名前
翔は目を閉じた。
さっきの二音を、もう一度、喉の奥で鳴らした。
「あ、お、」
三音目は、まだ出なかった。でも、二音目の「お」が残した振動が、翔の喉の、もう少し下の方で、続いていた。その振動が、翔の体の中を、ゆっくりと降りていった。
喉から、胸へ。
胸に降りた時、振動は一拍止まった。止まって、翔の肋骨の内側で、何かを探すように、小さく揺れた。
胸から、腹へ。
腹から、足の先へ。
足の先まで降りた時、翔の足の裏が、鼓動を感じた。
脈塔の鼓動ではなかった。もっと遠い場所の鼓動だった。翔の世界の、夜の学校の廊下の、あの夜の、翔自身の心臓の鼓動だった。
蛍光灯が、点滅している。
翔は、まだ目を閉じたままだった。でも、見えていた。廊下の端の、機械室の前。蛍光灯が一本、点滅している。冬の廊下の、乾いた空気。上履きのゴムが、床を踏むたびに鳴っていた小さな音。翔は、その下で、スマートフォンを握っている。
画面に、発信中と出ている。
発信中の宛先に、名前があった。翔は、目を凝らした。
「あ、お、」
二音が、また出た。名前の、まだ半分だった。
翔は、画面を、もう一度見直した。
画面の下の方に、もう一つの文字列があった。発信中の文字とは違う種類の文字だった。翔は、その文字列を、今まで、見ていなかった。
名前の下に、時刻があった。画面の別の場所に、「着信 10分前 1回 不在」と、小さく出ていた。
翔は、息を止めた。
「……一回」
声に出した。自分の声で、初めて、それに気づいた。
声に出した音が、先に、翔の耳に届いた。意味は、少し遅れて届いた。意味が届いた時、翔の手が、一度、握られて、開いた。誰が握ったのか、翔にも分からなかった。
あの夜、翔は折り返そうとしていた。ずっとそう思っていた。折り返せなかった電話、とミナにも言った。カイにも、そう説明した。自分でも、そう記憶していた。
違った。
折り返そうとしていたのは、正しい。でも、それは、一回鳴って切れた電話への、折り返しだった。翔がかけた発信ではなかった。翔の方から、届けに行こうとした電話ではなかった。先に、向こうから、一度だけ、鳴った電話だった。
翔は、その一回を、忘れていた。
忘れていたというより、見ていなかった。「言えなかった言葉がある」という形で記憶を整理した時に、翔は自分が先に手を伸ばそうとしていた、という物語に、自分を置いていた。先に手を伸ばしたのは、翔ではなかった。翔は、先に手を伸ばしてくれた誰かに、応えようとしていた。
「ミナ」翔は目を閉じたまま、言った。
「うん」
「一回、鳴ってた」
「……うん」
「俺は、折り返そうとしてたんじゃない。応えようとしてたんだ」
「うん」
ミナは、それ以上、何も付け加えなかった。ミナが知っていたから、翔は確信できた。
ミナは、一度、口を開きかけた。開きかけて、そのまま、閉じた。言おうとして、言わないことを選んだ、という形の閉じ方だった。翔は、目を閉じたままだったが、ミナの呼吸のリズムで、それが分かった。
翔は目を閉じたまま、もう一度、発信中の画面を見た。
宛先の名前が、今度は、全部見えた。
「今村葵」
翔は、口の中で、呟いた。
名前が、戻ってきた。
戻ってきた瞬間に、翔は、葵の顔を見た。目を閉じたまま、見えた。窓際の席で、いつもシャープペンを走らせていた横顔。教室の騒がしさの中で、一人だけ声のテンポが違った人。呼ばれても振り返れなかったのは、振り返ったら、自分の心臓の音が、葵に聞こえてしまう気がしたから。
それから、もっと小さな破片が、続けて戻ってきた。廊下ですれ違った時の、消しゴムのにおい。一度だけ、葵が本を落として、翔が拾って渡した時の、指先の触れ方。梅雨の教室で、葵の髪が雨の日だけ少し膨らんでいたこと。
葵が、一回、電話をかけてきた。
それは、葵にとって、どれくらいの勇気だったのだろう。翔は今、自分が葵に向かって、一回の呼び出しすらできないまま落ちてきたことを、思い出した。葵は、翔ができなかったことを、先にやっていた。一回だけ、やって、続けられずに切った。その一回を、翔は、気づかないまま、折り返そうとして、落ちた。
葵は、今、どこにいるのだろう。
自分の部屋で、あの一回のことを、数えているかもしれない。あの一回を、かけなければよかったと、思っているかもしれない。自分の一回が、翔を消したのだと、思っているかもしれない。
思っているはずだと、翔は、今、分かった。
葵は、自分のせいだと思っている。
翔が帰らなければ、葵は、一生、自分のせいだと思い続ける。翔が帰ることは、葵の一回を、受け取るということだった。受け取って、「それでよかった」と、葵に、返すということだった。
翔は目を開けた。
ミナがいた。
ミナの白い髪。その耳に、髪がかかっていた。葵の横顔の、黒い髪の耳のかかり方と、まったく別の仕方で、ミナの髪は耳にかかっていた。似ていなかった。二人は、違う人だった。ただ、翔の中で、一度だけ、重なった。
翔は、しばらく、ミナの耳のかかり方を見ていた。見ているうちに、もう重ならなくなった。重なったのは、さっきの、一度だけだった。
翔は、ミナの髪を見たまま、言った。
「ミナ」
「うん」
「俺は、帰って、葵に、応えないといけない」
ミナは、頷いた。
「行っておいで」ミナは言った。
翔は頷いた。
柱の中で、白い液体が、ゆっくりと、上から下へ、一筋、流れた。翔は、その一筋が、流れ切るのを、最後まで見届けた。




