏から来る鼓動に慣れるまで、隣にいてくれた」
「うん」
「豊原盟市の夜も、灰骨砦の夜も、月夜平原の夜も、ミミが倒れた朝も、ずっと、隣にいてくれた」
ミナは答えなかった。でも、答えないことが、今日は「うん」と同じ意味だと、翔には分かっていた。
「見ていてくれた」翔は言った。
「見てた」
「俺が、どれだけ不格好だったか、一番よく知ってる」
「知ってる」ミナは小さく笑った。「一番よく」
笑いの残りが、ミナの唇の端に、少しだけ、留まっていた。翔は、一度、瞬きをした。
翔は、その笑いを見た。見て、ミナの顔の、少し前まであった観測者の輪郭が、この一瞬で、やわらかく崩れているのが分かった。
崩れていく時間は、翔が思っていたよりも、長かった。
観測者の顔が脱げる、という言い方で翔は理解していた。でも、それは、一瞬のことではなかった。ミナはゆっくりと、一呼吸ずつ、その顔を下ろしていた。一呼吸目で目の奥の遠さが消え、二呼吸目で口の端の張りが緩んで、三呼吸目で——
三呼吸目で、ミナの顔から、「観測する」という姿勢そのものが、抜け落ちた。
翔は、その顔を見た。
それは、ミナの、本当の顔だったかもしれないし、ミナが翔のために最後に借りた、もう一つの顔だったかもしれなかった。どちらでも、同じだった。翔にとっては、同じだった。
「好きだ」翔は言った。
ミナは、一拍だけ、息を止めた。白い髪が、橙色の光の中で小さく揺れた。それから、小さく笑った。いつもの笑い方だった。でも、目の奥が違った。
「……知ってた」
「言わないと、俺が後悔するから言う」
「……うん」
ミナは俯いた。少しの間、動かなかった。
動かない時間を、翔は、急がせなかった。ミナが、何かを、中で整えているのが、翔には分かった。整え終わるまで、翔は、自分の呼吸も、止めなかったし、深くもしなかった。ただ、立っていた。
それから顔を上げた。
「わたしも」ミナは言った。「好きだよ。ちゃんと、好きだよ」
その声が、翔の耳に刻まれた。
言い終わったあと、ミナは、翔の方ではなく、ほんの一瞬だけ、翔の肩越しの、柱の向こうの何もない空間に、視線を送った。送って、すぐに、翔の方に戻した。見送る、というには短すぎる視線だった。でも、見送った、という形の視線だった。翔は、それが何を見送ったのか、この場所では分からなかった。分からないまま、視界の端に、小さく、その動きが残った。
「ミナ」翔は言った。
「うん」
翔は、ミナの手を取ろうとした。ずっと逸らし続けていた手を。
翔の手と、ミナの手の間には、ほんの十数センチの距離があった。翔は、その十数センチを、一息で詰めなかった。ゆっくりと、腕を、前へ出した。ミナは、手を引かなかった。
冷たかった。霧に触れるような感触だった。でも今日は、指の形があった。翔はその手を、両手で包んだ。
翔の右の親指が、ミナの手の甲の上に置かれた。そこだけ、霧ではない、微かな輪郭が、あった。
ミナの指が、翔の手の中で、ほんの少しだけ動いた。握り返そうとしたのだ。力にはならなかった。でも、動いた。その動きが、翔の手のひらに残った。残り続けると思った。帰った後も、自分の手のひらの感触として、残り続けるのだと。
「覚えていていいか」翔は言った。
ミナは少し間を置いた。「覚えていて」ミナは言った。「忘れないで」
翔は頷いた。
ミナの指先から、白い光の粒子が、少しずつ、零れ始めた。
手首から、肘から、肩から、順に、ミナの輪郭が、粒子に変わっていった。消えているのではなかった。戻っていた。脈塔の柱の中の、白い液体の流れへ、ミナの形が、ほどけるように戻っていっていた。
翔の手の中で、ミナの手の感触が、段階を追って、薄くなっていった。最初は霧、次に冷気、次に空気よりも少しだけ重い何か、その最後に、翔の両手が、互いに触れ始めた。
翔は、その速度を、最後まで見ていた。
急がなかった。ミナも、急がなかった。二人とも、急がないことを選んでいた。
「ソラ」ミナが言った。
声は、もうすぐ、聞こえなくなるかもしれなかった。
「うん」
「覚えていて」
「覚えてる」
「帰っても」
「帰っても」
ミナの白い髪が、最後に、一度だけ揺れた。
それから、ミナの輪郭が、柱の側へ、完全にほどけた。翔の両手の中には、何もなくなった。霧の感触だけが、手のひらに、少しだけ残っていた。その霧が乾く前に、翔は、両手を握り締めた。
どくん。柱が、一度だけ、強く脈打った。
ミナが、戻った。




