空の下
教室の前で、翔は立ち止まった。
ドア越しに、誰かの気配がした。まだいる。夜の学校に、一人で残っている。
翔は深呼吸した。何から言えばいいか、分からなかった。この廊下を歩いた記憶が、ゆっくりと戻ってきていた。一回だけ鳴って、切れた着信履歴。折り返せなかった電話。窓際の席。目が合いそうになるたびに、翔は視線を逸らし続けた。何度も。何度も。
その手が、今もドアの向こうにある。
名前が、戻ってきた。
葵。
そうだ。今村葵。窓際の席で、いつもシャープペンを走らせていた。横顔の耳に、黒髪がかかっていた。一度だけ翔に電話をかけてきた。翔が折り返せなかった相手。言えなかった言葉を向けようとしていた相手。
——違う。翔は立ち止まったまま、小さく首を振った。先に手を伸ばしたのは、葵の方だった。
翔はドアに手をかけた。引いた。
今村葵は、窓際の席にいた。窓の外の夜空を見ていた。翔が入ってきた音で振り返った。
目が合った。
葵は一度、大きく瞬きをした。それから、机の上を見た。シャープペンが置かれていた。その隣に、折り畳まれた小さな紙が置いてあった。紙は、四角く折り畳まれて、誰かに渡す形をしていた。翔はその紙に気づいた。
紙の角が、少しだけ擦れていた。一度折り畳んで置いたきり、ずっとそこに在った紙の角ではなかった。何度か、指で触れられ、向きを変えられ、また同じ向きに戻された。そういう擦れ方だった。翔は、葵がこの教室に何度も戻ってきていたことを、その小さな擦れから、受け取った。戻ってきて、紙に指を置いて、また置いて帰る。それを、翔がいない間、葵は繰り返していた。翔が消えてから、今日までの日々の分だけ、紙の角が擦れていた。
葵も、翔がそれに気づいたことに気づいた。
葵はゆっくりと、その紙を手のひらで覆った。隠した、というより、守った。
「……蒼翔くん?」葵は目を見開いた。「急にいなくなったから、みんな探してたんだよ?」
翔は葵を見た。思い出した。この顔を。この声を。この、少しだけ低い、落ち着いた声。葵はいつもそうだった。教室の騒がしさの中で、一人だけ声のテンポが違った。その声で呼ばれた時だけ、翔は振り返れなかった。振り返ったら、心臓が跳ねるのが分かってしまうから。
「……電話、折り返せなかった」翔は言った。「ずっと、言えなかったことがある」
葵は少し目を細めた。「電話して正解だったかな、ってずっと思ってた」
その声が、わずかに震えていた。翔は気づいた。葵は、ここで誰かを待っていたのだ。翔を、だった。いなくなった翔を、探されていた間、葵は一人で教室に残って、机の上の折り畳んだ紙を、時々触っていたのだ。
「違う」翔は言った。
葵が目を上げた。
「一回、鳴ってただろ」翔は言った。「あの夜、葵が俺にかけた電話。それを、俺、今、ちゃんと覚えてる」
葵は、息を、短く止めた。
「葵が、先に、電話してくれた」翔は続けた。「それを、俺、長い間、忘れてた。ずっと自分が、葵に電話しようとして落ちたんだと、思ってた。違った。葵が先に手を伸ばしてくれて、俺はそれに応えようとしてた。それで、落ちた」
葵の手が、覆っていた紙を、わずかに動かした。
「……じゃあ、やっぱり」葵は小さく言った。「わたしが、電話したから、蒼翔くん、いなくなった……?」
「違う」翔はすぐに言った。「逆のことを、言ってる」
葵は黙った。
翔は、一度、息を整えた。この言い方しかないと、翔は思った。
「葵が電話してくれなかったら、俺、葵に応える機会を、一生、持たないまま生きてた。一回の呼び出しがあったから、俺は折り返した。折り返したから、応える時間が、俺の中に、生まれた。あの事故は、葵のせいじゃない。葵の電話が、俺に、応える側の時間をくれた」
葵の目の縁に、水の膜が、一瞬だけ膨らんで、すぐに引いた。
葵はそれを、瞬きで、内側に戻した。
「……遠い、話、してる」葵は言った。「分からないところが、たくさんある」
「だろうな」翔は言った。「でも、葵のせいじゃない、って部分だけは、先に、信じてくれ」
葵は、少し頷いた。頷き方が、信じるというより、信じたい、という頷き方だった。それで、翔には充分だった。今夜すべてを解かなくてよかった。葵が自分のせいだと抱えてきたものを、少しだけ緩める、それだけで、今夜は足りた。
「正解だ」翔はドアから離れ、一歩、教室の中へ踏み込んだ。
「葵」
翔は、声に出して、その名前を呼んだ。一音ずつ、三文字を、全部、口の外へ出した。教室の中に、葵の名前が、音として立ち上がった。葵は、その音を聞いて、短く、息を吸った。翔がその名前を口にするのを、葵は、これまで一度も、聞いたことがなかった。
「お前のことが好きだ。ずっと言えなかった。だけど、言わないままでいたくなかった」
葵は、その言葉を、聞いた。
聞いた瞬間、葵の肩が、微かに動いた。動きというほどの動きではなかった。空気の揺らぎのような、ほんの一瞬の反応。葵自身がそれに気づいて、気づかなかったことにした。何かを思い出しかけた顔があった。思い出せないまま、その顔が消えた。葵は首を小さく傾けて、自分の中の、その小さな既視感を、棚に戻した。
葵は少し間を置いた。それから、小さく笑った。その笑い方が、誰かに似ていた。
——ああ、そうか。
翔は胸の奥で、静かに理解した。ずっと葵の名前を思い出せないまま落ちた自分が、あの世界で出会った白い髪の誰かの中に、思い出せなかった葵の面影を、ずっと探していたのだ。別の存在だった。それは間違いない。でも、翔の中で二人は、深いところで一度だけ触れ合っていた。それだけで、充分だった。
「遅いよ」葵は言った。「でも、聞けてよかった」
葵の手のひらの下で、折り畳まれた紙が、わずかに動いた。葵はその紙を、ほんの短い間、もう一度見下ろした。
「……この中に、わたしの、言いかけたことが、書いてある」葵は言った。「もう、書いてあるだけでいい気がする」
翔は何も聞かなかった。聞く必要がなかった。紙の内容は、既に翔に届いていた。葵の手の中で、紙は形を保って、その形だけで、全部を言っていた。
葵はその紙を、机の引き出しの奥へ、そっと滑り込ませた。隠したのではない、と翔は分かった。もう必要なくなったから、しまったのだ。
翔は教室の中に入った。窓際の席まで歩いた。葵の隣に、立った。
窓の外に、夜空があった。翔の身体がまだここを知らなかった。足の裏から鼓動は来ない。空鯨の呼吸は聞こえない。でも、自分の心臓が鳴っていた。どくん、どくん、どくん。それで良かった。
翔は夜空を見た。どこかにいる白い髪の誰かのことを、少しだけ思った。あの子は今も、空鯨の背中の上で世界を見ているのだろうか。月夜の夜に笑っていた灰色の耳のことを、少しだけ思った。
「どうしたの」葵が翔の横顔を見て、言った。「なんか、少し変わった気がする」
翔は、答えるより先に、足の裏に、ほんの一瞬、何かが鳴ったような気がした。
それは、鼓動ではなかった。正確には、鼓動ではなかった。こちらの世界の床は、そういう鳴り方をしない。でも、翔の体のどこかに、あの世界の鼓動の記憶が、微かに反応した。教室の床の方ではない、もっと遠い場所から、ごく短く、一度だけ、鳴った。聞いた、と思った瞬間には、もう消えていた。
気のせいだ、と翔は自分に言った。気のせいでいい、とも思った。聖都の共鳴路には、翔の波長が、微かに残っているはずだった。残した自分の一部が、向こう側の鼓動を、時々、この世界まで運んでくる。そういうことかもしれなかった。確かめる術は、もう翔にはなかった。確かめなくてよかった。
翔は葵を見た。黒い髪が、耳にかかっていた。葵は、その髪を一度だけ、指先で耳の後ろへ払った。何気ない仕草だった。翔の胸の奥で、その仕草が、脈塔で最後にミナが見せた仕草と、どこか遠いところで重なった。似ていたのではない。まったく別の仕草だった。ただ、翔の中でだけ、二人の女の子の仕草が、一度だけ響き合った。
それで、充分だった。
「少しだけ遠いところに行ってた」翔は言った。「その話、いつか聞いてくれるか」
葵は少し首を傾けた。
「聞く」
夜風が窓の隙間から入ってきた。春の終わりの、少しだけ湿った風だった。翔はその風の匂いを、思い出した。この匂いを、この国で、この季節に吸う習慣を、翔は体の奥に持っていた。空鯨の背の上では、こんな風は吹かなかった。蒸気の匂いと、胞子の匂いと、伴生獣の肉を燻す鉄錆の匂いと、そういうものの中に翔はいた。それが、今は遠かった。でも、消えてはいなかった。
葵が、窓の外を見た。翔も、葵の視線の先を追った。月が、薄い雲の向こうにあった。豊原盟市の夜空に出ていた月と、同じものなのかどうか、翔には分からなかった。分からないまま、見た。
葵の黒い髪が、風で一度だけ揺れた。翔はその揺れを、見ていた。
「蒼翔くん」
「なに」
「帰ってきて、よかった」
葵はそれだけ言った。翔の方は見なかった。窓の外を見たままだった。
それから、少し間を置いて、葵はもう一言、付け足した。
「でも、まだ、全部は、分からないから」
翔は少し驚いて、葵を見た。葵は窓の外を見たままだった。でも、声が、翔に届いていた。確かに届いていた。葵が、自分の時間を、翔に預けきらずに、少しだけ手元に残した声だった。
「ああ」翔は答えた。「それでいい」
「それでいい、って」
「急がなくていい」
葵は小さく頷いた。頷き方が、まだ完全には届いていなかった。でも、届きかけていた。翔は長い息を吐いた。体の中から、重いものが一つ、外へ出ていった気がした。
「ああ」翔は答えた。「帰ってきた」
翔は目を閉じた。
その夜、葵は白い髪の女の子の夢を見た。知らない誰かだった。でも、どこかで会ったことがある気がした。夢の中でその子は、翔の名前を呼んでいた。声が、どこかに届くように。ちゃんと届くように。
葵はその声を、目覚めた後も、しばらく覚えていた。名前は分からなかった。でも、その子が翔を大事に思っていたことだけは、分かった。葵は窓の外の夜空を少しだけ見た。月は、雲の向こうに消えていた。それから葵は、ふたたび目を閉じた。今度は夢を見なかった。
どくん。
二つの世界の底で、空鯨が静かに呼吸した。




